鶺鴒と金糸雀を残して立ち去る、その去り際、自分の服の裾を掴む幼い指先が、白く色を失う程に強く握りしめられていることに、夜中は気付いていた。先の会話のせいだろう、小さく彼女に気取られぬように息をつく。
 ――魔物に落ちる最後の一瞬まで、翆の手を取ったことを後悔しない。
 それは彼の心底からの本音ではあったけれど。
「翆」
「……」
 試しに呼べども少女の答えはなく、恨みがましく服の裾を引く手に力がこもるばかりだ。
「俺が覚えているから…お前は、気にしなくて、いいんだ」
 こんな言葉がどれだけの気休めになるだろう。彼はそう思ったが、それでも言わずにはいられなかった。――もっと自分が雄弁な性質であれば、彼女をもう少しくらい騙しておけたかもしれないのに、と少し口惜しい気もする。寡黙な己の性質をさえ苛立ちの種にしてしまうのは、彼にしてみれば珍しいことだ。
「…夜中、分ってるんでしょう。そんなこと言ったって、私はやっぱり気にするよ」
 ――そして彼の予想通り、彼女の返した言葉は、酷く陰鬱なものだった。俯いた彼女の表情までは霧が覆って見えなかったが、ああ、きっと、悲しげな、自分を責めるような、そういう感情を浮かべているのに違いないのだ。
(そんな顔をさせたい訳じゃないのにな…)
 どうして俺はいつも上手くやれないんだろう。
「…魔物に落ちる、って、どういうことなの」
 彼女の口調には珍しく、詰る様な響きがあった。
 どうして私に秘密にしていたの。
 そんな響きが。
「教えてよ。教えてくれるまで、夜中とは一緒に寝てあげない」
 さくさくと落ち葉を踏んでいた黒猫がけたけたと笑った。
「上手い切り返しをするじゃアねェか嬢ちゃん」
 夜中の方はうんざりとした様子で、霧の中に現れた小屋の扉を開けた。
「馬鹿なことを言ってないで、入りなさい」
「いや。夜中の言うことなんて聞かない」
「翆」
 二人の言い合いを余所に、黒猫は小屋へと入る。そうして、尻尾をくねらせた。
 二部屋しかない小さな小屋は、このたった一匹の獣が暮らす為に作られたもので、決して居心地の良いものでもない。何せ、人の使うような家具の類がろくにないのだ。藁を敷いた小さな箱がひとつ、人形を作るための工具を並べた棚が壁にぐるりと設置されている。台所もなく、暖房の類さえない。奥の部屋ならば人間用の寝台もあったが、こちらはろくに使っていなかった。先ほど翆を横たえていたのもそちらだ。
 床には作成途中の「人形」やその部品、腕やら足やら、生首やらがごろごろと散在していた。翆が小さく悲鳴をあげたが、他の二人にしてみれば見慣れたものなのだ、さして動じる様子もない。
「話なら中でしなァ、二人とも」
 二人が同時に振り返る。黒猫はそれを醒めた目でじっと見、ふいと目を背けた。
 小屋には小さな窓がひとつだけあしらえられており、黒猫の見上げたその窓の向こう側には、霧を透かした僅かな陽光にゆらゆらと光を弾く小さな泉が広がっている。霧の晴れて居る日であれば、水面の反射が天井に揺れる様を見ることが出来た。
「ああ、懐かしいなァ」
 ぼそりと黒猫が呟くと、夜中が咎めるように視線を鋭くした。が、意に介さずに黒猫は続けた。黒猫が見上げたのは、誰あろう翆である。幼い姿をした魔女を見、彼は、静かに続けた。
「…嬢ちゃんと夜中が出会ったのも、この泉だったンだよ」
「私と…夜中、が?」
 不思議そうに、本当に不思議そうに、翆が首を傾ぐ。それから不安げに見上げた先、夜中は顔を顰めて、いかにもその話題に触れたくなさそうな表情をしていた。
「――その話は、また今度だ」
「…私、聞きたいわ」
「今度、だ」
 強く繰り返され、その調子が梃子でも動かぬ頑なさを秘めていたので、翆はそれに関しては渋々引き下がることにする。
「…本当に、今度、必ずよ?」
「ああ」
 確認に彼が頷いたので、それだけは翆は安堵した。彼は、無論「約束を守る」という「店主」としての性分もあるのだろうが、言葉ひとつを大事にする。必ずと約束したならばそれを違えることもないだろう。
 それがいつになるかはさて置いても、だ。
「……さっきのことも、『今度』話してくれる?」
 次いで、翆がそうおずおずと提案すると、夜中ははぁと溜息をついた。疲労を感じさせるその吐息に、黒猫がひくりと鬚を動かす。
「お前、疲れてるんじゃないか。あんなとんでもネェことしたんだから、当然だがよゥ…」
「とんでもないこと?」
「……俺の言葉を『届ける』必要が、あったから。自分で自分を撃った、それだけだ。別に騒ぐほどのことじゃない。怪我もしていないしな」
「だが、無茶にャあちげぇねェぞ。…嬢ちゃん。あっちの部屋に人間用のベッドがある。替えのシーツも棚にあるはずだ、準備をしてくれネェか?コイツは少し休む必要がある」
 自分で自分を撃った、というくだりに顔色を青くした翆は、黒猫の言葉に大急ぎで従った。先ほどの自分の質問など忘れてしまったようだ。夜中は眉をあげてちらりと、獣姿の旧友を見やる。黒猫の表情は人には分かり辛いが、付き合いの長さで推測の可能なこともある。彼は小さく、ぱたぱたと走り出した翆に気取られぬ程度に黒猫に控え目な礼をした。
「…悪いな、『人形師』…助かった」
「矢張り、話す気にゃア、なれネェかィ?」
 賛成できない、と言外に含みを持たせながらも、「人形師」がそう返す。夜中は少し思案して、目元を陰らせた。
「――俺の我儘なんだろう、それは分かってはいるんだ。…翆は、本当のことを知ればきっと俺の苦痛の為に、苦しむだろうから」
「愛は人の目を曇らせる、たァよく言ったものだね、全く」
 老いた「人形師」は低くそう呟き、尻尾の先を垂れさせた。
「俺ァ、気付いてたンだぜ、夜中。お前の家族は気付かなかったかも知れネェが」
「何に」
「お前が許せなかったのは――鶺鴒が嬢ちゃんを殺そうとしたことじゃア、ネェんだろう?」
 夜中は目をそらし、その言葉を無言で、無抵抗で、受け入れようとしているようだった。その姿に何か痛ましいものを感じながらも、「人形師」は確認せずにはいられない。静かに、続けた。
「お前が本当に許せネェのは、…お前の罪が、苦痛が、あの嬢ちゃんと繋がっているってェ、唯一絶対の証になるから、だろ。…だからお前は、お前の罪と痛みを、他の誰にも分けず、与えず、話すことさえしねェんだ。奪うことも、まして今回の鶺鴒みてェに肩代わりすることなんて、決して許せやしネェ。…大した我儘だ、夜中。それも、テメェのお気に入りの玩具を手放したがらネェ、ガキの癇癪みてぇな独占欲だぜ、それは」
 言葉は嘲うようなのに、黒猫の言葉は静かすぎて、いかなる感情をそこに見出すことも不可能だった。夜中はただその言葉を受け入れ、目を閉じる。まるでその瞼の裏の暗闇に何か、大切なものを押しこんでいるかのような、長い瞬き。
「ああ、本当に」
 目を閉じたまま、彼はそう、呟いた。
「俺は…どうしようもないな」
「ああ。本当に全くお前はどうしようもネェ、ガキだよ、夜中」
 「人形師」は唸るように同意し、尻尾をぶん、と大きく振って、
「だから少し、大人になりなァ。…その痛みを、家族が駄目なら、せめて嬢ちゃんと分つべきだぜ。全く、嬢ちゃんとの繋がりを守るために、嬢ちゃんからさえ自分の痛みを秘密にして、それじゃア、本末転倒じゃアねェか。…いっそ苦しませてやるってェのも…一緒に苦しむってのもよ、ひとつの選択としてアリだと思うぞ、俺ァ」
 一息にそう言って、黒猫は疲れたように深々と息をつく。
 瞼を開いた夜中は、思案げに俯いていたようだったが、黒猫はそれ以上、彼のことを気にするのをやめることにした。――言いたいことは全て言ったし、それを受けて彼がどう行動しようと、最早、黒猫に口を挟むことは出来ない。
「休んだら、出発するのかィ?」
「…ああ」
 夜中はどこか遠くを見ている。寝台の上にシーツを伸ばす翆を見ていたのかもしれないし、その向こう側、「禁域」と呼ばれたあの泉に、遠い昔話を思い起こしているのかもしれない。
「そうだな……いずれは知れることか」
 感情を見せぬ声色に、黒猫はもう、問い返しもせず、諌めも、しなかった。