大通りを走るのに裸足では何かと不都合だ、と、適当なスーパーで四百円の健康サンダルを購入した冬瑠は、化粧を直す雪希を見て小さく溜息を吐き出した。ここまで来る間、追っ手らしき存在は見当たらなかったし、冬瑠自身の「能力」も危険を感知していない。
「…もうしばらくは安全だと思うわ」
言えば、コンパクトをぱちりと閉じて、雪希が顔を上げた。崩れた化粧を整えれば、そこにいるのはどこにでも居そうな、ごく普通の今時の女性である。
真っ直ぐに伸ばした艶やかな黒髪が、櫛を入れられて朝の日差しにきらきら輝いていた。
「あの、雪野…さん?」
「雪希、でいいよ。私も冬瑠さん、って呼ぶから。…何?」
「さっきの…あの人達とはどういった関係なのか訊いても?」
歩道脇のガードレールに腰を下ろした雪希の隣に座り、サンダルをぶらぶらと揺らしながら冬瑠が問うと、雪希はうん、と頷いて冬瑠をしげしげと覗き込んだ。居心地悪く、冬瑠は思わず腰を引く。
「…私と一歳違いだよね?」
「へ?」
自分は年齢を彼女に教えただろうか。目をぱちくりさせる冬瑠を他所に、雪希は一人で納得した風に頷く。
「ふぅん。なるほど。とーげつ君の趣味が少し分った。」
「…と、とーげつ?」
唐突に出て来た知り合いの名前に、冬瑠は息を飲み込み損ねたように妙な声を出した。そんな名前の人物が他に居るとは思えない。階下に暮らしている、家族も同然の間柄の青年を思い出し、冬瑠は両手を意味無くばたばたと動かしながら雪希に迫った。
自分の質問が完全にはぐらかされたことを、彼女はすっかり忘れている。
「ほ、星原君の知り合いなの?」
雪希が笑う。艶やかな笑みだった。
「うん知り合い。あいつ、あの赤ちゃんどうしてる?ちゃんとお世話してる?」
「……。…え、あ、赤ちゃんって、何でそのこと、…え?」
灯月の周辺で「赤ちゃん」と言えばまず間違いなく、今朝の、あの赤ん坊のことだろう。だが今朝、つい小一時間程度前の出来事を何故彼女が知っていると言うのか。混乱をきたした冬瑠の思考は、殆ど空転して、まともな結論を導けず、
「あの、な、何で赤ちゃんのこと、知っ…ほ、星原君とどういう知り合いなの、貴女!」
「落ち着いてよ」
「これが落ち着いていられるわけ無いでしょう!」
すっかり混乱して思わず声を荒げて、そうして自分の声に驚いたように冬瑠はようやく、動きを、止めた。額を押さえて、ことさらに自分を落ち着けようとするかのようにゆっくりと息を吐く。呼吸に乱れ無し、心拍数も正常まで戻るのを確認してから、やっと再び口を開く。
額を押さえる自分の手の間から、雪希を睨むようにして、
「…。貴女、だったのね…」
あらやだ、と雪希は白々しく空を見て、
「まるで人が犯罪者みたいに。事情があったのよ、じゃなきゃ、とーげつ君を頼ったりしないわよ、私」
そう言ってから彼女はそのまま、空を見上げる姿勢のままで付け加えた。
「…まぁあいつは、私が困ってるって知ってりゃ勝手に助けてくれるんだろーけどさ」
それは、そうだろう。冬瑠は思う。あれで結構、面倒見がいいのだ、彼は。知った人間が困っていると知れば、彼は自分を省みずに手を差し伸べるだろう。
そんなことを考えていると、雪希はふいにぽつりと低く、
「そうね、でも、きっと、あの子は、馬鹿だから――それ以外に方法が分らないのよね」
「え?」
空を見る雪希の表情は窺い知れない。
「何でも、無いわ。」
ただ零れ落ちた彼女のこの一言は、何故か酷い苦味を含んで居た。言葉の真意を問いただそうと冬瑠が口を開きかけた瞬間、その言葉を遮るように、メロディが鳴る。女性歌手の独特な、掠れるようで艶やかな歌声が、響いた。
「 手と手を繋いだままで 重いオールは漕げない
目覚めたら、少しだけ泣いて 朝靄へ…… 」
「電話だ」
――携帯電話の着信メロディだったらしい。雪希が慌てて、ハンドバッグから携帯を取り出す。ビーズのストラップがひとつだけの、シンプルな青い携帯だった。
「はい、雪野。…ええ、大丈夫よ何とかね。そっちは?…ああ、なら安心ね。…そう。『雪野の紹介だ』って言えば、通じるから。」
(『雪野の紹介』)
どこかで聞いたフレーズだ、と冬瑠は思わず耳をそばだてた。盗み聞きなど行儀が悪いかもしれないが、仕入れられる情報を仕入れることを冬瑠はどうしても優先させてしまう。罪悪感を覚えつつも、彼女はそのまま目を閉じ、聴覚に集中した。
「ええ、大丈夫よ、安心して。あの子は何処よりも安全な場所へ預けて来た。信用して。」
大丈夫よ、ともう一度念押しするように彼女が言い、電話の向こうの相手は納得したのだろうか。二言、三言、なにやら事務的な話が続いてから、
「分ってる、十分気をつけるから。…だから今のうちに、役所に行きなさい」
そう告げ、雪希が通話を切る。
落ちた沈黙に少し迷って最初に冬瑠が口にしたのは、
「…着信、それ、どこでダウンロードしたの?」
「え?これ?…あ、」
彼女はちらりと舌を見せてから、「内緒よ」と人差し指を立てた。それで冬瑠は合点がいき、少しだけ笑う。
「ちょーっと、ね。だって滅多に出回って無いんだもん、彼女の歌」
「…インディーズだものね」
先程の着信メロディは、インディーズの、とある女性歌手の歌である。一部にファンが多いのだが、あまり大衆受けする歌を歌わないせいか、知名度は低い。そのため、着信メロディとして正規の手段で入手することはほぼ不可能だ。
恐らく、彼女は手持ちのCDを音源に、着信メロディとして使えるように弄ったのだろう。具体的にどうしたのか、までは冬瑠には分らなかったけれども。
「あたしも、好きなの。その人。綺麗な声よね。」
「…もしかしてさ、」
雪希がはたと、気付いたように、笑んだ。携帯をバッグにしまいこみながら、
「とーげつ君にこの歌手のこと教えたの、冬瑠さん?」
「え?」
「あいつもよく聞いてたから、この人の歌。それで私も気に入って、今でもよく聞くんだけど…マイナーな人でしょう?あいつがどこで知ったのか、ずっと気になってたの。」
「え、あ、」
何だか分らない。分らないのだが、急激に頬が熱くなって冬瑠は困った。冬瑠がよく聞いていた歌を、灯月がたまたま耳にして気に入って、彼もよく聞いていた、というだけのことで、それだけのことなのに、何でこんなに気恥ずかしいような、妙な気分になるんだろう。
その冬瑠の様子を見て何を思ったか、雪希が軽く息を吐き出した。軽薄な音は笑ったようにも聞こえたが、表情を見て冬瑠は黙り込む。とても笑っているようには、見えない。顔を覆った雪希はそのまま笑うような音を漏らしながら、
「何なのよぉ、参ったなぁ。もう、あいつ、ホントにサイテー」
「な、何の話…?」
「とーげつ君から、聞いてない?私の名前」
雪希が小柄な冬瑠を覗き込むように、問う。言葉を返せずに戸惑う冬瑠に、彼女は一言。
「私、とーげつ君の、いわゆる『元カノジョ』。…名前さえ口にしてくれてなかったなんて、雪希ショックだわぁ」
後半は茶化された言葉だったが冬瑠はぽかんと口を開いたままで、耳に入れていなかった。脳が情報処理を拒否し、思考停止の状態である。雪希はその様子を見つめ、携帯を見直し、
「も、もと、かのじょ…」
「あ、喋った」
携帯から目を上げると、冬瑠はわなわなと震えていた。一体彼女が何を想像したのか、と、雪希は少しきょとんとして彼女を見守り、それからふと思いついて、口に出してみた。冬瑠の反応が少し面白かった、というのもある。
「あの赤ちゃん、私ととーげつ君の子よ」
「!!!!」
予想通りと言うべきか予想以上と言うべきか。冬瑠はびくんと跳ね上がり、それからまじまじと雪希を見つめた。本当?と言おうとしているのか、口を一度開けて、それからまた閉じる。肯定されたらどうしよう、と思っているのだろう。頬に手を当てて考え込みだしたのは、
(きっとアレは『あたしってば何を動揺してるのかしら』と思ってるのかなぁ)
雪希の推測は大当たりなのだが、当の冬瑠はと言えば、まさか自分の思考を読まれているなどとは露ほども想像していない。
このまま放っておいて、彼女にもう少し思案を続けてもらうのも一つ、彼女と灯月の関係を進展させる為には良いことかもしれないが、などと雪希は冷静に考え、それが少々癪に障ったのでそろそろ冬瑠を止めることにした。
「…と言うのは冗談で。あの赤ちゃんはね、私が依頼人から預かった、依頼人のお子さん」
「ふぇ?」
思考から解き放たれ、冬瑠の反応はそんな間の抜けた声だけだった。急なことで思考がついてこないのかもしれない。頭が悪い訳では無さそうだが。
「…え、えと、じゃあ、星原君のトコに預けたのは…?」
「ん?いや、私、自慢じゃないけどあんまり荒事は得意じゃなくてね。ここら辺で逃がし屋と落ち合う手はずだったんだけど、ちょっと手順が狂ってしまって、手配してた逃がし屋と接触できるまであと…」
言いながら腕時計を見て、
「…四時間三十五分。その間に赤ちゃん庇って逃げるのはキツイでしょ。それで、やむをえず」
この辺りで一番頼りに出来る相手――灯月、および幽霊マンションなら、確かにこの上も無い安全地帯だ――に頼ることにしたのだ、と彼女は事も無げに言うが、冬瑠は唖然としてしまった。溜息も出ない。
だが冬瑠が非難めいた何かを口にするよりも早く、雪希はガードレールから勢いをつけてひょいと飛び降りていた。
「助けてくれてアリガトね。とーげつ君にも後で迷惑料払う、って伝えて頂戴。迷惑かけてごめんね、って」
携帯をショルダーバッグへしまいこむ彼女に、冬瑠が慌てた風に立ち上がる。
「ど、どこ行くの?」
「さぁ。でもずっとここでぼうっとしている訳にも…」
言いかけた言葉はそれ以上は続かなかった。冬瑠が全く唐突に顔色を変えたからだ。彼女は飛びつくように雪希に駆け寄り、腕を掴んだ。引っ張られてよろめいた雪希の、足元で何かが弾ける。
しゅう、と奇妙な音をたてる足元のアスファルトは――急激に凍り付いていた。雪希もまた、これで事態を把握し、顔色を変える。
「あの女」
呻くようにしてから、冬瑠が腕を引くのに抵抗せず、雪希も走り出す。走りながら彼女は冬瑠に、確認の問いを投げた。
「冬瑠さんって、もしかしてESP?とーげつ君何も言ってなかったから、フツウの人だと思ってた」
「うん、ESP、いわゆる『受信』の方よ。ランクは低いけどね」
自分が能力者であることに、然程こだわりが無いらしい。一般的にESPの能力者は、自分が能力者であることを隠そうとする傾向が強いものだが。
ちなみに、冬瑠の言った「ランク」とは、能力者が能力者登録を行う際に受ける能力試験の結果から、その人の能力の「強さ」のようなものを大雑把にランク分けしたものである。ランクはAからEまでがあり、C以上の能力者は、武道有段者などと同様に、それ自体を凶器と認定されるため、警察などで申請・登録をしなければならない。
冬瑠はランクで言うと「ランクE」の、いわゆる「最低ランク」である。が、彼女の場合、「能力の制御が本人には不可能」という点やその他諸々の事情から、ランクを下位に設定されただけで、実際のESPによる情報の正確さ、精度はランクAのESP能力者すら軽く凌駕し、現状、日本には存在していないランクSSクラスに匹敵する。
無論、そんな事情を雪希は知らないし、冬瑠本人も実は、よく理解してはいない。冬瑠は自分では、制御出来ないこの能力に大した興味を持っていなかったりするのだった。
冬瑠は迷わずに、大通りに面した小さな路地へと駆け込んだ。人通りが少なくなったことで追っ手は気が大きくなったか、足元に何度か青白いものが弾ける。冷たく硬質な音を立てるそれは、氷だった。氷の礫が、弾ける。そして、背後から鋭い女の声。
「待ちなさい、雪野の娘!」
「…雪希さんって有名人?」
「まぁね」
冬瑠の問いに雪希は肩を竦める。そんな状況ではないのだが、その仕草に冬瑠は思わず笑ってしまった。が、すぐに笑みを引っ込める。道の向こうから走ってくる男の一団が見えたのだ。それは冬瑠が手を引いている人物を見るなり色めきだち、中には懐から黒い塊を引き出す者まで居る。
拳銃。
冬瑠は顔を顰めて足を止めた。コンクリートの塀を背中にして、
「…ホントにこれでいいの、ヒメ…?」
誰にという訳でなく、ぽつりと口にする。答えは当然、どこからもない。「ヒメ」は彼女の意識の中にだけ存在する幻覚に過ぎないのだから、冬瑠とて答えを期待してのことではなかったのだが、
「ああ、それでいい、先輩」
――期せずして返った答えに冬瑠は唖然とし、雪希が眉を顰めた。
すたん、と青年がアスファルトの道路に降り立つ。彼はその落下の勢いをそのままに転がるように襲い掛かった男の一人の、鋭い爪を回避し、そのまま男の懐へ。鳩尾に拳をキレイに沈めて、まず一人をアスファルトの上へ転がす。その後を追いかけて、今度はブロック塀のコンクリートのブロックが、崩れた。
「モモちゃん!?」
冬瑠や雪希、灯月の頭上にも落ちるかと思われたブロックだが、まるで意思あるもののように、ブロックは男達に襲い掛かった。骨の砕ける音、悲鳴と怒号、コンクリートが砕ける音もする。
「この…舐めやがって、人間が!」
「残念。ありゃ妖精の仕業」
男の一人が、獣の姿に転じて突進してくるのを呆気ないほどあっさりとかわす。
「俺と違って、加減が無いぞ、あいつは。今のうちに寝た方がいい」
「も、モモちゃん!?ちょっと駄目よちゃんと手加減しなさいっ!コンクリートなんて当たったら、当たり所悪いと人は死んじゃうんだから!」
灯月の言葉に思い当たることがあったのだろう。冬瑠が血相を変えて虚空を睨む。その視線に気圧されたように、ふ、とコンクリートブロックが動きを止めた。
事情は飲み込めないが男達はこの瞬間を好機と見た。当初の目的どおり、雪希を狙って一人が腕を伸ばす。元より、彼女を捕らえて、彼女が「逃がした」ある人物達の居場所を探ることが彼らの目的なのだ。
だが、その腕は、灯月に阻まれる。逆に彼は男の腕を取って捻り上げ、そこへ拳銃を向けた男に、
「…だから寝てろ、って言うのに」
呟いて一瞥した。本当に視線でひと撫でしただけ、それだけだ。ところが、男は拳銃の引鉄を引けずにその場で硬直し、
「これならいいの、とーるちゃーん?」
全く場にそぐわない幼女の問い掛けと共に飛んで来た物体、恐らく近くのごみ収集場に放置でもされていたのだろう。「粗大ゴミ」のステッカーが貼られた小型の衣装箪笥に顔面を直撃され、鼻血を出しながら吹っ飛んだ。男の手から拳銃が地面に落ち、その落下点にまるで予測でもしていたかのようにぴたりと居合わせた冬瑠が拳銃を拾い上げる。そして彼女は一見して何も居ない虚空に「めっ」と告げた。幼稚園の先生みたいな仕草である。
「人に暴力を振るってはいけません、モモちゃん」
言いながら彼女は拳銃を手馴れた様子で構え、男の一人に向け、にこりと微笑んだ。その様は、ベテランの園長先生、といった風情。
「あなたがたも、不必要な暴力は感心しませんよ」
男達が、さすがにたじろいだ。その様子に声を荒げたのが、男達の後方で事態を見ていた女である。
「何をしてるの!?さっさとあの女を捕まえて!!」
金切り声に灯月が鬱陶しそうに視線をやるが、その彼の背後から強く咎めるような視線があった。それを察して、灯月が背後を見遣る。雪希は首を横に振り、そして女に、静かに問うた。
「息子さんは、届けを出されました。…もう貴女のしていることは全て、手遅れ」
「な…届け、ですって」
「認知届。あの赤ん坊を、自分の子と認める届け。残念ね、貴女の大ッ嫌いな『人間』の血の入ったあの子は、今この瞬間、貴女の一族の子と認められたわ」
女は、顔色を変えた。青くなって、それから怒りか、それとも屈辱でか、赤く染まった。黒い瞳に暗い色が宿る。
「あの女、あの女がッ!たかが人間の娘が…!あれだけ手切れ金を渡したと言うのに、まだ足りないとでも言うの!?」
金切り声を上げる女を、灯月は今度は静かに穏やかに、一瞥した。じ、っと覗き込むように数秒、女の目を覗き込む。まず灯月を睨んだ女は、しかしその視線に、次第に力が抜け、その場に崩れ倒れ込んだ。
――時間をかけて丁寧にやれば、相手の意識を奪うことも、灯月には可能である。
その様を最後まで見、灯月は瞼を下ろす。目を疲労した時のように眉間の下辺りを強く揉んで、眼鏡をかけ直した。それからようやく、背後の二人の女性を振り返る。戦意を喪失し、各々逃げ出す男達を前に、冬瑠が息を吐き出して、銃を下ろしたところだった。
「…つまりどういうことだ?」
「うん。あの赤ちゃんは、この女の息子さんが、人間の女性と恋して出来た子供って訳。でもまぁ、見ての通り、こいつらは妖種の中でもガチガチの優勢思想の持ち主で…ちなみにその人、雪女よ」
雪希は肩を竦める。
「私と同じ…なんて言ったらその女は、頭から湯気出して怒るんでしょうけどね」
人間の方でも、妖種や超能力を有する能力者に対する偏見は根強い。それと同様に、人間に異常な差別意識を持つ妖種や、能力者も数多いのだ。
「…この奥方は、息子が人間の女に誑かされた、って主張してね。彼女は一度は手切れ金を渡されて実家に帰されて、二度と息子に関わるな、って脅迫を受けたんだけど、息子の方で彼女を忘れられずに、ウチに相談に来たの。」
分った?と問われて灯月は頷きだけを返し、冬瑠が灯月の隣で首を傾げた。
「…雪希さんは、どういう仕事を?」
「ただの相談相手よ。ただし、妖種関連専門。…ウチ、妖種と人間の混血でね。人間社会で暮らしてる妖種の皆さんのお手伝いをしてるのよ」
「普段は普通の司法書士なんだよな」
灯月が付け加え、冬瑠はその様子に少し、むっとしたように眉根を寄せた。
「…。よく知ってるのね」
「そりゃあ、まぁ」
元カノジョのことですから、とも言えず、灯月は口ごもる。冬瑠が急に不機嫌になったことは分るのだが、それが何故なのかが判然とせず、しかも雪希は以前はお付き合いしていた間柄の女性である。冬瑠と彼女とを同時に前にしていると、どうにも、居心地が悪くて仕方がなかった。
(俺、悪いことしてないよな…?)
いや、雪希には過去に、悪いことをした、と彼は思っている。その意味でも、雪希と顔を合わせるのは罪悪感が伴った。
「…雪希さん、」
彼女に会うのは仕事絡みで相談を受けた半年前以来のことだ。メールのやり取りはあったし、互いに似たような業界で仕事を請け負っていることもあって噂程度の話も耳にはしている。(ちなみにメールも仕事に関する話が九割で、互いの近況報告さえまともにしてない。)
「あの、俺、」
何かを言いかけた灯月を遮り、雪希は軽く頭を下げた。さらりと、黒い真っ直ぐな髪が流れる。
「とーげつ君、あの、ごめんね?迷惑かけて」
――「とーげつ」と、彼女は少し詩律と似たアクセントで彼の名を呼ぶ。それを思い出し、灯月は微かに笑った。罪悪感が、今の一言で少し薄らいだと思うのは、男の身勝手かもしれない。知らず詰めていた息をふ、と緩めた。
「久し振りに会う相手にいきなり赤ん坊を押し付けられるとは思わなかったな…」
「自分の子じゃないかなーとか思った?」
この質問には、ぐ、と言葉を詰まらせる灯月である。一瞬ならずその可能性を考え、しかも硬直してしまった事実は否めない。冬瑠は冬瑠で、灯月の様子に不機嫌を深くしていた。雪希が彼の硬直を見て、にんまり楽しそうに、満足げに笑う。
三者三様の様子を彼らの頭上から見ていたのが、幼女の幽霊である。彼女はしばらく見慣れぬ女性、すなわち雪希を見ていたのだが、安全な相手と判断したのだろう。ふわりと、姿を現した。空気がそこだけ溶けるみたいにして、ピンクのワンピースの幼子が姿を現す。
「あのね、あのね、とーげつの、おともだちさんですか?」
彼女なりに丁寧に尋ねたつもりなのだろう。ぱちりと目を瞬いた後、問われた雪希は自分を見上げる幼女に目線を合わせて屈み込んだ。彼女もまた、こういった事象には耐性が強い。
「さっき箪笥を投げたの、あなた?」
「うん、モモ。いっちゃんがね、とうるちゃんをたすけておいで、って言ったの」
「そっかモモちゃんって言うのかぁ。えらいねぇ。…おねーさんはね、雪野雪希、って言います。」
褒められたモモがほわりと笑うのを見てつられて優しく笑いながら、彼女はさらりとこう言った。
「お友達じゃなくてね、昔とーげつ君にもてあそばれて捨てられた女なんですよー」
「おいこら雪希さんいい加減なことを」
ふざけた台詞を遮ろうとした灯月の半歩後ろから、可愛らしい声が彼を呼ぶ。
「………ほーしーはーらーくーん?」
可愛らしいが、可愛らしいのだが、それは地獄から響いてくる甘い声だった。灯月はぞっとして、振り返って彼女の顔を確認するのも怖かったので、聞かなかった振りをしようかと瞬間、考えた。
「お姉さんに詳しい話を聞かせてくれるかなぁ、星原君」
「あら、詳しい話なら私が」
「結構です!」
ああ、何だろう。何でかよく分らないけど俺ものすごく危険な立ち位置のような気がする。背後の冬瑠、それをにこにこしながら見遣る目の前の雪希、二人に挟まれる格好で灯月はそんなことを考えていた。男の本能だろうか。逃げた方がいい、と猛烈にそんな予感がしている。
「とーげつはやっぱり、わるいひと?」
モモだけが一人、無邪気にそんなことを尋ねたが、灯月には彼女の思い込みを訂正する余裕はなく、
「そうね、悪い男よー、モモちゃんって頭がいいのね」
「そうよ、星原君が悪いわ。モモちゃんの言う通りよ」
こういう時ばかりは二人は申し合わせたように同時にそんなことを言うのである。絶望的な気分になって灯月は一人、
(…助けに来るんじゃなかった…)
そんなことを考えたのだが、それもまた後の祭りであった。
女二人が、何を話していたのか灯月は実際、よく覚えていない。にこやかな対談であったが、何故か背筋の悪寒が止まらなかったのだけをしっかり覚えている。
依頼人と会わなくちゃ、と言い出した雪希を見送り、二人はマンションへの帰路に着いた。いつの間にか、モモの姿は消えている。元より太陽の光が支配する昼日中にそんなに長居は出来ない性質だ。恐らく女性二人の話が退屈になって、先に帰ったのに違いなかった。
「あとであの赤ちゃんは迎えに行くわ。悪いんだけど、今日一日、お世話と護衛をお願いするわね?」
ちゃんとその分、迷惑料と依頼料は上乗せするわよ、と雪希はしっかりそう言い残している。マンションに戻ったら、またあの赤ん坊に悪戦苦闘するのかと、そう思うと少し気が重い。俺はベビーシッターじゃねぇんだぞ、そう言いたかったが、灯月は何も言い返せなかった。どうも彼は、雪希に対しては負い目がある分、強く出られない部分がある。
――歩いている間中は、ひたすら沈黙が続いた。お互いそれほど会話の多い方でもないので、二人で居る間に沈黙が流れることは珍しくないのだが、それにしたって居心地の悪い種類の沈黙である。
(…冬瑠さんに謝れ、って、いっちゃんは言ってたな…)
口の悪い着物の幼女に言われた言葉を、彼はこの時、思い出し、実行しようと心に決めた。元よりそのつもりで彼女を迎えに、助けに来たのだ。謝って叱られるだろうけど、でも彼女の安全には変えられない、と。
「…あ、あのさ、先輩…」
ごめん、と。
謝ろうとした灯月の機先を制して、半歩先を歩いていた冬瑠がくるりと振り向いた。相変わらず、幼い顔立ちで、相変わらず幼稚園の先生のように彼女は宣言する。
「保健体育の勉強をすべきよ、星原君」
「…。……ええと何、なにごと?」
事態についていけなかった、というよりも、彼女の発言についうっかりアレな妄想をしてしまった為に、灯月の反応は少し間が抜けた、変なものになった。冬瑠は辛抱強い教師の表情で、彼の鼻先に指を突きつける。
「分ってないわ。女の子は繊細な生き物なんだから、大事に扱わないといずれしっぺ返しを喰らうわよ!」
しっぺ返し。それは痛そうだ、と灯月は先程の悪寒を思い出した。そして、答える。
「…女がタフで怖い生き物だってのは、今日、イヤってほど分った…」
馬鹿みたいに暴力一辺倒で襲ってくる男達の方が、どれだけ対処し易いことか。
灯月はそんなことを考え、マンションに帰ったらあのご近所さんたちに何と報告をすればいいのか、と、頭を抱えたくなった。そしてふと、いっそ、このまま一日、冬瑠とどこかに出かけようかとも考える。そうすれば、赤ん坊の世話は詩律に押し付けられるし、雪希とも顔を合わせずに済む。
だが冬瑠は、彼のそんなアイディアを一蹴するようにきっぱり告げた。
「ほら、早く帰るわよ!帰って保健体育っ」
「分ったから、…せめて他の言い方にしてくれ、先輩」
「じゃあ、…正しい赤ちゃんの作り方?」
「……。」
灯月は色々なものに向かって、嘆きたくなった。
――いつになったら俺はこの人からちゃんとした男扱いを受けるのでしょうか。
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