結局のところこの薄闇から伸びてくるものがあの白い腕でしかないことを知っていながら。
彼は、じっと待っている。
嗚呼、知っているのだ。この無明の薄闇がいかに脆いものでしかないのかも。自らの視線で人を縛る恍惚も。知っているのだ。だから多分俺は許されなくていいと。彼はずっとそう想っている。だからこの薄闇から、伸びてくるのはあの白い腕以外では、有り得ない。
どうして。
どうして。
糾弾の声すら、心地良く、耳を、鼓膜を、ずたずたに引き裂いてくれれば良いのにと、いっそそんなことを望みながら、彼は目を開く。
瞼の裏の無明の薄闇。
開いた先もまた、無明の世界。
伸びてくるのはいつだって白い腕だ。
「―――どうしてお前みたいな子が生まれてきたの」
この存在自体が罪だと。
「―――私を見るな、そんな目で…!」
怯えと恐慌を含んで鋭く耳を掠る声がどうして自分の鼓膜を殺さないのかがずっと不思議でならない。
「―――お前、なんか」
嗚呼。
早く。
「お前なんか、死ねばいいのに」
白い腕が咽喉に掛かる。
冷やりと。けれど確かな体温を持った人の手の感触に鳥肌が立った。
目を閉じれば無明の薄闇。赤い血の色だけが、視界を埋める。
いっそ、こんな目は、見えない方がいい。
「死ね、死ね、死んでしまえ、死んで…!」
リフレインの中で不意に柔らかい声が聞こえた気がした。
―――ああ、邪魔するなよ。
―――たぶんもうすぐなにもみなくてすむようなばしょにいけるのに。
「死んでしまえ死んでしまえ死んでしまえ!」
「―――ッ!」
悲鳴に混じってその音が、酸欠を起こして朦朧とする意識に届いたのは一体どんな奇跡か、或いは皮肉か。けれども自分はこの音だけはどんな場所に在っても、聞き違えることなど決して無いと、彼は断言出来た。息を呑む。柔らかくて暖かな、息を吸って、咽喉で押し留める、あの、彼女が泣き出す寸前の―――
「…と、…」
そこで彼はふいと目を覚まして、周囲を見渡した。口に出しかけた名前は、夢から引き剥がされたショックで咽喉の奥に引っ込んでしまった。
当たり前のように薄暗い部屋の中に、あの音の持ち主は居なかったのだけれど、それでも無性に不安になって、彼は枕もとの携帯を手に取った。
―――メール着信、一件。
開いてみればそれは確かにあの、夢で声を聞いた気がする彼女のアドレスからで、本当にたった一言、
『お早う、おきてる?』
たったそれだけだったのに、何だか泣きそうになって困った。夢にまで出てきて助けてくれたことに、お礼を言うつもりなど無かったけれど、寝惚け眼を擦りながら彼はメールの返信を打つ。起きてるよ、今目が覚めた。
素っ気無い一文を読み返してから少し思案して、付け加える。一言。
ほんと先輩ってお節介。
意味が分からないと、彼女が首を捻るのが見えた気がして、薄く笑った。
その朝彼女がメールをくれたのは要するに、その日の約束が少々早い時間であったので灯月が起きているかどうか不安だったのだろう。彼は決して朝が早い方では無いし、彼女もそれを重々承知している。
だから彼女はまず待ち合わせ時間の五分前に彼がマンションのエントランスに顔を出したことを素直に喜んでから、童顔を可愛らしく傾げて、
「…ねぇ、『お節介』ってどゆこと?」
予想通りの反応に、灯月は思わず笑った。
「何でもない。…じゃ、出掛けるか。」
「えー?気になるじゃない。教えてよぅ」
「秘密」
言って返すと彼女はむぅ、と頬を膨らませた。そういう仕草が子供っぽいのと、元々ものすごい童顔であることとが相まって、どうやってみてもせいぜい高校生か中学生にしか見えない女性だが、彼女、――竜堂冬瑠と現在は名乗っている――はれっきとした大学生で、しかも灯月より二つ年上であったりする。四年前知り合った時は、初対面の灯月に一瞬「小学生か」と疑いを抱かせた程で、その頃から比べれば多少は成長しているのだろうが、矢張り雰囲気が幼いことに変わりは無い。
チョコレートを溶かした色に良く似た焦げ茶色の髪は僅かにウェーブがかかって、肩に届く長さまで伸びている。小さな身体は、長身の灯月と並ぶと兄妹というよりほとんど親子の身長差だ。(灯月の胸に彼女の頭が届かない、と言えば伝わるだろうか。)
「先輩そういう顔するとホントに子供に見えるぞ」
言うと彼女は慌てたように顔を引き締めたが、やっぱりどう見ても幼いものは、幼い。
その表情を見てふと、薄く化粧をした唇の色が僅かに昨日と違うことに気付いたのだけれど、灯月は何か言おうかと考えて結局やめて、別のことを口にした。上手く褒められる自信が無かったのである。(こういう時、ムダに場慣れした養父ならどうするだろうと考えかけて、参考にならないので止めた。)
「――で、何処に行くんだったっけ」
「んっとねぇ、鎌倉の…」
冬瑠が口にしたのは、個人で経営している小さな美術館の名前である。電車を乗り継いで二時間掛かり結構な遠出なのだが、最近、冬瑠はこの美術館がいたくお気に入りだった。ただ、普段であれば、彼女は美術館巡りの際には一人で出向くし(その方が作品に集中できるもの、と言う理由)灯月は間違えても絵画鑑賞なんて趣味ではない。何故彼が冬瑠の美術館行きにお供することになったかと言えば、何のことは無い単なる「お仕事」だったりする。
何でも冬瑠が、美術館の職員から相談を受けてしまったらしいのである。近所でちょっとした怪奇現象が起きているものだから、どうにかして欲しい、と。それで灯月が引っ張り出されたのだ。冬瑠にしてみれば、何のためらいも遠慮も無く「その手のお話し」を相談できる相手は灯月と灯月の養父・詩律、それに幼馴染の白鳥火蝶くらいしか居ない。その詩律はこの間いっしーさんの招待だか何だかで鹿児島へ出張中だし、火蝶は残念ながら霊能力の類は持っていない。ついでに彼女は遠出が大嫌いな引き篭もりである。
消去法の結果、というのが非常に納得行かないものを感じはしたが、灯月は彼女の相談を受けて、それなら一緒に行くか、という運びになったのであった。
美術館を出て少し歩けば辺りは住宅街だ。静かな休日の街並みに、一駅離れるだけでこうも違うかと灯月は少し驚いた。一駅隣は有名な観光地。休日の今日は賑やかだろうとぼんやり考える。
冬瑠が美術館に出向いている間に、彼は彼で頼まれていた相談事とやらに乗るつもりだった。この界隈で起こっている怪奇現象とやらの調査である。
―――とはいえ。灯月自身には実は、いわゆるところの「霊感」は、無い。更に、軽い気持ちで来たので事前の情報収集を全くしていなかった。
「どうしたもんか、な。」
俺で分かるようなことならいいんだが、と呟きながら、案内の女性が足を止めたのに合わせて、歩みを止める。彼女の視線の先に、件の建物がある。
瀟洒な住宅街に違和感無くよく馴染む、可愛らしい三階建てのマンションだった。
今、空き部屋になっている部屋があるんだけどね。
その部屋に、オトコノコの幽霊が出るの。
はぁ、と白い息を吐き出して灯月はかじかむ指先を暖めた。話の内容を改めて思い出す。
――このマンションのあった場所で、五年ほど前に、無理心中が起こったのだそうだ。
母一人子一人の母子家庭で、母親は少しばかり精神を病んでおり、どうも病気を苦にして子供を道連れにして自殺したものらしい。遺書などがあった訳では無かったからその辺りは判然としなかったが、警察の見解ではそのようになっているようである。
――問題なのはその後である。
二十年前、大規模心霊災害による大量殺人事件(「群青事件」と言う。戦後最大にして最悪の心霊災害として、最近じゃ教科書にも載っている一般常識である。)という非常に陰惨な事件があって以来、この国では、こうした「不幸」のあった場所や家、部屋はその後、専門家の手で清めなければならないという法律が、制定された。無論、五年前のその事件の後にもこの処理は行われた。少なくとも行われたはず、である。実際、この五年間は何も問題は無かったのだ―― と、灯月に事情を話して聞かせてくれた女性は語っていた。
それがまたどうして、五年もたって姿を現すようになったというのか。
――目の前の非常に真新しい、清潔そうなマンションを見上げて、うーん、と灯月は考え込んだ。
つい半年程前、ここにあった古いマンションは取り壊され、新しいマンションが建てられたのだそうだ。街の外観を壊さないようにと言う気遣いやら何やらで非常に洒落たデザインの、デザイナーズマンションと言うヤツだ。家賃高そうだなとこっそり思ったが灯月は口には出さなかった。
「オトコノコの幽霊」は、古いマンションが取り壊された半年前から度々、目撃されるようになったのだという。
(何だかなぁ)
半分は「冬瑠と一緒に出かけられる」という下心で此処へ来た灯月は、存外に厄介そうな相談内容に、不機嫌に眉を顰めた。
(…自殺した霊とかその手のヤツって性質悪ィからなぁ…面倒にならなきゃいいんだが。)
これでも灯月は「心霊災害」には結構な慣れと耐性がある。それは彼が、「調査屋」として様々な厄介ごとの解決に駆りだされた経験からのものであり、養父や年上の世話好きな知人のお陰でも、ある訳だが。
その経験が、彼に、これは厄介になりそうだぞ、と告げていた。
「どうしたの?」
胸中だけで愚痴をこぼしていると、案内してくれた事務員の女性がオートロックのドアを片手で押さえながら不審そうにこちらを向いた。灯月は首を横に振り、何でもない、と無言で示す。
「…で、『出る』っていう部屋は?」
「私の部屋の三つお隣。二階だよ。」
「前の建物の見取り図とか、五年前のその心中のこととか、あんたそういうの詳しい?」
駄目もとで尋ねれば目の前の女性は「ごめんね、あんまり詳しくは…」と予想通りに、けれどすまなさそうに首を振ってから、あ、と何か思い出したように呟いた。
「そうだ、五年前にね、ちょうど此処の近くに住んでた子が居るんだ。私のご近所さん。この時間なら部屋に居るはずだから、詳しい話はその子に聞けば知ってると思う。」
そう口にしたことで、更に思い出したのだろう。階段を昇っていた彼女がそうだ、と手を打って、付け加える。
「そうそう。それにね。あのオトコノコの幽霊が、五年前の事件の子だ、って最初に言い出したのも彼女だから…もしかしたら知り合いだったのかもしれない。」
なるほど。灯月は頷いて、それならどうにか対処出来るかな、とまた思案に沈んだ。
――不意に彼が目を上げたのは、階段を昇り終えて二階の廊下に到着しようかと言う、その場所でのことだ。全く唐突にがばっと目を上げて、彼は眼鏡越しの瞳を鋭くした。
「わ、何どうしたの?」
「…居るな。本当に。」
別に疑っていた訳では無いのだが、灯月は肌に触れるその違和感に、足を止めた。彼にしてみればそれは馴染みのある感覚ではあったのだが、女性は薄気味悪そうに身体を竦めて辺りを見渡す。
「え、え…何処、に?」
灯月はこれにはただ無言で首を振って、そこまでは分からないよと意思表示だけをした。実際には、「幽霊」が何処にいるのかも彼には見当がついていたのだが、わざわざ相手を怯えさせる必要も無い。まして話を信じれば幽霊は子供だ、下手にこちらが騒げば逃げてしまうだろうことは想像がついた。――警戒心の強い野生動物みたいなものだからな、とは彼の師である養父の談。
「あんたは、部屋に戻ってて。」
灯月はとりあえず、目の前の女性にそう言って促した。腕を組む。
「…一先ず、その幽霊とやらに話を聞いて見ないとな。」
「話?出来るの…?」
「俺の場合は霊媒師とは違うから、ちょっと手荒になるけど、出来ないことじゃない。…別に、何か悪さをしている訳じゃ無いんだろう?」
確認すれば女性はうん、と頷いた。
「ただ時々、夜中なんかに姿が見えるから…怖いなって言うだけで。」
「悪意の無い幽霊なら、話し合いでケリが付く場合の方が多い。まして子供だろう?単に寂しがっているだけなら、ちょっと話をして言い聞かせればそれで終わり。」
――説明をしながらも、灯月は僅かに腑に落ちないものを覚えていた。単に寂しがっているだけなら?
無理心中で死んだ子供なのだと、先程彼女はそう説明していたではないか。単に寂しい、なんて可愛らしい理由で出て来る幽霊では済まされないような気がしてならない。
(…心中、か)
親に殺された、子供。
なんと無しにその言葉が頭を掠めて、首を振る。余計なことを思い出している場合ではない。ああ、今朝の夢のせいだ、それでこんなことを考えるんだ。
俺は、親に殺され損ねた子供だ、なんて。
「じゃあ、俺は話をしてみるから。…人が多いと相手が怯えて出て来ない場合が多い。あんたは、部屋に戻っていてくれるか?」
心中の戸惑いも苛立ちも表には出さず、ただそう言って灯月は案内してくれた女性が部屋に戻るのを見送った。
美術館を出て携帯の電源を入れた冬瑠がぱちくりと瞬いて確認した「不在着信」の件数は実に五件。全てが灯月の携帯からの連絡である。パンフレットを購入してご機嫌だった彼女は、寒い中に白い息を吐き出して、着信履歴から発信ボタンをぽちっと押した。
耳に当てた携帯が冷たい。
「もしもーし、星原君どうしたのー?」
何かあった?と尋ねようとして、返って来た声が女性のものであったので、冬瑠はまたしてもぱちぱちと瞬きを繰り返した。
一体全体、何が起きたというのか。
『あ、冬瑠さん?ごめんなさい。他に連絡する先を思いつけなくて、彼の携帯、勝手に借りたんだけど』
「…え?あれ?…実都(ミト)さん…?」
美術館の事務をやっている、冬瑠に相談事を持ちかけた女性である。美術館で待ち合わせて、その後、灯月と一緒に幽霊の出るマンションへと戻ったはずだった。
そこまで冷静に思い返して、冬瑠は冷やりと胸の内が冷えるのを、感じた。刃でも差し込まれてそれが心臓に触れたみたいに。どくん、と、跳ねた心臓が、次の瞬間には全身を廻る血を止めたような気がする。
血の気の失せた手で携帯電話を握り直し、冬瑠は半ば呆然と問い返していた。
「……星原君に何かあったの…?」
まさか、という想いの方が強かった。彼はああ見えても心霊災害の解決だったらそれなりに得意にしている。それに、自分に無理だと感じたら素直に引き下がる冷静さも持ち合わせている人物だ。
『分からないのよ。突然倒れてしまって、目を覚まさなくて…。とりあえず怪我は無いし、ウチに寝かせてあるんだけど』
病院に連れて行ったほうがいいのかしら、と実都も動揺しているらしい。冬瑠はその彼女の動揺の具合を察してやっと、思考が動き出すのを感じた。しっかりして、しっかりしなくちゃ、と自分に言い聞かせる。
「わ、分かった。今からそっちへ行くわ。とりあえず病院に行くのは少し様子を見ましょう。もしかしたら、ただ能力使っちゃって、オーバーロード状態なだけかもしれない。」
『へ?』
「星原君、たまに能力使って倒れちゃうことがあるの。」
――そうだ、そもそも、灯月は「幽霊が出る」という相談を受けたのだ。もしかすると、単に幽霊をまた無茶して除霊でもしたのかもしれない。今までにも何度か、幽霊退治で彼が倒れる所を冬瑠は目撃している。元々、彼の能力は対人間が専門であり、それ以外の存在とは相性が悪い。
大丈夫、きっと。
冬瑠はそう自分に言い聞かせながら、通話を切った。ビュウ、と冷たい風が吹くのを睨むようにして、小走りに歩き出す。実都とは美術館観賞に何度も来るうちに趣味が合うことが判明し、家に招かれたこともあったから、マンションまでの道のりなら覚えている。
焦燥に急かされながら、冬瑠は冬空の下を走り出した。
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