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白の無明


 事態を見届けることにしたらしい実都はどっかりとリビングに居座っている。そんな彼女に苦笑しつつ、冬瑠はそろりと席を立った。勝手に申し訳ないとは思ったが、トイレを借りようと思ったのである。
 同じマンションなのだから当然ではあったが実都に尋ねればあっさりと、トイレの場所を指差してくれた。
 綺麗に掃除の行き届いた手洗いを見、冬瑠はトイレの直ぐ傍の、洗面台に手をつく。何とはなしに、鏡を、覗き込んだ。冬瑠は自分の顔を気に入っている訳ではなかったし、それに何より、鏡像の自分が勝手に動き出しそうな錯覚を覚えてしまうので、鏡と言う物は好きではないのだが――

「ねぇねぇ、ホントに冬瑠だけでだいじょーぶかしら。」

 その、鏡に映っている「冬瑠」が、不意に口を開いた。
「さぁ…解んないわよ。でも、手は出すなって。」
 鏡の中の「冬瑠」に応じたのは、これまた、冬瑠だった。しかし冬瑠自身ではない。彼女の口調とは全く違っている。
「トキは何か言ってるの?」
「あいつはいつもとおんなじよ、眠ったまんま。」
「あいつが眼を覚ますような事態なんてそう起きて欲しいものじゃないけどね。」
 鏡の中の冬瑠と、その前の冬瑠と、そしてまた鏡の中の冬瑠。繰り返される奇妙な言葉は、不思議なことに、同じ人間の口から発されているにも関わらず、何人もの人間がそこで会話をしているかのように見えた。
「――どうしよう?」
「どうするの?」
「灯月は助けなくちゃいけないでしょ。」
「でも、手を出さない方がいいんじゃない?」
「冬瑠一人で大丈夫かなぁ…」
「それは心配よね。」
「でも冬瑠が一人で頑張ろうとしてるんなら、私は見守ってあげたいけど…。」
「あら、ちょっと早く生まれたからっておねーさんぶって。」
「何かと手を出すのも考え物よ。…あの子は、もう、一人で生きていかなきゃいけないんだもの。」
 会話はしばし続いたが、そこで一端途切れ、それから「冬瑠」は顔をあげ、天井を見上げるようにした。何事か考え込んでいるようにも、見える。
「ヒントくらい出してあげていいんじゃないかな」
「また、そうやって甘やかす」
「でも仕方が無いわ。灯月に何かあったら、私達だって困るもの。」
「これくらいならトキだって何も言わないよ。」
「そうよ。」
「そうね。」
「…そうかなぁ。」
「そうなの!」
 不本意そうな声もあったが、概ね、この会話は何がしかの方向で纏まったらしい。結論が出た所で、――冬瑠は、はっとしたように眼を丸くした。首を振り、そうして鏡を覗きこんで、彼女はふ、と息を吐き出した。
 洗面台に俯くと、濃い焦げ茶色の髪がさらりと流れる。
(やだ、あたしってば、ボーッとしちゃったみたい…)
 ―――先程までの奇妙な会談を、彼女は、記憶していない。彼女は鏡に手を触れて、目を伏せた。
 がたん、と、物音が響いたのはちょうど冬瑠が、洗面所を立ち去ろうと鏡に背を向けた時だ。同時に何事か、言い合うような、少し険を帯びた声が聞こえて、彼女は慌てて廊下へ飛び出す。廊下を出て、玄関はすぐ傍だ。視線をやって、冬瑠は凍りついた。
 灯月が、いや、正確に言うと中身は直之なのだが――青年が、水理の首に手を掛けている。壁に押し付けられた恰好で水理が、喘いでいた。
「…な、ナオ、君…ッ」
 手を伸ばす水理を睨む、直之の視線が、強い。
 凍り付いていた冬瑠は背筋に粟立つものを覚えて、覚えながらも咄嗟に動いていた。
「止めなさい、馬鹿!」
 声をあげて、灯月の、直之の背中を思い切りよく、蹴り飛ばす。いきなり蹴られるとは予想していなかったのか、彼はあっさりとバランスを崩し、玄関に膝から倒れこんだ。拍子に締め上げられていた咽喉を解放された水理が、咳き込みながら、矢張りこちらも崩れるように倒れこむ。
 冬瑠が先に駆け寄ったのは、直之の方だ。
「直之君!何で、…何でこんなこと!」
 直之は。
 どこかぼうっとしたまま、焦点の合わぬ視線を、彷徨わせた。冬瑠は激昂のままに彼を平手打ちしそうになり、自分で自分の手を押え込む。駄目だ、と。冷静な部分が、彼女を押し留めた。
 ――彼女は灯月が、例え中身が違っても、彼が人を、あんな風に傷付けようとしている姿なんて、見たくなかったのだ。
「どうしたの、冬瑠さん」
 実都がリビングから顔を覗かせる。まだ肩で息をしている直之を見遣り、水理を見、冬瑠はひとつ深呼吸。
「実都さん、ごめんなさい。水理さんを、お願い。」
 何が起きたのかは解らなかったが、まだ興奮している様子の直之を放って置くことは憚られ、冬瑠はそう彼女に頼むと、水理に手を伸べた。立ち上がった彼女を実都の方へ押しやり、自分は直之に向き直る。冷たい玄関に座り込んで、冬瑠は彼に弱く微笑みかけた。
「…直之君、何があったの」
 それでも声は強張った。直之は呆然としたまま、自分の手を見下している。じっと。身動き一つしない。冬瑠はその所作が不安になり、もしや、と彼の肩に触れた。
(冗談じゃないわ、星原君に憑依したまま悪霊化なんてしてないわよね!)
 全くもって冗談ではない――二重の意味で。精神操作能力を持っている灯月に悪霊が憑いたという事態も相当に深刻だが、それより何より冬瑠にとって深刻なのは、灯月の身体で悪さでもされたら堪えられないという点であった。ビジュアル的に、と言うことだ。
 幸いと言うべきか。冬瑠が触れた指先に、特に強い悪意のようなものは感じられなかった。僅かに強張って震える、幼い魂があるばかりだ。
 安堵しながら、冬瑠はもう一度、問い掛ける。
「――直之君、答えて。何があったの?どうして水理さんに、あんな、こと」
 …これで生半可な回答を返してくれたら今度は蹴りじゃなくて拳をお見舞いしよう。
 灯月絡みとなると案外武等派思考になってしまう冬瑠は、心に誓ってこっそりと左の拳を握り締めた。戦闘態勢。
「…ぼくは…」
 直之は、冬瑠を見上げながらゆるゆると口を開く。灯月の声。けれども確かに、それは幼子の言葉だった。
 冬瑠と、直之の目が、合う。
 彼の瞳は、怯えと混乱と、それから、強い感情を揺らめかせている。
「ぼくは、だって、…おねえちゃんが、おねえちゃんが」
「水理さんが?」
 その時。冬瑠の鼓膜を掻くように、不愉快な音がした。それは猫の首輪につけた、鈴の音だ。りん、と。僅かに震える金属の音と、同時に、マンションの冷たい床を小さな生き物の歩く、音とも呼べぬ音が、伝わる。
 冬瑠は不愉快さに眉を顰めながら振り返る。
 彼女の背後に、三毛猫が、居た。
(ひめ)
 色の褪せた赤い首輪を見、尻尾をピンと立てた猫の姿を確認した冬瑠は、息を詰めた。それは、冬瑠の、かつての飼い猫だ――疾うに死んだ、猫の姿だ。
 勿論、こんな場所で現実にその猫が存在する訳が無い。これは幻覚である。冬瑠も、そのことはきちんと理解していたが。
(ひめ、どうしたの?)
 彼女の前に死んだ飼い猫が姿を見せる時は、決まって、冬瑠自身かその身近に何がしかの危険が近いときだった。強いストレスから冬瑠の本来の能力、予知能力はかなり強い歪みを抱えており、予知が猫の姿を取って顕れるというのがその歪みの一端である。
(…星原君のことが、心配なの…?心配、してくれてるの?)
 猫はその胸中の問いに応えた訳でも無いだろうが。
 静かに一度、声を立てずに、尻尾を振った。颯爽と歩き出し、冬瑠の目の前にまで近付くと、ぐっと体勢を低くし、冬瑠に飛び掛る。幻覚と解っていても生々しい感触に、冬瑠は思わず後ろへ身体を引こうとしてたたらを踏んだ。
 三毛猫は、幻の爪を冬瑠の腹に立てて着地し、にゃあ、と鳴いて、そうして、消えた。
(…ひめ?)
 意図が解らずに冬瑠は目をぱちくりさせ、そうして直之に向き直った。爪を立てられた――錯覚とは解っていても――腹が、ちくりと痛む気がする。無意識に手を腹部に当てた冬瑠に、直之ははっとしたように目を瞠った。哀しげに、首を傾げる。
「…おねえちゃん、お腹、痛いの?」
「え?いえ、あの、大したことじゃないの。」
 慌ててそう誤魔化す冬瑠に、明らかにほっと安堵した様子を見せて、直之はこう続ける。
「おかあさんも、おなかがいたいって、泣いてたよ。ちが、いっぱい、出てた。」
 冬瑠は言葉が見つからず、ただ直之に視線を合わせた。うん、と頷くので精一杯だ。
 恐らく直之は、自らの死の前後の光景を、思い起こしている。母親が自分で自分を刺して死んだという、その情景を、思い出しているのだろう。
(?)
 ところがそこで、冬瑠の頭の中でちか、と何かが警告のように閃いた。違和感。
「…直之君、辛いことを訊くけれどごめんなさいね。…お母さんは、お腹を刺して、痛いって、言ってたの…?」
 直之は頷き、そして、言葉を続ける。冬瑠が先程の一瞬で得た違和感を、確かなものだと確信できるだけの言葉だった。
「――だけど水理おねえちゃんは、おかあさんを、助けてくれなかった。」


 一度。
 冬瑠は灯月から一度だけ、聞いたことがある。
 ―――それでもあの人は、俺の母親なんだよ。
 それは自嘲でも皮肉でも悪意でも憎悪ですらない。
 ただ、縋るような。
 滅多に人を恨まぬ冬瑠はその時、生まれて初めて、誰かを憎いと、思った。
 どうして。どうしてこのひとの心を、そんなふうに、持って行ってしまったの―――。
 

「……水理さんを、だから水理さんを、殺そうとしたの?」
「ちがうよ…ちがう。僕は、ただ、」
 直之は泣き出しそうな顔をしたので、冬瑠が慌てて彼の頭を抱いた。幾ら頭で理解できても矢張り、灯月の顔で泣かれるのは堪えるものがある。
「ただ、…おねえちゃんに、おかあさんを、きらいにならないでって、言いたかった。」
「無理よ!」
 答えたのは、水理の声だった。目をやれば、リビングから出て来たらしい水理が、泣き出しそうな顔をしてこちらを――というか直之を、強い目で見つめている。
 涙が今にも零れそうだった。
「…無理よ、だって、…ナオ君の母親が、あの女が、…あなたを殺したんじゃない…!」
 血を、吐くように。水理はそう言って、涙を一粒だけ零した。肩が震えたが、彼女はそれ以上は決して泣かなかった。代わりに、言葉を続ける。
 平板な口調がかえって、強い感情を秘めて強い。
「――わたしはあの女を、許さない。絶対に。」
 冬瑠は微かに眩暈がした。この人は。あたしと同じじゃないか。あたしそのものじゃないか。
「…直之君。…水理さんは、貴方が好きなのよ。」
 口を差し挟んだ冬瑠に、水理は僅かに鬱陶しそうに眉を上げたが、直之は初めて睨むような目をして、地団太を踏む子供のように声を荒げた。
「じゃあどうして、ぼくのおかあさんを、たすけてくれなかったの!」
 彼は唇をかみ締める。唇を傷付けてしまうのではないかと、冬瑠は心中穏やかではない。
 水理はと言えば、暗い瞳のまま、どこか投げ遣りに。
「――死んで当然だったのよ。」
「でも、かあさんは、」
 直之の声は、とうとう力を失った。弱々しく、吐き出すような吐息と一緒に。
「…かあさんはあのとき、まだ、生きてたのに。」
「水理さん」
 冬瑠はそっと、振り返り、極力優しく、しかし断固とした口調で告げた。
「……直之君のお母さんは、あなたが発見した時、まだ生きていた。――貴方は、直之君のお母さんを見殺しにしたんですね。」
 リビングから出て来た実都が、口元を覆った。悲鳴を抑えるように。
「そうよ」
 水理はく、と咽喉の奥で笑ったようだった。
「――未必の故意って言うんでしょう。私はあの時、確かに、あの女が死ねばいいって思ったのよ…!」
 乾いた音。
 冬瑠は瞬間、きょとりと目を瞠ってから、自分の左手をしげしげと見下した。さっきまでは拳を握っていた手に、じわりとした痛み。
 身体を大きくよろけさせ、廊下の壁に手をついた――冬瑠の腕力は実は結構な物であったりする――水理も、また、冬瑠と同じようにきょとりと目をぱちぱちさせている。
 自分が彼女に平手打ちを食らわせたのだと。
 気が付くまで、少しばかりタイムラグがあった。
「…あ、あの、ご、ごめんなさ…」
 咄嗟にそんなことが口をついて、しかし謝る必要が無いと思い直し、冬瑠は口を引き結んだ。直之に向き直る。
 直之もまた、彼女の行動に驚いたのか、目を瞠ったまま動かないでいる。
「…直之君。貴方が、此処に残っていたのは…今更、姿を見せたのは――水理さんを、恨む為?」
 直之の幽霊の出現と、水理がこのマンションに引っ越してきた時期はほぼ合致している。それは先程、実都に確認を取っていたので、確実な事実だ。
 果たして直之は、しかし、首を振った。
「違う。…ぼくは、おねえちゃんのこと、大好きだった。」
「そう。」
 冬瑠は頷いた。実際の所は――彼が否定をしてくれたことに、冬瑠は安堵していた。
「…じゃあ、そうね。水理さん、」
 と、水理に向き直って、冬瑠は――彼女を見ながら、どこか遠くを見るようにして、言葉を続けた。どこか哀しげに。
「……貴方は、直之君のお母さんを見殺しにしたことを、後悔していない?」
「…してないわ。」
「本当に?…後悔はしてなくっても、ずっと、苦しかったんじゃありませんか。」
 どうして、と恨んでも。どうして彼を傷つけたの、と、どれだけ恨んでも。
 それでもあたしの好きな彼は、母親のことを、恨みながらも、愛していた――
 冬瑠は唇を噛む。ああ、全く、何て様だろう。あたしは、他人のことなんかこんな風に言えた義理じゃないのに。
 あたしは未だに、――彼の母親をこんなにも、憎んで――
「……許してあげて、とは、言えない。あたしには言えません。でも、」
 冬瑠は、目を伏せた。まるで自分の似姿のような、水理の表情を見ることが、出来ない。耐えられそうに無い。
「…少しだけでいいんです。直之君の気持ちを解ってあげてください…。どんな母親でも、それでも、彼にとっては…やっぱり母親だったんです。」
 言葉は全て、自分に言い聞かせる言葉であったかもしれない。
 しばらく、沈黙が続いた。誰も口を開かない。
 誰かが、詰めていた呼吸を一息に零すように、息を吐き出した。
「………苦しかったわよ…。」
 水理、だった。顔を右手で覆うようにして、或いは、冬瑠に殴られた頬が痛むからなのかもしれなかったが。
「後悔はしてないよ。それは本当。…でも苦しかった。……あんな人でも、…あんな人でも、」
 吐き出すような。
「――あんな人でも、ナオ君は、母さんって呼んで、嬉しそうにして……ッ…」
 その先は、もう言葉にはならなかった。水理はその場にうずくまり、肩を震わせる。冬瑠は手を伸ばそうかと思ったが、やめておいた。直之が先に動いたからだ。
 彼は、生前の小さな身体とは比べ物にならない大きな腕で、彼女をそっと抱き締めた。泣きそうに、けれど頬を少し緩めて、穏やかに。
「水理おねえちゃん、ありがとう。」
 ずっとぼくを覚えててくれて、ずっとぼくをそんな風に想っていてくれて、少しだけ辛い想いもさせたかもしれないけど、それくらい好きで、居てくれて。
「……ありがとう。」
 水理が、顔をあげる。
「――ナオ君。ごめん。助けてあげられなくてごめんね…。もっと、もっといっぱい、生きられたはずなのに。」
 直之は寂しそうに首を横に振っただけだった。
「…もう、いいんだ。…ぼくはもう、おしまいだけど、おねえちゃんはいっぱい、生きてね。」
 そして、彼は冬瑠を見やる。灯月が他の女性に胸を貸して泣かせてやっている、というその場の情景に少し、いや、正直かなり複雑なものを覚えていた冬瑠は、その視線でやっと我に返った。
「ど、どうしたの?」
「…おねえちゃんも、ありがとう。ごめんなさい。」
「あ、謝ることは、無いわよ。」
 しどろもどろで言ってから、彼女は微笑んだ。問う。
「……暖かい場所へ、行ける?」
「明るい方へ行けば、いいんだよね。…だいじょうぶ。」
「そう。…なら、お休みなさい。」
 直之は、――ふわりと微笑むと、頷いた。水理の頭を撫でて、彼女にも同じように微笑む。
「…水理おねえちゃん、ばいばい。」
「………うん。…ばいばい。」
 お休みなさい。
 また、明日。
 二人の挨拶が合図だったかのように、ふっと、直之の――灯月の身体が、傾いだ。操り糸の切れた人形のように、その場に倒れこむ。水理も冬瑠も、それから一部始終を見守っていた実都も、それぞれに、思わず天井を見上げていた。
 天井、その向こうの遠い空、そしてその、もっともっと向こう。
 ―――直之は、明るくて暖かい場所へ、行けただろうか。



 灯月が、目を開いて最初に考えたのは、全くありきたりではあったが、
(あれ…?)
 ここ、何処だ。
 見慣れぬ天井に、彼は一度、二度と目を瞬く。何処か近い場所で、さざめくように女性達が笑いあう華やかな声がしている。
 その笑い声の中に、聞き間違うはずも無い声を聞いてとって、彼は身体を起こした。どうやら自分はソファに寝かされていたらしい。周囲を見渡すが、見知った場所では、無かった。全く記憶には無い。
 冬瑠は、ソファのすぐ傍でテーブルを他の女性二人と囲んで、紅茶とクッキーを楽しんでいる様子だった。が、灯月に気が付くなり、一度ぱっと顔を綻ばせてから――
 直ぐに、怒りを顔に浮かべた。
「星原君、目が覚めた?」
「…あ、ああ。…ええと、俺…?」
「……あらやだホントに別人ね。」
 ぼそりと言ったのは耳の辺りで黒髪を切り揃えた女性で、もう一人が、「元に戻ったねぇ」と暢気なことを言う。意味が分からず目を白黒させている灯月を余所に、三人は目配せを交わす。冬瑠が、腰に手を当てて立ち上がった。灯月につかつかと歩み寄ると、
「この馬鹿!」
「へ?」
「仕事中に幽霊に憑依されたなんて。おじ様や夕玉さんが知ったら、何て仰るか!解ってるの、星原君、貴方一応、プロでしょうっ!」
 憑依。された?
 灯月はその言葉の意味をしっかりと頭の中で吟味してから、頭を抱えたくなった。実際には頭を抱えるより先に、吐き気を催して倒れそうになったのだが。(灯月は体質的に、非常に幽霊と相性が悪いのだ。)
「…憑依?俺が?」
 せり上がってくる嘔吐感を堪えながら問えば、冬瑠はそうよ、と矢張り怒っているらしい。当然だ。幽霊退治を任せた相手が幽霊に憑かれていたなんて、ミイラになったミイラ取り以上の間抜けじゃないか。
 全く。灯月に仕事のやり方を仕込んだ師匠である詩律や夕玉が聞けば、大爆笑か盛大な嫌味かどっちかが待ち受けているに違いない。
「………悪い。悪かった。」
 青くなりながら灯月は、仕事の依頼主であった実都に頭を下げた。彼女は笑って、気にしないでとは言ったが、灯月の気持ちはそれでは済まない。彼もまた、相応にプロとしての矜持と言うモノが、ある。
「仕事の依頼料は取らないし、何なら迷惑料も支払う。…済まなかった、迷惑かけて。」
「いいよ、いいよ。ちゃんと冬瑠さんが解決してくれたから。ね、水理さん。」
 スイリ、と呼ばれた女性は言われて軽く肩を竦めただけだったが、僅かに泣きはらしたらしい赤い目を悪戯っぽく歪ませた。
「そうね。私はお陰で、ナオ君と話も出来たし。御礼をしたいくらい。」
 冬瑠は、二人にごめんなさいね、と言って笑い掛けてから、灯月に向き直った。ソファに身体を半分起こした状態の灯月を覗き込んでから、彼女は、怒りを納めてふ、っと微笑んだ。
 ――至近距離でその表情を見ていた灯月が、一瞬、吐き気も頭痛も忘れるくらいの笑顔。
「でも良かった。星原君が、無事で。」
 


 灯月が目を覚ましたことで、女性三人のお茶会はお開きになったものらしい。三人は灯月にはよく解らない話題でしばし何事か言い合った後、また逢いましょうね、とそれぞれに手を振り、そして帰路につく事になった。
「…仲良くなったのか。」
「ええ、だーれかさんが、あんなことになっちゃって。二人にも迷惑かけたんだから。」
「………すみません…。」
 思わず小さくなる灯月である。
 マンションから駅に向かう道は、もう夕暮れになっていて、随分と寒い。ポケットに手を突っ込んだままで灯月が白い息を吐く。しばらく、互いに会話も無く足を進める。静かな住宅街のことで、ほとんど沈黙には雑音が入らない。
 ぽつりと、冬瑠が口を開いたのは駅が間近になってからのことだ。
「…ねぇ、星原君」
「んー?」
 灯月が振り向いた先、半歩後ろを歩いていたはずの小さな頭が、俯いている。
「…お墓参りに、行こうか…?」
 その彼女が、低い調子でそんなことを言い出したので、灯月は首を傾いだ。
「誰の」
 けれども、何故か、灯月はこの瞬間、冬瑠がこんな風に暗い調子で言う「お墓参り」が誰の為の者なのかを、察している。
 理由も根拠も、灯月には全く解らなかったが。直感に似た確信が、何故だかあった。
 先程まで自分に憑依していたという、幽霊のせいかもしれない。――そう感じた理由もまた、灯月には解らなかったけれども。
 ――冬瑠はきっと。
(俺の、)
 母親のことを、口にしているのだ。
「…えっと、…誰の、っていうか…」
 冬瑠は少しばかり口篭ったが、やがて目を上げ、誤魔化すように頬を引き攣らせた。
「………ごめん、忘れて。」
「そうだな。」
 ただの誤魔化しの言葉に対する、彼の同意に驚いたのだろうか。冬瑠が、大きな瞳を丸く瞠る。
 灯月は笑うように口を歪ませて前を向いた。ポケットに手を突っ込んで、空を見上げて、笑って居るつもりはないけれど、笑って居るように、自分は見えているのだろうか。
 見えているのだとしたら、それはどんな皮肉なのだろう。
「――でも、いつか、行こう。」
「え」
「多分、…きっといつか…もっと穏やかに、思い出せる日が来るんじゃないかって」
 そんな日は本当に来るのだろうか。
 その瞬間、二人の脳裏を過ぎったのは奇しくも同じ疑問だったけれど。
 二人は同時に空を見て、夕暮れを見上げる。
「帰ろう、先輩。」
 帰ろう。
 そう言い出したのは灯月のほうだった。冬瑠は何か物言いたげに、僅かに口を動かしたが、結局、何も言わずに、頷いた。
「……そうだね。」




「白の無明」  了
060319


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