がちゃり、とチェーンが鳴る。
「そこに赤ん坊が居るだろう、今朝置いていかれた」
こちらがドアを閉じることを警戒してか、チェーンの作る僅かな隙間に腕を差し入れて男の一人が低い声で問い質した。灯月は少し考え、それから室内に響いている赤子の泣き声を顎で示すようにして、
「聴きゃ判るだろ。この通りだよ。お前ら、あの子の何?」
「俺達ぁ、そのガキの迎えに寄越されたんだよ。渡しちゃもらえねぇか?」
ちらりと灯月は室内を見遣り、腕組みをして考えるような風を見せた。逸らされた視線が何を見ているのか、男達からは伺えない。が、眼鏡越しの視線は、素人でも皮膚に圧力を感じるほどに強い。
躊躇している彼の様子に苛立ったように、男の一人がドアを強く揺らした。がちゃん、とチェーンが鳴る。
「俺達はそのガキの親から頼まれて来たんだよ。大人しく従うなら、別に咎めるつもりはねぇんだぜ?お前からすりゃあ、ただの通りすがりのガキだろ?」
「あー、うん、まぁ、そうだな」
灯月は息を吐いて、腕組みを解く。
「…確かにそうなんだよな。俺も迷惑してるし先輩には勘違いされるしガキはうるせーし」
言って彼は、眼鏡を外した。眼前の男の一人の顔を覗きこみ、視線を合わせて、呟くように。
「だけど、嘘ついてまでガキ寄越せなんて言う連中に、はいそーですか、って言えるほど大人しくもねぇんだ、俺」
言葉が終わらぬ内に、ドアを押さえていた男の腕から力が抜ける。廊下にずるりと男が崩れ、瞬間、何事が起きたのか把握しきれぬ男達の前で、ドアはがちゃん、と重たい音をたてて閉じ――
「あ、てめぇ!!」
「おい開けろクソが!」
口汚い言葉と同時にドアを乱暴に叩こうとした二人が振り上げた拳は、振り下ろす直前、勢いをつけて開いたドアによるカウンターを喰らう羽目になった。
「こ…ンの、舐めやがって…!調子乗ってんじゃネェぞクソ」
――チェーンを解いて、開いたドアから出て来た青年は、拳を抱えた男を睥睨する。それだけで、男は小さく呻いた。
「てめ…ぇ、能力者か…!」
「構うかよ、やっちまえ!」
廊下に居たのは五名である。倒れた男を含めれば六名。彼らは怒号と同時、低い、獣のような唸りを上げた。灯月が少し、眉を動かす。
「…妖種か」
――唸る男の腕が人に有り得ぬ大きさに膨張し、服が千切れ、鋭い爪が覗く。だが灯月は、全く動じた気配も無く、眼鏡を丁寧に胸ポケットに納めて、にこりと笑った。穏やかな笑みは普段の彼が決して誰にも見せぬ表情で、それでも暴力の場で、彼は笑う。
「楽しそうだな」
「おお、詩律ちゃん。加勢はしなくていいのか?」
廊下の様子を見ていた、その灯月の養父は、優しく赤ん坊の額を撫ぜた。それだけで、それまでぐずっていた幼子がすぅ、と大人しくなる。或いはそれもまた、彼の力であるのかもしれなかったが、判然とはしない。
火蝶の腕の中の幼子に微笑みかけながら、彼はふふ、と小さく笑った。心底から楽しそう。
「俺が?加勢?…折角の玩具なのに、横取りしちゃ、灯月怒るよ」
玩具、ねぇ。
火蝶は小さく口の中でその言葉を反芻して、廊下の様子を見遣る。
二人の話題に上がっていた灯月は、男の一人の爪が掠めて血の滲む自分の肩を、酷く嬉しそうに、愛おしそうに、一つ、撫でた。
男達は混乱していた。
相手は一人。確かに「能力者」と言われる類の存在だが、それでも、男達もまた、人外の存在と言われる「妖種」である。人には無い腕力や脚力、それに超常の力も備えている。
だと言うのに、この青年は、臆した風も無く、今も男が振り下ろした爪を平然と、まるでその辺りの雑草でも避けるように自然な所作で回避すると、そのまま、――姿を消す。
ぞくりと背筋が震え、男は思わず一歩を飛びずさった。その空間に、直後、青年の拳が振り下ろされていた。いつの間に装備したものか、彼の手には相手を殴るためのサックが填められている。
自らの手への衝撃を分散し、尚且つ、金属で相手に確実なダメージを与える、シンプルで無骨で、いっそ原始的な武器。
「避けるか。…なんだ、意外と面白い相手だな、あんた達」
その青年はと言えば、自らの攻撃を回避されたことなど意に介した風も無い、どころか、楽しそうに声をあげて笑っている。
――その姿目掛けて、今度は見えぬ突風が襲い掛かった。
カマイタチ。
強風の起こす真空波が、青年の肌をさっくりと切り裂く――かと思われたが、次の瞬間には、青年はまた、その場から姿を消していた。だけでなく、ぐが、と言うような鈍い悲鳴が響く。
カマイタチを起こしていた男――腕が人のそれでなく、鎌のようなものに変じていた――が、悲鳴と同時に冷たい廊下に倒れ込んでいた。
「な、…何なんだ、お前は…!」
「何だよ。ケンカを売ったのはお前らだろう。」
彼は男を殴ったのだろう、僅かに血のついたサックを握りなおしながら、歯をむき出して笑った。
――まるで獣のよう。
「今更ブルって退くなんて、ツレナイこと言うなよ?俺は今、楽しいんだから。だから退くな。」
身勝手な理由を滔々と述べて、彼は軽い音で床を蹴った。はっとして男が身構えたが、瞬きして次の瞬間には、彼の姿は無い。
「後ろだ!」
誰かの声がして、慌てて振り返る――が、それと顎に強烈な一撃が入るのは同時だった。
暗転する視界の端で、誰かの無邪気な笑い声が聞こえた気がする。
「…桃?お前の仕業だな?」
男の一人が倒れたのは、顎に見事に当たった植木鉢のせいだった。青年が少し不服そうに、虚空の、誰も居ない空間に向かって名を呼ぶ。
呼ばれたことが何かの引き金だったかのように、ふわりと、そこに現れたのは、ピンクのフリルのたっぷりついたワンピースを着た幼子だ。
「あそんでいい、って、いっちゃんがいったの。あそびにきたよ?」
「だからって俺の獲物、横取りするな。今ちょっとイイとこだったのに」
「とーげつはぁ、けんかしてるときは、ワガママー」
くすくすと笑う幼子は可愛らしく、だが、
「幽霊、…いや、てめぇ、妖精か…!」
「邪魔すんじゃねぇよ!」
叫んだ男二人にちらりと少女は視線を向け、告げた。けらけら笑いながら、
「うるさいのはめーなの。おしおきー!」
それと一緒に、こちらは無言の灯月が床を蹴る。
――男の一人は、突然飛んで来た無数の針金ハンガーに自慢の、熊の腕力を誇る腕を貫かれ悶絶し、もう一人は青年に蹴り飛ばされ、顔面からコンクリートに突っ込んだ。鋭い獅子の牙が、地面にキスした衝撃で砕ける。
「…く…!!」
残されたのは、たった一人。
「桃。お前、あれ誰のハンガーだ?」
「とーげつの」
「…。冬瑠さんに怒られるの俺なんだけどな…」
痛みに悲鳴をあげのたうちまわる男を見下ろし、あまつさえ、青年は溜息をついた。それからやっと男の目を覗き込み、命じる。
命令。そうとしか思えぬほどに傲慢で我儘勝手極まる一言。
「るせぇよ黙れ」
――それだけで、男の口からは悲鳴が消えた。しかし意識を手放した訳ではない。涙さえこぼし、声の出なくなった口をぱくぱくさせている。
声を、出せないように。灯月が暗示をかけたのだ。
彼の視線は相手を一瞥するだけで、簡単に相手に暗示をかけ、幻覚を見せ、或いは記憶を奪ったり、弄ったり出来る。普段かけている眼鏡は彼にとって制御装置のようなもので、眼鏡抜きの、直の視線に晒されれば、いかな屈強な男でも耐えられるべくもなかった。
「まえにころしたきんぎょ、あんなかおしてたよ」
幼子が楽しそうに頬杖をついて男を見ながら、言う。青年が呆れたように、少女を咎める口調になった。
「そういう悪戯はやめろ。金魚が可哀想だろ。」
眼前の男の扱いは金魚以下であるらしい。
取り残された最後の男は、この言葉に背筋の凍るようなものを覚えて、その場を立ち去ろうと踵を返した。毛深くなった男の脚は、豹のそれだ。持久力には欠けるがトップスピードは速く、瞬発力も相当のものがある。
男はすぐ傍の非常階段を下りようとしたのだが、そこで、彼は目をぱちくりさせている少女と遭遇した。どうやら騒動に気付き、様子を見ようと下の階から上がってきたらしい。
「え?…な、なに?」
恐怖に駆られていた男の顔が、追い詰められた笑みを浮かべる。目の前の少女はどう見ても無力で非力で、無能な人間の娘だ。
ぐ、と床を蹴り、一息に少女の背後へ回る。鋭い爪を首に触れさせると、事態が把握できないらしい少女が掠れた小さな悲鳴をあげた。
「りゅーか?どうした?」
そこへひょこりと、踊り場に居た青年が顔を出す。
「ち、近付くな!近付くとこの女ぁ…」
「戒利お兄ちゃーん、捕まっちゃったぁ」
男の言葉を遮って、暢気な少女の声が響く。戒利、と呼ばれた青年は、男を見、その鋭い爪に晒されている少女を見比べ、そして、ひとつ軽い溜息を吐いた。
大して動じた様子も無い。
「あのさー誰だか知らないけどおおかた灯月にちょっかい出して玩具にされたクチだろ?」
「な…」
二の句も継げず、青年の言葉に男は喘いだ。玩具、だと?
「人間風情が、俺達を何だと思ってやがる!」
「お前こそ灯月を俺達と一緒にするな、失礼な」
「そーよあんた何なのよ!よりによってあの馬鹿犬とあたしを一緒にしないで!」
「だ、黙れ!黙れ黙れ!お前、自分の立場を…!!」
少し痛めつけてやろう、と男が爪をすぅ、と引く。それで、少女の白い肌に赤い血の線が出来た。痛みに顔を顰める少女の前で、青年がまた、溜息。
彼は咎めるような調子で、人質の少女に言い放った。
「…りゅーか。いい加減にしろ。」
「ええ、お兄ちゃん助けてよぅー、可愛い可愛い従妹が助けを求めてるのにっ」
「何がしたいのか知らんが俺は手を出さないぞ」
「冷血っ!お兄ちゃんってば冷たい!ああでもそんなお兄ちゃんもステキ」
「帰る」
「あ、やだやだちょっと待ってってば!こらあんた何ボケっとしてんのよ、あたしをもっとピンチにしなさいよ!このままじゃお兄ちゃんがあたしを助けてくれないじゃない!」
あまりに無茶な注文である。命の危機に晒されている少女の台詞ではない。いや、彼女は彼女で、彼女なりの危機に瀕していたのだが(つまり、「恋する少女」としての危機だ)通り魔に近い男にそんな事情が解る訳も無い。解った所で協力する道理も無い。
よって当然、彼は激昂した。
「お前ら、何なんだよ…どいつもこいつも、無能な人間の分際で!」
殺してやる。
最早、指示された命令は男の頭に無い。眼前で戯けたことを吐く生意気な娘を、今直ぐに殺してやろう、という思考しか男には無い。ぐ、と爪に力を込め、皮膚を千切り、そこから血が噴出して――
「悪党の分際で、温いのよ。」
――咽喉がぱっくりと割れて血が噴出している、はずだ。
だが少女は、しかし平然とそんなことを口にして、男の目の前に立っていた。憤然とした様子で腰に手をあて、理不尽な怒りで眼鏡の奥の瞳を燃え上がらせている。当然、血など噴出しておらず、咽喉も裂けては居ない。
何が――
唖然とする男の目の前に、その時、黒い物体が現れた。黒く長い、それは蛇のようにも見えたが、
「殺しちゃ駄目だからね」
リリリ、と鈴を鳴らすような音で黒い物体が応じる。
それは蛇のようにとぐろを巻き、男を取り囲んでいた。黒い。蛇のような影。
動けない。
強烈に縛り上げられ、男は悲鳴も上げられずに、やがて酸素不足で失神した。
「あれ?やり過ぎちゃったかな。」
還っていいよー。と少女が告げると同時、黒い影は空気の中へ霧散する。階段の上から灯月が顔を覗かせたのがこの時だった。彼は既に眼鏡をかけ直し、普段と変わらぬ仏頂面になっている。先ほどまでの笑みなど何処かへ消してしまったものらしい。
「…よう、竜花。戒利も居たのか」
「あんた気付いてて無視してたでしょ星原っ!」
最初に食って掛かったのは少女――竜花。彼はしかし、少女の剣幕に肩を竦めただけだ。そして戒利の方を見遣り、
「戒利の『ガーゴイル』が動いてたから、まぁ無事だろうと思って」
「ばっ、おまえ、言うな灯月!」
灯月のこの指摘に戒利は青くなり、竜花の表情は一転して明るく輝いた。
「…戒利お兄ちゃん…心配したの?心配してくれたの?」
「ええいくっ付くなりゅーか!離れろ!違う、俺は不審者を警戒して……」
「やだもうお兄ちゃんってば照れちゃって!ツンデレなんだからっ!」
竜花に殆ど抱きつかれるような格好になって、戒利が暴れだす。その姿はどうにも、猫にじゃれつかれて困惑する飼い主の構図にも見え、実に平和な光景であったので、灯月はさっさと踵を返した。その背後に向けて、悲鳴のような戒利の声。
「灯月逃げるな!」
「生憎と俺も馬には蹴られたくない。じゃあな。」
「馬鹿やろう、読者の皆様に誤解を招くような表現を…こらりゅーか、離せ!離せっつってんだろうがクソガキ!」
言葉の後半は完全にマジギレ状態である。
――背後から「ガーゴイル」の起動音だとか、竜花の呼び出す式神の鳴き声だとか、破裂音だとか破壊音だとかが聞こえたような気がしたが、灯月は一切合財を無視した。痴話喧嘩なんぞ、犬でも食いたくは無いのである。
「くぉら作者ぁ!調子乗って余計なこと…何が痴話喧嘩だ!」
「もー、戒利お兄ちゃんいい加減認めてあたしのお婿さんになろうよー」
「ならない!いい加減にしろ、りゅーか!」
後方から響き渡る平和な痴話喧嘩(まだ言うか!と後方で戒利が叫んだ)の騒音はきっぱり無視して、灯月は廊下に戻ると、意識を保っていた一人の前にしゃがみこんだ。先程、彼が命じた為に悲鳴を上げられず悶絶していた男は、激しい流血の為に意識が朦朧としている様子で今はぴくりとも動かない。
男の毛むくじゃらの腕に刺さったハンガーの針金を見て、灯月はまず、少しだけ鬱々とした気分になった。折角さっきまで思い切り愉しかったのに、一気に現実に引き戻された気分だ。
壊れたハンガーは血塗れで勿論使い物にはならず。
…星原家の家事をほぼ一手に担うあの女性がこの惨状を見たら何を言うか。想像するだけで、灯月は気が滅入った。「桃のせいだ」って言っても聞き入れてくれないだろうな冬瑠さん。
苛立ちをぶつけるように、彼はぐい、と血で斑模様になった青いハンガーを引っ張った。
傷口を抉られる格好になり、音にならぬ悲鳴を上げて、男の意識が覚醒する。ぱくぱくと口を開閉させている姿は、確かに、
(陸にあげられた魚ってこんな顔してるよなー)
桃の言うことにも、一理あるようだ。
「おい、あのさ、聞こえてるよな。俺今すっげー気分悪いんだよ。つー訳で俺があんまり凶暴にならない内に答えてくれると助かるな」
答えられるか――と視線で訴える男に、灯月は冷ややかな視線で一瞥。
「お前がヨガってる声なんざ聴きたくねぇんだよ。耳が汚れる。お前はただそこで転がってろ、答えはこっちで勝手に取り出す」
最早誰が悪役だかわからない。(冬瑠が居ないからやりたい放題だ。)
「さっき、お前らの頭の中に、ちらっと俺の知り合いが『視えた』んだよ。やたら小さくて思い切りの良い逃げ方する女と、『相談屋』の女。…何処で見たんだ?…ああ、あのパチンコ屋の裏手か」
一方的に彼はぶつぶつと呟きだす。男は何も口にしていないのにも関わらず。
「ふぅん、逃げられて…その後は…じゃあ人数は?…」
――ESP、と呼ばれる種類の能力者たちが居る。
能力者たちの間では「受信型」などとも呼ばれるタイプの能力だ。「普通なら認識できない情報を認識出来る」能力の総称で、予知能力、過去視、透視、それに相手の心を読むテレパスなどがこれに相当する。
それを思い出した男は、必死になって依頼主の顔姿だけでも思い浮かべぬようにと意識を逸らし始めた。灯月がそれに気付いてぴくり、と眉を動かすが――彼はそこで無理やり彼の記憶を暴く真似はしないことにした。
やろう、と思えば、記憶を弄ることさえ出来る彼にとって、それは容易なのだが。
(なんか、疲れた)
暴力は人を、酔わせる。
その意味では一種の酔っ払いの状態だった灯月の酔いは、この時点では完全に醒めていたのだ。これ以上の暴力は、悪酔いしそうだ、と彼は判断したのだった。
「おーい、詩律」
そして彼は、自分の、肩口につけられた傷や足の怪我の状態を見つつ、室内へ声をかける。赤子を抱き上げあやしていた彼の養父は、はいはーい、と軽い調子で応じて顔を覗かせ、あはは、と明るく笑った。
「おー、なかなか派手だな!そこのハリネズミになってるのは桃の仕業か?」
相変わらず桃は悪戯が好きだなぁ、と笑う詩律の後ろで、顔を出した火蝶が「う」と口元を押さえている。彼女は暴力沙汰が大嫌いなので、非常に真っ当な反応をした。引き篭もりの割りに常識人なのである。
「笑っている場合か、お前等。…一応救急車くらい呼んでやればどうだ」
「ええ、面倒。」
「やだよ俺」
父子は恐らく意図せずに同じタイミングで口を開き、そして互いに顔を見合わせた。
「俺、冬瑠さん迎えに行かなくちゃ」
先に口を開いたのは、灯月だ。彼は手にした、血のついたサックを再びポケットにしまいこみ、自分の持ち物を確認しながら、続けた。
「こいつらが冬瑠さんと雪希さんを追ってるらしいのが『視えた』。まぁあの人なら大丈夫だと思うけど、念の為」
「…むー。そういう理由じゃ仕方が無いなぁ。行って来い行って来い」
「お前に許可されなくても行くよ馬鹿。…火蝶、後は頼む。連中の狙いはあの赤ん坊だ」
言葉の前半は詩律に、後半を火蝶に向けて言うなり、灯月は非常階段を駆け下りようとして――すぐに踵を返してエレベーターへ向かった。非常階段の踊り場は、一時的に危険な状態になっていた。
「……そーゆーことらしいけど、救急車、呼ぶ?」
俺も野郎の治療なんてしたくないしー、と、息子に負けず劣らず身勝手を言う詩律に、再び意識の朦朧とし始めた男は、がくりと項垂れた。
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