白い腕。
無明の闇から伸びて来るのは、あの冷たい腕だけだと知っている。
冬瑠が息せきって駆け寄った灯月は、とりあえず見たところ、これといって悪い所は無い様に見えた。ソファに転がされて、呼吸もゆっくりとではあるが正常だし、冬瑠が咄嗟に触れた額から伝わる熱も平常だ。顔色も悪くは無い。
「…どう?」
問われて冬瑠は、うん、と意味の無い声を返して――そうしながら一先ずの安心でその場に座り込んだ。見ただけならば、彼は眠っているようにしか見えない。
「…よく分からないけど、能力使った時と同じだわ。一時間も放っておけば、大丈夫だと…思う。」
「そうなの?…ああ、良かったァ。」
廊下に出てみたら倒れているんだもの、驚いたわよ!
実都がやっと緊張していた頬を緩めて笑ったので、冬瑠もそれにつられて微笑んだ。
「ごめんね、この子時たま、無茶をするから。」
驚かせちゃったね、と言えば実都は気にしないでよーと笑って手を振ってくれた。それに安堵しながら、冬瑠はソファの上の青年の寝顔をじっと見守る。眼鏡を外して眠っていると、出会ったばかりの頃のような幼さがちらりと垣間見えて、
(可愛い、なんて言ったら怒るんだろうけど)
俺を幾つだと思ってるんだよと彼は不服そうに言うのに違いない。だから冬瑠はその言葉は胸中だけでしまい込み、実都に向き直った。
「実都さん、部屋まで運んでくれたの?ありがとね。」
「ううん、だってあんな寒いのに廊下に放り出しておくわけにも、ね…。元はと言えば私がお願いしたことなんだし。さすがに重たかったわ。引き摺っちゃった。」
お茶を淹れようとでもしたのだろう。台所に立っていた実都は気楽にそう返すと、ふ、と眉を寄せた。茶葉の缶をひとつ開いて中の香りを嗅ぎながら、
「ねぇ、そういえば幽霊、退治しちゃったのかなぁ。冬瑠さん、そういうの分からない?」
尋ねられて冬瑠は困惑した。灯月は倒れているから一体何が起きたのかは尋ねられないし、もしかすると「退治」は出来ていない可能性もあった。安易に答える事は出来ない。
「近くに幽霊が居れば分かるけど、此処からじゃ何とも言えないわ。あたし、星原君ほどハッキリ見える訳でも無いから…。漠然と、あ、居るなぁとか居ないなーとか分かるって程度で。」
「そういうものなの?あれ、冬瑠さんって能力者なんだっけ。」
「うん、受信…ESPって言われる方の能力ね。でも、あんまり幽霊さんとは相性、良くないみたい。…元々それほど強い能力じゃ無いし。」
受信、というのは能力者達の使う愛称である。ESPを受信、PKを送信と呼んで能力者の身内では区別をする。
ESPというのは元々、「知りえないはずの情報を何らかの形で知ることが出来る」能力であり、つまり「外界の情報を受け取る」能力だ。コレに対しPKは「何らかの形で、自分以外に対して普通とは違う方法で影響を及ぼす」能力、つまり「外界に働きかける」能力である。
この特性を称して、「受信」「送信」という言葉が生じた訳だが。
「星原君、だったっけ。彼の能力はどうなの?」
興味を持ったらしい実都の質問に、冬瑠はこれまた難問だ、と口に手を当てて考え込んだ。
―――星原灯月の能力は、非常に稀な、なかなか類を見ない能力なのである。故にどうにも説明が難しい。
「…星原君は…ちょっと、変わってるの。『送信』と『受信』の両方が出来る能力者なのよ。」
「それって珍しいの?」
ピィ、と鋭くケトルが音を鳴らす。コンロの火を止め、お茶を手際良く準備しながら実都は台所からそう問い返した。
「うん、かなり珍しいみたい。えーっと…でもこれ以上は、秘密。」
「えー?」
「…星原君、あんまり人に能力知られるの、好きじゃないんだ。」
冬瑠がぽつりと言えば実都もそれ以上は突っ込んで尋ね辛かったらしい。その話題はそれきりになった。
――多分、俺の力は、人の…一番、大事なものを駄目にしてしまう、冒涜する、そういう力なんだと思うんだ。
彼が過去にそう語っていたことを冬瑠はふいと思い出したが、実都がお茶菓子に差し出した和菓子が大変美味しかったので、それきり、そのことを忘れた。ただ思い出した瞬間に感じた、痛みとも、悲しみともつかぬ感情だけは、僅かに蟠って、彼女の心臓をちくちくと突いていた。
ここにいてはいけないの、と、誰かの幼い声が尋ねた。
冬瑠が顔を上げたのは、お茶菓子を食べ終えて二人、パンフレットを広げていた時である。灯月が倒れてから二十分もした頃だった。
誰かの声がした、と、冬瑠は思った。目を、上げる。そしてそのまま、ギクリとして動きを止めた。笑顔が一転して無表情になったことに、傍に居た実都も首を傾げて彼女を見遣る。
「どうしたの、冬瑠さん」
彼女は答えなかった。答えることに躊躇したように、見える。口を少し開こうとしてから閉じて、落ち着き無く視線を動かす。
「…ひめ」
ぽつりと呟かれた言葉はそのように聞こえたが、実都には当然意味は分からない。ただ冬瑠が何事か、酷く真剣な目をしているので、黙って彼女が立ち上がるのを見守った。冬瑠は、ソファに転がっている灯月の傍に歩み寄り――何故か、彼の頭の辺りをしきりに気にしている。
「…どうしたの…?違うわ。星原君が危険…じゃない。違う…。」
ぶつぶつと、其処には居ない何者かと会話をするかのように呟いていた彼女は、やがて眦を強くして、
「――起きなさい!」
実都がぎょっとするような声を張り上げて灯月を揺さぶった。う、と小さく唸り声を上げて、灯月の瞼が開く。
寝起きの人に独特の、焦点の定かでないとろんとした瞳が、室内をぐるりと見回した。自分の置かれた状況が解らない、と言った風に、次に実都を見つめ、冬瑠を見て、ようやくその瞳に意思の光が宿る。
「……おねえ、ちゃん?」
ところが、やっと目を覚ましたように見えた彼の開口一番は、こんな台詞だった。寝惚けているのか少し掠れた声が、子供のような舌足らずの口調で、
「…おねえちゃん」
と、はっきりと冬瑠を見つめながらそう呼んだ挙句、彼はにこりと安堵の笑みを浮かべて――
――よりによって冬瑠に、しっかりと、抱きついた。
ちょうどソファに上半身を起こしていたので、彼は冬瑠のささやかな胸元に頭を預ける恰好になる。
「…」
「……あー、あの、冬瑠さん、私、部屋出た方が、いい…?」
「……………ッ!!!!!」
実都の問い掛けで、ソファに座っている灯月に抱きつかれた恰好で硬直していた冬瑠はやっと、状態を理解したらしい。全身の毛を逆立てるようにして、悲鳴とも泣き声ともつかぬ音を口から漏らし、そうして自分の背中に回されている灯月の腕を叩く。
「や、ちょ、ほ、ほしはらく…っ!何やってるの落ち着いてっていうかほら段取りとかこういうのは色々と、あ、あたし、心の準備とか!」
完全に支離滅裂な台詞が、彼女の混乱振りを物語っている。実都はその様子を見てかえって冷静になってしまい、湯飲みを片手に、あー、何だそういう仲なのかと一人納得した。弟みたいな子とか言ってた癖にねー。
「あ、ある意味星原君が危険だったわヒメ…!」
実都の冷静な感想など露知らず、冬瑠は混乱したままかつての飼い猫の名前を呼び、それからどうにかして灯月から離れようと身体を引いた。とはいえ相手はもうそろそろ青年に差し掛かろうかと言う年頃の男性である。そうそう容易には、突き放せない――と、思ったのだが。
冬瑠自身も驚いたことに、灯月の腕は、冬瑠が抵抗の意思を見せた途端に力を失った。
安堵した冬瑠が慌てて身体を引き離すのと、同時に、代わりに彼は俯いて、とても静かに、ぽつりと零す。
「…いやだったの?おねえちゃん」
「……あ、あの、いやではないけど…じゃなくってぇ!」
珍しくその場で地団太など踏んで、冬瑠は声を荒げた。心なしか息も荒くて頬も赤く、その上、涙目である。
「あ、貴方、誰!?」
びしりと――お行儀悪く――灯月に人差し指を突きつけ、冬瑠は鋭く、そう誰何する。
果たして、灯月、いやもとい、灯月の姿をした何者かは、こくりと可愛らしく首を傾げてから、
「あそう、なおの。」
――そう、名乗ったのだった。
つまり、と冬瑠は頭を抱えながら隣で何やらいっそ楽しげな実都に現状を伝えた。
「…星原君の身体に、幽霊さんが取り憑いちゃったのね。その、男の子の、幽霊。」
「浅生直之、ね。うん、確かに、五年前の心中事件で死んじゃった男の子の名前だわ。」
実都はそう頷いて、そして――
――冬瑠にべったりとくっ付いている灯月を、しみじみと見やった。
何分、身長差が四十センチ近くある二人である。冬瑠の背中から青年が彼女を抱き締めていると、殆ど、父親が娘を抱っこしているようにすら見える。
「……冬瑠さん、重たくない?」
「重たいわよ!」
冬瑠は珍しく荒れている。苛立たしげに湯飲みを机に置いてから、
「馬鹿じゃないの星原君ってば!調査に行って自分が幽霊さんに憑依されたりして!」
言葉には涙声が混じっていたが、実都は静かに彼女の方に箱ティッシュを押しやっただけで、何も言わなかった。
「おねえちゃん、おこってる?」
そして哀しげな青年の――と言うべきなのか子供の、と言うべきなのか――問いかけに、冬瑠は何とも言えない表情で、応じる。
「…怒って無いわ。怒ってないけど…なおの、君?あなた、どうして、その人に取り憑いたの?」
「とりついた?」
きょとんとする灯月――ではなく、直之。身体が灯月なので、そんな風に幼い可愛らしい表情をされてしまうと、冬瑠は自分の中の怒りとか苛立ちとか、そういったものが一気に吹き飛びそうで、困った。
「…そうよ、その身体は、貴方の物じゃ無いの。…解る?」
噛んで含めるような冬瑠の説明に、しかし、直之は俯いて、そして唇を噛んだ。あ、と冬瑠は慌てる。子供が泣き出す寸前の仕草に、よく似ていたのだ。
ちょっとお願いその顔で泣かないで。
冬瑠は心底から慌てた。
「……分かんないよ、おねえちゃん…。だってぼく、暗くて、どうしていいか、分かんなくって…寒いし、誰も、僕の声、聞いてくれなくって…、」
灯月の声と顔でこんなことを舌足らずな子供の口調で言われて、冬瑠は眩暈を覚えながらも頷いた。自分に抱きついて離れようとしない、子供の魂の入り込んだ青年の身体をぽん、と軽く叩いてやる。そうすると、随分と昔、雨でずぶ濡れになった灯月が自宅に転がり込んで来た時のことを思い出したりする。
(――あの時の星原君みたい。)
あの時は、インフルエンザによる高熱で魘されていた灯月を叱り飛ばして寝かしつけて看病するので手一杯だったけれど。
何やってるの、どうしてこんなになるまで放って置いたの。殆ど泣きながらそう言ったら、彼は、だって、死ねるかと思ったんだ、とぽつりと零して、あの時、ああ、あたしはこの子を護らないといけないんだと、冬瑠は想っている。それは、四年経った今だって微塵も揺るいだことの無い誓いだ。
しかし同時に、心根の優し過ぎるきらいのある冬瑠には、目の前でただ俯いている少年の幽霊を無碍にすることも出来ない。余り長い事憑依の状態が続けば、灯月の精神や身体に悪い影響が残ることは理解していたが、ここで無理矢理、彼を灯月の肉体から追い出すことも出来かねたのだった。(やろうと思えば出来ないことではなかったのだが。)
「実都さん」
暫しの逡巡の後、冬瑠は目の前の女性に向き直った。拳を握る。
護らなければならないものの優先順位は覆せないけれど。だからといって何かを切り捨てる選択は、冬瑠には、出来ない。
「――あまり時間はかけられないけど、この子を成仏させてみようと思うの。五年前のこと、教えて貰える?」
冬瑠は、実は、あまり心霊災害にまつわる仕事をこなしたことが、無い。専門的な教育も受けたことが無かった。彼女の知識は学校で得られる程度の物と、それから灯月や火蝶、詩律といった身近な人物――いずれもプロかセミプロレベルの専門家――から教えて貰った事、それが全てである。
とはいえ「出来ないからやらない」等と言っていられる状況ではない。
やらなければならないから。
だから手段なんか選ばない。やるんだ。この子を助ける。幽霊の子も傷付けない。
それが誰を傷付けることも望まぬ竜堂冬瑠の選んだ選択肢である。
息を吸って、冬瑠がチャイムを鳴らしたのは、実都の部屋のすぐ隣の部屋だった。樋脇、と、表札には書かれている。
「…どちら様?」
「あ、ごめんね水理さん。ちょっと聞きたいことがあって。今大丈夫?」
室内からの誰何の声に答えたのは、冬瑠の傍に居た実都である。聞き知った声に安堵したのだろう、ドアが開いた。
冬瑠と同じくらいの年頃だろうか。冬瑠から見れば羨ましいほど背の高い、耳の下辺りで髪を切り揃えている女性が、顔を覗かせる。その顔を見た瞬間、冬瑠の後ろに立っていた灯月――の、身体を借りた直之が、嬉しそうに、声を、あげた。
「…水理(スイリ)お姉ちゃん」
「え?」
見知らぬ男にいきなり「お姉ちゃん」呼ばわりされて、まぁ当然の反応だろうが水理と呼ばれたその女性は、思いっきり胡散臭そうな表情になった。眉を顰めて実都を見る。
「誰」
「いやなんつーか、私の、お友達の、こちら竜堂冬瑠さん。で、そっちは…」
説明に困ったのだろう。実都が頬をかく。冬瑠は見かねて、口を挟んだ。
「あたしの…ええと、お友達…の、星原灯月君です。外側は。今ちょっと込み入った事情になってしまってて中身が違うんですけど。」
――灯月をお友達、と紹介する時、冬瑠はいつも少しばかり面映いような、不可思議な感情を覚えてしまう。それは別に彼女が彼のことをお友達以上の存在として意識しているからではない。むしろ逆かもしれない。冬瑠は、灯月のことを、友人だと思ったことが一度も無い。
けれども友人と紹介する以外に言葉が見つからないので、冬瑠は常日頃から、違和感を覚えつつもその単語を利用している。
奥歯に物が挟まったような違和感を抱える冬瑠を余所に、実都が言葉を付け加えた。
「えっとね。あの。冬瑠さんと彼、ちょっと、心霊災害絡みのお仕事をしている人でね。」
「あ、副業ですけど。本業は学生です。」
「…心霊災害?」
水理がぴくりと眉を動かし、そして彼女は話が長くなることを察したのだろう。ドアを大きく、開いた。
「……事情はよく解んないけど、このマンションで心霊災害ってことは、…五年前の話聞きたいんでしょ。どうぞ。茶くらい出すわ。」
一番に嬉しそうに部屋に上がったのは、灯月、もとい、直之である。中身が子供なだけに仕方が無いのだろうが、わーい、とはしゃいだ様子で靴を脱ぎ散らかして上がりこむ。後を追う冬瑠は慌ててその靴を揃えてやり、そしてお邪魔します、と頭を下げた。奇妙な光景に見えたのだろう。水理は矢張り、胡散臭そうな視線で二人を見ていたが、腕組みをして溜息をつくに留め、口に出しては何も言って来なかった。
そのことに安堵を覚えつつ、冬瑠は先にリビングまで入り込んだ直之を追いかける。
「直之君、この眼鏡、かけてて。」
こそりと囁いて、本来は灯月の物である眼鏡を差し出す。直之は首を傾げた。
「なんで?」
「なんでって…」
――灯月のかけている眼鏡は、伊達眼鏡だ。度は入っていない。確かに、かけていなくとも、日常生活に差しさわりがある訳ではない。
しかし冬瑠は強硬に、主張した。
「とにかく、かけて。お願い。」
直之は強い口調に、反発でも感じたのだろうか。口を尖らせ、拗ねたような表情をした。
「何で?僕、ちゃんと見えてるよ。」
「……ねえ、お願いだから。」
「どうして、そんなこと、言うの?」
じっと。
彼の視線が自分を凝視している。眼鏡をかけていない真っ直ぐな目。
冬瑠は適当な誤魔化しを口にしようとしたのだが、しかし、その視線を受けた瞬間に、彼女の身体はそんな思惑を容易に裏切った。頭で何か考えるより先に、心を裏切って勝手に口が、動く。
―――彼の、星原灯月の視線は、そういう能力を、持っている。望むと望まざるとに関わらず、他人を、自分の意のままに動かせてしまう、その異能。
「その眼は、人を、傷付けてしまうわ。」
言ってしまってから冬瑠はぞっとして、口を手で覆った。それが、本来は灯月の物である能力――視線だけで他人の心を操作する能力によるものだと、彼女は察して心が重くなる。こんなこと、言いたくなかった。例え目の前に居るのが、彼本人ではないのだとしても。
目の前の少年は、言葉の意味が解らなかったのだろう。眉根を寄せていたが、結局は、不承不承と言った様子で頷いた。冬瑠が突然暗い顔をしたので、何か気に障ることをしたのだろうかと、彼は子供なりに気を遣ったらしい。
「…わかった、かける」
「うん、ありがとう。」
テーブルの前に腰を下ろしている彼の頭を、冬瑠は撫でてやる。直之は嬉しそうに、眼鏡の奥で、猫のように目を細めた。
そうして冬瑠が無理矢理彼に眼鏡を押し付けた頃になって、水理が紅茶やクッキーを乗せたお盆を持って二人の対面に腰を下ろす。何となく付いて来ていた実都は部屋の入り口に居たが、
「…私、席外そうか、水理さん?」
「いいわ。大した話じゃないもの、そこ座って。」
水理はどこか投げ遣りに言って、空いたクッションを示した。そして冬瑠と直之に紅茶を差し出しながら、口を開く。
どっかりと胡坐をかいた彼女の口調は矢張りどこか投げ遣りであった。
「――そうよ、私が五年前、ナオ君…浅生直之と、浅生歌月の死体を、最初に発見したの。」
予想していた以上の――つまり、当時のことをそれなりに詳しく知っているらしいという事前情報以上の――話の切り出しに、冬瑠はティーカップを手にしたまま硬直し、そして、傍らに居た直之は、静かに目を伏せ、口を開きかけて、また、閉じた。何かを言おうとして取りやめたような動作だった。
冬瑠はふと思いついて、彼にそっと、席を外すようにと告げた。五年前のことを話してくれると水理は言っているから、当然、彼の死に関する話も出るだろう。そんなことをこの幼い(多分)子供の幽霊に聞かせるのは、酷だと思えたのだった。
冬瑠のそんな思惑を理解しているのかいないのか、直之は一度瞬いた後、意外な程素直に頷いた。名残惜しそうに、或いは何か物言いたげに水理を見たものの、彼女が自分には一欠けらの注意も払っていないことにがっくりと肩を落とし、そして、立ち上がる。
「…じゃあ僕、お部屋の外で、待ってる」
「うん、ごめんね。お話しが終わったら迎えに行くわ。」
直之の立ち去るのを待ってから、ゆっくりと、紅茶で唇を湿らせて、水理の話が再開された。
「私はね、元々、あの頃、近所の浅生直之…私はナオ君って呼んでたんだけど。あの子とは、仲が、良かったの。」
水理は目を伏せたまま、表情一つ変えない。視線は確りと自らの手にした紅茶のカップに固定したまま、冬瑠の方を見もせずに言った。
「…ナオ君は病弱だった。普段は健康なんだけど、なんか突然、救急車で運ばれることがあって、私は彼が病弱なんだと、思ってた。」
「思ってた?」
「――本当は違ったんだ。ナオ君は健康そのもので、別に病気なんかじゃなかった…あの、女が」
水理は、僅か、口調に力を込める。吐き捨てるように。
「代理ミュンヒハウゼン症候群って知ってる?」
代理ミュンヒハウゼン症候群。
ミュンヒハウゼン症候群と呼ばれる精神病の変形であると考えられているこの病は、多く幼子を持つ母親に発症するものである。
「…自分の子を、例えば首を絞めたりして、気絶させる。そうしておいて自分で救急車を呼んで、病院に入れて、自分は手厚く子供を看護する。そういう病気だよ。」
「何で、そんなこと」
冬瑠はぞくりと背筋が粟立って、両手で自分を抱き締めた。厭だ。そんなこと。聞きたくない。そう訴える感情を歯を食い縛って押さえ込む。
――母親からの不当な暴力。
それは。
――今、直之に憑依されて居る灯月もまた、同じことを経験しては居なかったか。
「理由は『子供を熱心に看護する献身的な母親』を演じることで、周囲の賞賛を浴びる為。…代理ミュンヒハウゼン症候群ってのは、多くが周囲から注意を払われておらず、子育ての孤独のストレスが原因だろうって言われてるけど、そんなの私は知ったことじゃ、無い。」
とにかく五年前。直之は何度も母親の手で病院に入れられ、そして母親の献身的な看護で退院し、また母親の手で入院することを、繰り返していたのだと、いう。最初の内こそ周囲は怪しまなかったが、あまりに何度も同じことが起きるのでさすがに訝しく思うようになった。
「あの女が虐待をしているんじゃないか、ってね。でも、証拠が無くて、どうしようもなかった…。」
当時、水理は13歳。中学生だった。そして直之は当時まだ5歳。春には小学校に入ろうかと言う、その矢先のことだった。
直之はよく一人で遊んでいたので、元々子供が好きな水理は何度か一緒に遊んだことがあり、マンションの部屋も隣同士だったこともあって、水理にとって直之は、歳の離れた弟のような存在であったという。
その日は回覧板をまわすついでに、また一人で遊んでいるようなら直之の相手をしてやろうか、水理はそんなことを思いながら、チャイムを押した。
「最初は何も反応が無かったの。おかしいなって思って私、もう一度、チャイムを鳴らして、…そしたら室内から、悲鳴、みたいなのが聞こえて。」
――水理はどうしようかと迷ったものの思い切って、ドアノブを回してみた。無用心なことに、鍵は開いていた。
室内に入った水理が目にしたもの、は。
――まず、倒れて動かない直之。目を見開いたまま、苦悶するような表情で硬直しており、その異様さに、彼が生きていないことを水理は直感した。
そして彼の倒れていたリビングの、奥。
ソファの影に隠れて、女性が倒れていた。
「――後で警察の人に聞いたの。ナオ君の死因は毒物だったって。それから、あの女は自分で自分を刺して、自殺したみたい。血が、…すっごい、出てて。」
「有難う。もういいわ。」
冬瑠は少し微笑んで、彼女の言葉を押し留めた。そこまで話を聞ければ充分だろう。
そうして彼女は考え考え、ゆっくりと、水理を見つめながら、口を開いた。
「…このマンションに、その直之君の幽霊が出ている事は、ご存知ですね?」
「ええ。…だって最初にナオ君を見たの、私だもの。」
彼女は言って、きり、とカップを握る指先に力を込めたようだった。
「驚いたし、それに、…まだこんな場所で彷徨っていたのかと思ったら、あの子が、可哀想で…」
呟くような声が、震える。冬瑠は一瞬、彼女に何か言うべきかと迷ったが、結局口にはせずに、事務的な口調で続けた。
「子供の幽霊と言うのは、少し、存在する力が弱いんです。条件が揃わないと、霊能力を持たない人と会話をすることは出来ません。それと、自分が彷徨っている理由が、本人にも解っていないという可能性もあります。」
「…え、」
冬瑠の言葉の意図を掴みかねてか、水理は目を上げ怪訝そうにした。
「だからその、子供の幽霊を成仏させてあげるのって、実はすごく難しいんです。…直之君が何を心残りにして此処に留まっているのか、貴方は心当たりがありませんか?」
本人に聞いても、要領を得ないものですから。
冬瑠の付け加えた言葉に、水理は一度目を瞠ってから、静かにリビングの外へ視線を動かした。
「…さっき、『お姉ちゃん』って呼ばれて驚いたけど。……もしかして貴方達、直之君を、」
「えーっと、その、…は、はい。彼に憑依して貰って、それでどうにか、お話しして成仏して貰おうかなーなんて思ったり…して」
アクシデントで灯月に憑依してしまったなんてことはとりあえず伏せておこう、と冬瑠は胸中だけで思い、その意図を察してくれたのか、隣でクッキーを齧る実都は何も言わずに居てくれた。有難う実都さん。今度何か奢るわ。冬瑠は心の中だけでそう呟く。
「…話は、出来るかな…。ナオ君と。」
言葉は平板ではあったけれど、縋るような視線が強い感情を抑え込んでいるのが解る。冬瑠はその瞳を見、それからリビングの外を見て、そうですね、と頷いた。
「――彼も貴方には会いたがっていたみたいですし…。」
「そう、なの?」
水理は瞬間目を瞠り、唇の端を噛んでまた、俯いてしまった。耳で切り揃えた黒髪がさらりと同時に動く。
「…私はナオ君を助けてあげられなかったのに」
「あの子はそんな風には考えてないみたいです。貴方を見て嬉しそうに、してたもの。」
冬瑠は彼女の、握り締められた指に触れて、穏やかに微笑んだ。
「それに貴方と話をすれば、何か、成仏のキッカケになるかもしれないから…出来ればあの、彼が何を心残りにしているのか、聞きだしてくださると助かります。」
言われた水理は俯いていた顔をあげ、決意を秘めてしっかりと頷くと、立ち上がった。
リビングの外、玄関の所で、直之は膝を抱え込んで座っている。姿は二十歳近い青年の姿でも、中身は僅か五つの子供であるから、その仕草も当然幼い。
――ナオ君なんだ、本当に。
信じられないような想いはあったが、水理はゆっくりと、口を開いた。
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