さて、一方。冬瑠はと言えば、健康サンダルを引き摺るようにしてマンションへ戻る道を歩いている最中だった。すっかり肩を落とし、俯いている。
灯月の機嫌を、どうやら自分は酷く損ねてしまったらしい。
彼女はその事実に、自分でも驚くほど、ショックを受けていたのだった。
いや、違う。彼女はそこまで考えて不機嫌になった灯月のことを思い出し、思い出しながら、顔を覆いたくなった。
「…違う、あたし、…」
そもそも冬瑠は、灯月に、一年以上前に「そういうこと」をする相手が居たことを知らなかったことが、ショックだったのだ。それがずっと、彼女の中で衝撃として残っていたのだった。
「……そりゃそーよね、星原君だっていい歳だもの、カノジョの一人や二人居てもおかしくな…ああ、二人も居たらおねーさんとしては叱るべきかもしれないけどっ…」
でも、と冬瑠はますます落ち込みながら考える。灯月は、常にかけているあの伊達眼鏡を外せばそこそこ整った顔立ちだし、それに愛想は良くないけれどそれを補って余りあるあの義理堅さがある。頭も良いし、冬瑠の知る限り運動神経もなかなかのもの。家庭環境は少々難アリだが国立の大学生だ、将来性は問題無い。
(『優良物件』よね、星原君って…)
彼がその気になりさえすれば、引く手数多に違いないのだ。現実的でシビアな目を持つ世の女性達にも相当に良い評価をされるはずだ、彼ならば。
そして冬瑠は見た目こそ清楚なお嬢さんだが、それなりに「今時」の女性である。貞操観念というものについては、彼女も柔軟な考え方の持ち主だった。「彼氏彼女」という関係になったのなら、そりゃあ、
(…そういうこと、も、するわよね…)
そういうこと。つまり、「赤ちゃんが出来るようなこと」だ。
「分ってるわよ、今時『結婚するまでしちゃ駄目』なんてあたしだって言わないわ。お互い求め合ってるならそういう展開になるのはごくごく自然なことであって。いえ別に身体の関係が全てだとは言わないけど!」
一人でぶつぶつ呟きながら俯き加減に歩道を歩く。人気の無い場所だから出来ることだった。人通りの多いところでこんな奇行に走れば周囲の人々に不審な目で見られること間違いなしの姿である。
「あああ、でも、違うのよ、あたしがこんなに落ち込んでるのは…星原君が!彼女が居たのなら居たって、あたしに教えてくれなかったってことよ…!」
――冬瑠は、灯月のことを心底から「家族」だと思っている。
灯月が自分に隠し事をしていた、という事実は、冬瑠に手痛い衝撃を与えていた。彼女は今更、当たり前の事実を突きつけられたような気がして、それが酷く寂しくてならなかったのだ。
―――あたし達は、所詮、偽りの家族に過ぎない、という事実。
冬瑠には家族が無い。一方、灯月は家庭環境に恵まれなかった。だから、互いに傷を舐めあうように傍に居るだけだ。だから、二人の関係は友人ではない。むしろ家族に近い。
そのことは、冬瑠も自覚していた。が、矢張り、こんなことで自分が彼にとって他人なのだと、突きつけられるのは、身に堪えた。
だからこそ、だろう。あの時、赤ん坊を灯月に見せた時、あんなにも自分が苛立ったのは。
……ここで「嫉妬」などという単語がほんの少しでも彼女の脳裏に浮かんでくれれば、四年間ひたすら冬瑠を想い続ける灯月の苦労は半減するのかもしれない。が、これは、無いものねだりと言うものである。ここでは追求しないことにしよう。
「カノジョが出来たのなら言ってくれれば休みの日に買い物に付き合わせたりなんてしないのに。それにほらどんな子かあたしも興味あるし…どんな子だったのかな。あたしの知ってる人だったのかしら…そういえば星原君って年上趣味だって火蝶ちゃん言ってたっけ。個人的には一緒にお買い物とか出来る可愛い女の子だと嬉し…」
低く呟く言葉は唐突に途切れた。路地から全く前触れも無しに、一人の女性が飛び出して来たのだ。驚いた冬瑠が身をかわす暇も無く、小柄な彼女の身体は歩道に叩きつけられる。膝を強かに打ちつけた冬瑠だったが、冬瑠にぶつかった人物は、飛び出してきた勢いそのままによろめいて車道へ飛び出し、勢いを殺しきれずに転倒した。
「いたた…だ、だいじょうぶ、ですか?」
打ち付けた膝を庇いながら冬瑠が問い掛けたが、転倒した女性は弱々しく立ち上がり、そのまま駆け出そうとする。だが。
「待てぇ!」
「見つけたぞ、このアマ!」
下品な罵声と同時に、今度は路地から次々と大柄な男達が飛び出してくる。更には車道を挟んだ反対の歩道にも。
「くそ、てこずらせやがって」
「舐めた真似してくれやがったなァ、相談屋よぉ!」
立ち上がった女性は、車道の中央で立ち往生する羽目になった。険しい表情のまま、自分を取り囲んだ男達を睨み据える。
――化粧が汗で落ちてしまったその顔は、決して、美人とは言えない。だが強い意志を宿す瞳の女性だった。
擦り剥いた膝と頬、それに少しばかりくたびれた印象のある衣服、しかも何故か裸足である。冬瑠はさすがにその女性の姿には顔を顰め、そうして改めて彼女を取り囲むようにしている男達を観察した。
それから無造作に、女性に近付く。腕を、掴んだ。
最初はぎょっとしたらしい女性だったが、
「…追われてるんですか?」
冬瑠の言葉に、少し目を瞠ってから、歯を見せて微笑んだ。八重歯が鋭く、まるで牙のようにも見える。
「ドジっちゃってね」
息も上がっていたのだが、女性の口調は軽い。
「参ったな。依頼も果たせないなんて…あの子だけは、無事な場所に送り届けたけど…」
「事情は分りませんが、」
呻く女性を遮って、冬瑠はき、っと周囲の男性を見渡した。
「女性一人にこの人数なんて、まともな人のすることじゃありません。手を貸します。」
言いつつ、冬瑠は健康サンダルを脱ぎ捨てる。女性の手を、握りなおした。
「おい、お嬢ちゃん!何のつもりだか知らネェが、そのアマ庇うつもりだってんなら痛い目見てもらうぞ!」
言いながら、男の一人が手にした警棒を弄いながら近付いてくる――
冬瑠はすぐさま、女性の手を引いた。迷うことなく、その男目掛けて真っ直ぐに走る。
「逃げましょうッ!」
よもや自分に向かって進んでくるとは思わなかったのだろう、一瞬怯んだ男に向かって、全速力で駆け抜ける。普通ならば、躊躇うだろう。だが、灯月や詩律、更に幼馴染の「情報屋」火蝶と行動を共にすることの多い冬瑠は、こういった荒事にはそれなりの耐性があった。大振りな男の一撃を冷静にかわすと、男はそのまま勢いでよろけてしまう。
「今のうち!」
「わ、分った!」
冬瑠に強く手を引かれた女性もその意図を察して走る速度を上げる。突然の冬瑠の乱入に戸惑ったらしい男達の、特に包囲の手薄な一箇所を、迷うことなく冬瑠は突破した。捕らえようと手を伸ばす男達の、そのリーチの届かない、ギリギリの隙間を駆け抜け、彼女はビルとビルの隙間、大人一人がやっと通れるほどの幅の、道とも言えぬ場所へと逃げ込む。
この道の先は、大通りに繋がっている。
「人通りの多い場所へ行けば、手荒な真似は出来ないわ」
走りながら言う冬瑠に、女性は荒い息の下で小さく礼を述べた。
「ありがとう、でも、あなた一体――ウチの援軍は、まだ到着しないはず…」
「何の話?」
高いビルの隙間、薄暗い場所から、明るい大通りへと出て、目を瞬かせながら冬瑠は笑って言った。
「目の前でたった一人がよってたかっていじめられてるのに、見ない振りするなんて嫌。…あたしはそんな『自分』にはなりたくないのよ、それだけ」
ふぅ、と息をついて、女性もその笑みにつられたように笑う。汗で前髪が額に張り付いて、化粧もボロボロだけれど、瞳はきらきらしていて、いいな、と冬瑠はちらとそんなことを考えた。
「あなた、私の知ってる人に似てるわ。あいつは特大の馬鹿でカッコよかったけど、あなたもなかなか素敵ね」
女性はそこまで言って、張り付いていた髪をかきあげた。微笑む。
「私、雪野。雪野雪希って言うの。助けてくれてありがとう。あなた、名前は?」
「逃がした、だと?」
「ええ、すみません…それがあのアマ、もう援軍と合流したようで」
「早いな」
冬瑠と女性――雪希が逃げてからしばし後。冬瑠の脱ぎ捨てたサンダルの置き去りにされた道で、厳つい男が、一人の男性を前に項垂れていた。周囲にはもう、先ほどの男達の姿は無い。それぞれに、彼らの「標的」を捜索に向かったのだ。
報告を受けていた男性――スーツを几帳面に着込み、派手な牡丹柄のネクタイを締めたその人物は眉根を寄せる。
「援軍」――恐らくあの女性、雪希と言う名の「相談屋」は、「逃がし屋」と接触しようとしていたはずだ。もしかすると他に護衛も要請しているかもしれない。
相手がプロの「逃がし屋」ともなれば、いかに彼らといえど少々、分が悪い。だからこそ、彼らは雪希が「逃がし屋」と接触する前にどうにかして押さえたかったのだ。だが。
報告では、どうやらこの決して広くない路地で、「相談屋」は一人の人物と接触し、あまつさえその人物の手引きで包囲を抜け出したらしい。恐らく、「逃がし屋」なのだろう。(実際はそれは逃がし屋などではなく、「単なる通りすがりのお人好し」なのであるが、そんなことを彼らが知る由があろうはずもない。冬瑠の逃げっぷりがあまりに鮮やかだったこともあり、彼らは誰一人「あれが逃がし屋だ」ということを疑わなかった)
「逃がした、ですって!?」
そこへ、金切り声が割り込んで、男は僅かに眉根を寄せた。狭い車道に、不似合いに大袈裟な高級外車が止まっている。
声は、その車内から響いていた。癇の強い、女性の金切り声だ。耳を塞ぎたくなるのを堪え、男はそちらへと向き直った。内心でうんざりしているのが顔に表れていないことを、信じても居ない神に祈っておく。
「落ち着いてください、奥様」
「これが落ち着いていられますか!あの女は、よりによって我が一族の血筋に泥を塗ろうとしているのですよ…!」
「ええ、存じております。ですからこうして追跡を…」
「逃げられては意味が無いではありませんかッ!!何の為に、お前達のような者を雇ったと思っているのです!!」
車内の声が甲高さを増し、ちらと見遣った先では部下の男がそっぽを向いている。聞こえぬように舌打ちをしてから、男は、癇癪を起こした子どもに言い聞かせるような調子で辛抱強く続けた。
「承知しております。奥様。あの忌々しい人間にお嬢様を渡すような真似はいたしません。」
「そう言いながらあの女にゆめゆめ娘を奪われ、今も逃げられたと言うではありませんか!」
女の声が興奮を帯びるにつれ、スモークガラスで光を遮られた車内にひやりと冷たい空気が混じる。それは例えでも何でも無く、女性の強く握り締める指先ではきらきらと氷の粒が生まれている。
「忌々しい、雪野の血筋め…」
歯噛みをするように女が呟き、スーツの男は丁重に同意を示した。その点に、異論はあろうはずもない。そして、女を落ち着かせる材料となる情報をここで提示することにした。
「奥様。雪野の娘は、今、お嬢様とご一緒ではありません。あの女、どうやら何処かにお嬢様を預けたようですね。」
「…賢しい女だこと」
囁いた女の独白は聞かなかった振りを決め、男は言葉を続ける。この女性は、確かにヒステリックで厄介なのだが、金払いの良い依頼主である。必要以上に機嫌を損ねることは避けたかった。
「雪野の娘こそ逃がしましたが…奥様。雪野の、協力者だった人物がこの近くに住んでいるらしいことが判りました。恐らく、お嬢様はその人物に預けられているのではないかと」
ぴくりと、女の柳眉が跳ね上がる。それからにわかに猜疑心を露にして、男を睨むように見据えた。
「…本当でしょうね?」
「可能性に過ぎません。確証はありませんが、確かめてみる価値はありましょう」
「…」
僅かに何事か考え込んでから、女は目を細め、頷いた。
「分りました。任せましょう」
それきり、男が慇懃に礼を返すのも待たず、車のウィンドウが閉まる。
そうして路地から不似合いな車が去ってしばし、男達はてんでに溜息だか、悪態だか、その両方だかを吐き出した。
「払いのいい依頼人だが…全く、たまらねぇですぜ」
「全くだ。だが、機嫌を損ねないのも仕事の内だろう」
スーツの男はそう応じ、周囲に指示を出した。
「…例のマンション、探りに行って来い。怪しまれるなよ。」
「へい。若はどうなさるんで?」
「俺は雪野の娘を追おう。あの娘に恨みは無いが、これも依頼だからな。」
言いながら男が腕を振る。それだけの仕草で、男達は一斉に、路地から姿を消していった。
――近所では「幽霊マンション」としか呼ばれないその建物は、正式な名前を「ホワイト・フレグランス」と言う。何がどう「ホワイト」で「フレグランス」なのかは不明だが、管理人いわく「私じゃなくて先代の人が付けたのよ、文句がある?」だそうで、住人はその点誰も突っ込んで尋ねた事は無い。
「幽霊が出る」「夜な夜な怪奇現象が起こる」「住人の目つきが悪い」「住人の酒癖が悪い」と大評判のこの物件だが、不思議と客足は多い。それも銀髪碧眼の謎の男性だとか、赤い髪の情報屋だとか、スーツの美女のペット店店主だとか、自称宇宙人だとか、マンション同様、そこを訪問する客も片端から変わり者ばかりだった。
そういう訳で、付近の住人はその日マンションにガラの悪い男達が数人、酷く剣呑な空気を漂わせながら入っていっても、特に注意を払うことはしなかった。いつものこと、だったのである。
中でも特に年季の入った近所の住人、藤代鈴生(28歳・高校教師)は、下宿人である猫と生徒にのんびりとこう告げた物だ。
「なんか騒ぎになりそうだね」
「え、何か見えたのー?」
下宿人はちょこちょこと駆け寄ってきて、彼が布団を干している狭いベランダから顔を出し、それからマンションを見遣った。ちょうど、派手なシャツを着て肩をいからせ、剣呑な空気を撒き散らす男の一人がマンションへ入っていく所を彼女も目撃することになる。マンションのエントランスが、向かいに建っているこの建物のベランダからはよく見えるのだ。
不穏な空気を察した少女は、まず目をキラキラさせて家主の顔を見た。
「何が起こると思う、せんせー?」
それはそれは楽しそうな口調である。「せんせー」と呼ばれた鈴生は苦笑し、布団を叩く手を止めた。足元では黒白の猫が一匹、眼下のマンションの光景など気にした様子もなく欠伸をしている。
猫の毛並みの上と、猫みたいな少女の髪の毛を一緒に撫でていく秋の風の意外な冷たさに思わず空を見上げつつ、のんびりと鈴生は返した。
「まぁ、いつもの大騒ぎじゃないの?」
少女の方は、「いいなーあたしも混ざりたーい」と、大変不穏なお言葉を口にしながら猫を抱き上げた。唐突に自由を奪われ、不服げに猫が尻尾を揺らして抗議するが、彼女は素知らぬふりである。
「せんせー、あたしマンション行って来ちゃダメ?」
「駄目。君、今から朝ごはんだろ、響名君」
響名(ひびな)、と名を呼ばれた少女はまだ寝癖のついたまま、寝巻きのまま、という格好で、不服そうに口を尖らせる。こんな時間でこんな格好でなければ真っ先に騒ぎに混ざろうと考えていたのは明白で、全くどこにそんなパワーが余ってるんだろう、と鈴生は思ったのだが、そんなことを口にすれば「せんせーオヤジくさーい」などと彼女に言われることも明白だったので、鈴生は苦笑だけを零して、先に部屋へと戻ることにした。
案外冷える秋のベランダに、彼女もそう長居はしないだろうし、それに第一、と彼は考える。
―――あのマンションで騒ぎが起きるのなんて「いつものこと」なんだし、直ぐに彼女も見物に飽きるに違いないのである。
狭苦しい管理人室で、型の古いパソコンの画面を見入っていた初老の女性は、その来客に目を上げた。眼鏡を外し、ロビーに面した窓を開く。その音に気付いてか、男の一人がじろりと彼女を睨みやったが、彼女はにこりと穏やかな笑みを返す。
「お客さん?誰の知り合いかしら」
調子良く問い掛けると、ひそひそと耳打ちをした後、男の一人が応じた。
「ここに、星原って野郎が居るだろ、婆さん」
「星原…何だっけ?変な名前だったな」
ああ、と頷いて女性は微笑む。エレベータを指差し、
「灯月なら、4階の6号室。今来客中みたいだけど」
「ああ、構わネェよ」
言い捨てて男達がエレベータへ乗り込むのを、管理人である女性はにこりと笑って見送った。口の端で呟く。
「ごゆっくり」
「いくえちゃん、だーれ?」
その足元で、幼い声が響く。人によっては全く何も見えないその空間から、幼い少女の、舌足らずの口調が聞こえているのだ。
「いまの、だーれ?とーげつのおともだち?」
いくえちゃん、こと、マンションの管理人である根岸幾恵は口の端だけに笑みの残滓を付けたままで幼い少女に言い聞かせるように、応じる。
「とーげつのお客さんだって、桃」
それから少し悪戯っぽく、彼女は付け加えた。皺の刻まれた顔にどこか子供のような無邪気な表情が浮かぶ。
「…桃、とーげつと一緒に、遊んでおいで?」
何も見えぬその場所に居る幼い誰かは、どうやらこの言葉に喜んだようだ。何も無いその場所でかたかた、と子供が跳ねたような物音がする。
「いいのっ?」
弾けるような声に、幾恵は勿論、と頷いて返した。
406号室ではその頃、再び戦いが始まっている。ミルクを与えられて一端は大人しくなっていた赤ん坊が、ぐずり始めたのである。
「オムツか!オムツなのか!?」
真剣な顔でリビングへ繋がる扉を勢い良く開いた灯月が問うと、ソファに居た数名がめいめい勝手に慌てたり子供をあやしたりしていた面々が、悲鳴染みた声でそれに答える。
「多分オムツ!とーげつ、買った奴どこにやったんだ!」
「テレビの棚ンとこに…」
「お前ちょっと、手伝え!」
ぎゃあ、ぎゃあ、と全身で懸命に何かを訴える赤ん坊は泣き止まない。小さく弱いこの生き物は、本当に全身を使って泣くもので、小さい癖に頭の中まで響く泣き声に灯月はくらりと眩暈をさえ、覚えた。
泣く以外に手段が無いんだから、こいつらが全身で必死に泣くのは当然だよ、と詩律は平然と言うが。
(…いやホントにすげぇわ…)
世の母親達は偉大だ、と灯月はちらりと思って、思ってから自分の思考に一人で落ち込んだが、赤ん坊を押し付けられた瞬間に鼻腔に入ってきた臭いに顔を顰めたので、そんなことは直ぐに忘た。元より、思い出したい内容でも無い。
「…ってうわー。お前、随分出したな。」
赤ん坊のオムツの辺りの感触に思わず、赤ん坊の顔を覗き込んで言ってみる。別に理解しているだろうと思った訳ではないが、それなりの意思疎通くらいなら出来そうな気がしたのだ。
「さっき沢山ミルク飲んだからな。私も赤ん坊の比較対象なんて知らないが」
が、その言葉に答えたのはソファにふんぞり返っていた(若干疲労しているようだった)人物だった。真っ赤に染めた髪と、赤い蝶の刺繍をされたジャンパーの人物は、朝やって来た「情報屋」である。
「お前まだ居たのか火蝶」
思わず灯月がこぼした台詞に、赤ん坊の泣き声にすっかり辟易した様子の火蝶は髪をぐしゃりと乱しながら呻く。低い声は赤ん坊の声に紛れて酷く聞き取りづらかったが、
「…冬瑠が心配だ」
と言う内容であったのは、灯月にも理解できた。
――朝、何かの予感を得て慌てた様子で灯月を追って来た冬瑠は、灯月に置いて行かれてから彼是一時間ほど帰って来ていない。幾らなんでも遅い、と言うのは確かだった。灯月も胸の辺りがじりじりとむかつくのを感じていたのだが、置いて帰ってしまった負い目もあって探しに行く、とも言い出せない。
(…ガキだな、俺)
溜息を吐いて、灯月は泣き喚く赤ん坊を見下ろす。此処最近は冬瑠を狙っている良からぬ連中も居ないようだし、彼女は一応仮にも「危険回避」が特技の能力者だ。しかしだからといって普通の一般人より少々、厄介ごとに巻き込まれやすいあの女性を、一人で(しかも健康サンダル履いた無防備極まる格好で!)放り出しておくのが利口でないことは、灯月もよく理解していた。
「…やっぱり俺、探しに――」
探して見つけて、そんで謝って、それから軽く彼女に叱られて来よう。少々理不尽な理由で彼女は怒っている様子だったし、自分はそれに苛立つだろうが、それでも彼女に何事も無かったことを確認出来るだけでも安心だ。
そう、灯月が考えて、赤ん坊を火蝶へ押し遣ろうとした、矢先だった。赤ん坊の泣き声に紛れて聞き逃しそうだったが、玄関でチャイムが鳴る。せっかちな客だったのか、チャイムに続いて直ぐにどんどんどん、と乱暴にドアを叩く音もした。幼子がそれに驚いてか、泣き声を大きくする。
片方の耳を思わず押さえて、灯月は「はいはい、今開ける!」と怒鳴った。
「悪い白鳥、これ見てて」
「子供を『これ』呼ばわりは感心せんな」
ふん、と鼻を鳴らしつつも火蝶は赤ん坊を丁寧に受け取り抱きかかえた。その間も、ドアを叩く音は止まない。更に、続いて男の怒鳴る声。
「オイコラァ!出て来いや兄ちゃん!」
「…ふむ」
火蝶がその、口汚い言葉に眉をぴくりと動かし、灯月は――特に反応もせず、ただ一度、口の端を笑みの形に歪めてから、ドアを押し開けた。チェーンは付けたままだったので、ドアは僅かな空間だけ開く。
「どちらさん?」
その隙間に、来訪者は腕を差し入れるようにし、荒っぽくドアの端を掴んだ。
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