ぱきん。
 何かがひび割れる音のような気がした。判然とはしなかったが。そもそもここに割れるようなものがあっただろうか。(その音がするまで、彼女はそんなことを考えることさえ出来ないでいたのだが)
 娘は周囲を見渡す。見渡そうとして、そこに、闇のような霧のようなものが立ち込めていることに気付いた。次に、自分がその闇に囚われているらしいことに気付く。手足は自由だろうか。(自身の身体の輪郭さえ、既に彼女は失っていた)――指を動かす。次いで足を。腕を。最後に首を振ると、肩の辺りを伸ばした癖毛がさらりと撫ぜるのを感じることが出来、彼女は安堵の溜息を(それまで呼吸さえしていなかったのに)ついた。
「私は…」
 彼女は指を伸ばした。
 白いのか黒いのかさえ判然としない闇が目の前に広がっている。否、彼女自身の目が失われていたのかもしれない。どうやら自分はこの場所で、自分を見失っていたようだ。
 身体を撫ぜる。自分の輪郭を思い出す。
 ぱきん。
 また何かが割れる音。耳に心地よい。(不思議とこの場所と似たような場所を彼女は知っているような気がした。赤い花。泉の祭壇。)
 声をもう一度出してみた。
「私は、」
 名前。を。
 思い出せ、と、誰かが頭を揺さぶっているような気が、した。
 私は誰だった?
 自分の身体を自分で確かめるように抱きしめる。思い出すのは自分の姿。燃えるような赤毛――否、それは違う。それは、私じゃない。
 私は。
 胸の内にくすぶっていたのは赤毛と同じくらいに燃え立つような、裏切られた、という痛み。(彼は私を置いて消えた、罪を犯す為に)
 違う。また否定した。
 この痛みは私のものじゃない。
 私は。
 自分を思い出そうとするたびに頭の中をかき混ぜられるような気がした。頭蓋を打つ痛みが集中を乱してしまう。その度に抱きしめている自分の輪郭さえもがおぼろげになり、それが恐ろしくなって彼女はその場にうずくまった。
 
 思い出せ、

 ぱきん。
 また何かが割れた。
 頭蓋を割る様な痛みは増したが、身体を覆う不安定な感覚が消える。足元を確かめるようにして彼女は足元を見た。それまでまるきり視界を閉ざされて見えなかったのだが、彼女の足首に、荊が絡んでいるのが見えた。

 思い出せ。

 呼んで。
 そうすれば飛んでいける。
 彼女は背中の翼を震わせた。(その時まで、翼のことなど忘れていたのに――)小さな翼は彼女の羽ばたこうとする意志に答えて膨らみ、細い体を抱きしめるように広がる。
「呼んで…」
 呟く。空気を震わせたのが確かに自分の声だと確信した。
「呼んで!」
 お願い。
 声を聞かせて。
「夜中!」
 (砕ける音がした。)
 霧が。闇が。夢が、(記憶が、)それとも別の何かが。
 全て砕けて、(消える音がした。)



 (どこか遠くの方で、誰かが小さく悲鳴をあげた。)
 (そんなはずがない、この術が破られるなんてこと、ある訳がないのに――)



 胸を。
 ナイフが貫いた瞬間のことを、思い出している。
 彼の手が震えていたことを、思い出している。
 心臓に触れる刃の冷たさと、今にも泣きそうな彼の表情と、流れた血が皮膚の上で熱く燃えるようなのに、すぐさま冷たく固まっていくその感覚と、そうした全ての情景を思い出している。
 私の痛みは、これだと、彼女は確信する。
 ――この痛みは私だけのもの。誰にも否定させないし、誰にも渡さない。この痛みが、私が私である証になる。
「夜中、夜中、夜中ぁ…」
 震えながら繰り返し名を呼ぶ。自分が何所に居るのかも判然としない。ただ、さっきまで酷い夢を見せられていた気がした。もしかするとまだ夢の中なのかもしれない。だが、心臓に刺さった痛みを思い出しさえすれば、ここがどんな夢の中でもまだ、安心できた。これさえあれば、自分の輪郭をそうそう忘れることなど無い。
 だから痛みに縋るようにして、その場にうずくまっていた彼女に、ふいに柔らかなものが触れた。
 驚いて目を上げた先、彼女に鼻先をおしつけるように、大きな青い毛並みの獣が座っていた。濡れた鼻先は冷たいが、触れた毛並みは温かい。
 それは、彼女を丸のみに出来そうなほど大きな一頭の狼だった。群青色の毛並みをした狼が、彼女に寄り添うようにそこに居た。
「…?」
 最初こそぎょっとして後ずさりをしたものの、その狼の瞳に吸い寄せられるように、彼女は足を止めた。恐る恐る、手を伸ばす。耳の辺りをそっと撫でると、狼は刃の色の目を気持ちよさそうに細めた。
 刃の色の、眼をした、狼。
「…よ、なか…?」
 狼は頷くでも否定するでもなく、ただ呑気に欠伸をして見せた。言葉を解することは出来ないのだろうか、首を傾げながらも、彼女はまぁいいかと思い直した。これが仮に夜中で無かったとしても、こんなに夜中によく似ているのだから、きっと悪いものではないのだろう。事実、この狼は真っ暗な闇の中で自分の姿さえ忘れてしまいそうな彼女にじっと寄り添ってくれている。
 そっと彼女が狼の首に腕をまわし抱きつくと、狼は鬱陶しそうに尻尾を振ってから、口を開いた。そうして、凶暴な牙の並んだ口から洩れたのは、

「――いつまでそうしている気だ、翆」

 ――いつもの不機嫌そうな彼の声だった。



「え、え、…あ!」
 この時、ようやく彼女は思い出した。本当に思い出すべきたった一つを、やっと思い出せたのだった。
「翆、…そうだ。私の名前。翆だった」
「二度手間をかけさせるな。何で俺の名前が先なんだ」
 普通は自分の名前から思い出すものだろう、狼がすっかり呆れた風に言うのを聞くのも、何だか嬉しい。
「ごめんなさい。だって夜中の声が聞こえたから、嬉しくって、つい」
 狼は、微笑んだ彼女に何を思ったのか、僅かに不機嫌そうに鼻を鳴らして――現実に人の形をした彼ならば、きっと眉根を寄せた表情をしているのに違いない――尻尾をぱたり、と動かした。彼が尻尾を揺らすのは、どちらかというと苛々している時だ。
「……俺は喜ぶところなのか、それともお前の間抜けさを嘆くべきところなのか?」
「間抜けって何よぅ、酷いなぁ」
 しかし、彼が喜ぶような点が何かあっただろうか。首を傾げて考え込んでいると、ぐい、と狼が彼女の服の裾をくわえて、引く。
「何するのよ」
「何って、帰るに決まっているだろう。何度も手間をかけさせるな」
 言うなり、狼は鼻先で自分の背中を示して見せた。
「乗れってこと?」
 ぱちり、と瞬いて翆が恐る恐る問うと、
「早くしろ」
 狼は淡々と言って、それから彼女に合わせるように姿勢を低くした。そうして何やら唸ったが、どうやら独り言のようだ。
「何も、夢の世界でまでそっちの姿で居ることはないだろうに、お前は…」
「え?なぁに?」
「何でもない。…記憶が戻らない限りは、お前はそのまま、幼い姿にしかなれないんだろうな」
 はぁ、と溜息をついた狼は、背中に翆が乗ったのを確認するなり、すっくと立ち上がり、どこへともなく駆け始めた。






 思いのほかに猛烈な速度に翆が思わず目を瞑り、光を感じて目を開けた時、そこには唖然とした表情の女と、あまり見たくない老女が立っていた。鶺鴒と、水鏡。その鶺鴒は身体の半ばまでを影に覆われている。
 ――モリビトの仕業だ。直感的にそう悟り、翆は声を荒げた。
「水、…モリビト!」
 名を呼ぼうとしてそう言い換え、翆は咎める視線を送る。睨んだ先、老女が慇懃に一礼をして見せた。
「ご無事で、お姫様」
「やめて!私は無事だったんだから、彼女を害する必要はないの!」
 モリビトは墓所の一部だ。だから、墓所の姫と呼ばれる翆を守ろうともするし、同時に墓所を出た彼女を連れ戻そうともする。鶺鴒は、恐らく自分を害した咎で、モリビトに攻撃されていたのだろう、そう察して告げた彼女に、しかし反駁の声をあげたのは、庇われたはずの当の鶺鴒自身だった。
「止めろ、新月の魔女」
 身体の半ばを影に奪われ、恐らくあの状態では体温も維持できまい。自分の輪郭が分からなくなる恐怖は、先程翆は経験したばかりだから、容易く想像できた。だが、それを周囲に悟らせもしない、堂々とした調子だった。
「…貴様に憐れまれるくらいだったら、このまま死んだ方が余程良いくらいだ」
 睨む鶺鴒の視線に毒を感じ、翆は思わず、夜中に縋ろうとし――そしてはたと気付いて、顔を上げた。彼女は横抱きに、夜中に抱きかかえられていたのだ。そして見上げた先、夜中の顔色は、霧の中でもそれと分かるほど青い。
 いつの間に狼さんから人間に戻ったのかしら、とちらりと翆は状況にまったくそぐわぬ呑気なことを考えてから、すぐ現実に意識を戻した。
「夜中、下して。もう自分で歩ける、大丈夫」
「…ああ」
 そう答えながら、夜中は彼女を地面に下ろすことはしなかった。翆を抱える腕に僅かに力をこめて、彼は眼前の、赤い髪の女に視線を投げ――それから墓所のモリビトに、自身の祖母の姿を奪ったそれに目をやる。
「お前だな。あの『人形』を動かしたのは」
「…あれは、魔女を模したもの。少し後押ししてやれば、自力で勝手に動くようになるのよ」
 にこりと微笑む祖母の顔は、見なれたもののようでいて、背筋が粟立つ程に違っている。
「――でも姫君を無事に取り戻せて何よりだったわね、『魔女殺し』」
「俺を、その名前で呼ぶな」
 低い恫喝を含んだ声。それ以上言えば実力行使に出る、と、彼の声は言外に告げている。だが恐れた様子もなく、モリビトはただ微笑んでいた。彼と鶺鴒の記憶の中にある祖母の姿そのままで。
「鶺鴒に、姫君の動きを止めて欲しいとお願いしたのに、あなたの従姉も、所詮は魔物の血縁なのかしら。姫君を殺そうとしてしまうのだから、参ってしまうわ」
「…っ!!」
 息を呑んだのは誰だったか。
 ただ翆に分かるのは、次の瞬間、落ち葉の上に放り出されていたと言うことだけである。唐突な落下に驚いて、翼を使う間もなく落ち葉の上に転がるのと、それと同時、銃声が森にとどろき、その後を追うように、鋭い何かが霧を裂いて飛来する音が響いた。
「――墓所へ帰れ!」
「貴様にあたしの家族を愚弄する権利なんかあるものかっ!!」
 叫びも二つ。同時に。
 赤い髪の「語り部」と、群青の髪の「郵便屋」は、図らずして二人同時に、モリビトに攻撃を仕掛けていた。
 矢に貫かれ、銃弾に心臓を撃ち抜かれ、老女はそれでも動じた風なくその場で微笑んでいたが、夜中が更にそこへ追撃をかける。懐のナイフを、彼は投じていた。
「墓所へ、鏡へ、寄る辺を求めろ。夢見るものは寝台の中へ帰り、夢見ぬものは墓土の下へ帰る」
「そして土の下で夢を見ろ、墓所のモリビト!お前が求める夢の中で溺れてしまえ!」
 朗々と重なる二つの呪文の、ぴたりと合った調子に、我知らず翆は胸が痛んだが、その理由も分からない。分からないまま、目の前のモリビトの姿は次第に薄れて行った。
「…ふふ。あまり長いこと、こちらの世界に居過ぎたようね。ここは引くとしましょう…鶺鴒にまで拒まれては、私に寄る辺はないようだしね」
 鶺鴒がきっと、薄れゆく影を睨みつけた。
「祖母の姿であたしを騙して、勝手に人を寄る辺にするな!」
「あら、つれない」
 くすくすと笑い声だけを残し、とうとうモリビトはその一言を最後に、霧の中、姿を消した。
 同時、鶺鴒の身を覆っていた影も霧散して空気の中に溶けて、消えていく。
「おい、鶺鴒…」
 ――そこで鶺鴒の限界が来たようだった。慣れぬ術を使った上、ずっと魔物化の危険をはらむ緊張を強いられていたのだ、そこから解放された彼女が倒れてしまったのも無理からぬことである。
 どさりと落ち葉の上に倒れた鶺鴒に、夜中がそっと近づく。更にその後ろで、翆は何も言わずに控えていた。
「…この馬鹿…」
 唇を噛んだ彼の小さく洩らした言葉は間違いなく、鶺鴒への心配から来た言葉に違いない。そう思えばこそ、何故か、悔しかった。夜中が鶺鴒の赤毛に触れるのを、見て居られない。
 そっと目をそらした翆の耳に、キィ、と小さな金属音が飛び込んできた。
「…亜鉛?」
 夜中に気取られぬよう小さな声で問いかけると、霧の中を鉛色の塊が一直線に飛び込んできた。思わず受け止めた翆に、更にその後ろから、おーい、とざらついた声が聞こえて来る。
 黒い猫の姿は予想の範疇だったが、その後に続いて現れたのが鶺鴒とそっくり同じ容姿の人物だったので、翆はぎょっとして木陰に隠れてしまった。
「おいおい、隠れるこたーないだろ…」
「…何だ。お前達も来たのか」
「うわひっでぇなー…って、鶺鴒っ!?」
 笑み含んだ声は、倒れた彼女の姿に気付いて、険を含んだものになった。緊張にびくりと身を竦ませた翆を余所に、夜中は小さく、溜息を返す。
「大丈夫だ…しばらく休息は必要だろうが。怪我は殆ど無い。それ以上悪いことも、起きてはいない…」
 言いながら、夜中もふらりとその場に膝をついてしまった。さすがにこれには驚いて、それまで小さくなっていた翆が飛び出してくる。
「夜中!?」
「…大丈夫」
「で、でも、…っ!」
 何故だか、彼に酷く無茶をさせてしまったのではないかという焦燥が彼女の胸にちりちりと焦げ付いている。泣きそうな気分で彼に必死で縋りついていると、後ろから、例によって不自然な調子の「人形師」の言葉が彼女に投げかけられた。
「落ち着けよゥ、嬢ちゃん。お前さんがそうくっ付いていちゃア、休まるモノも休まらネェじゃネェか」
「え、え、えっと」
「…少し頭を使え、魔女」
 冷徹な調子の声にぎょっとして振り返る。
 落ち葉塗れになった赤毛を乱して、鶺鴒が半身を起していた。気遣わしげに彼女そっくりの人物――金糸雀という名だと後になって教えられた――が肩に手を回していたのを振り払いながら、
「お前は人から体温を奪うんだろうが。夜中の体力をこれ以上もぎ取る気か」
 一息にそれだけ言って、大儀そうに息をつく。実際、喋るのも苦痛であるのに違いなかったが、青ざめた顔色以外、表情や態度には一切それを表さないのは、見上げたものだった。
「……どうして、お前なんだろうな」
 ぽつり、とこぼされた言葉は、酷く耳に痛い。痛切な響きが含まれていて、その言葉を口にする瞬間だけ、鶺鴒は泣きそうにも、見えた。もちろん、そんなのは一瞬のことだったが。
「…ごめんなさい…」
 他に、何を口にすればいいのか分からず、翆がおずおずと謝罪を口にすると、鶺鴒はそれを馬鹿にしたように唇を歪めた。
「ふざけるなよ。何も理解していない癖に。…本当に、何でお前なんだろう…あたしじゃなくて、お前だったんだろう…!」
 責める声は嗚咽にも似ていた。返す言葉もなく立ちすくむ翆に、その時、夜中がそっと手を伸べた。
 そのまま彼は、小さな「人形」の身体を抱き寄せる。
「…鶺鴒。すまない」
 そうして、彼女の身体を抱きかかえたまま、夜中は背後の従姉に静かに、告げた。
「でも俺は、駄目なんだ」
「それが、罪だと知ってても?」
「ああ」
「…それが、お前を魔物に落とすって、分っていても尚か?」
 ――息を。
 呑んだのは、誰だっただろう。
「……ああ。それでも」
 彼はその時だけ、振り返って、じっと鶺鴒の目を見つめた。
 自分と同じ、刃の色の瞳。
「俺は魔物に落ちる最後の一瞬まで、こいつの手を取ったことを、絶対に後悔しない自信があるんだよ」
「夜中…?」
 魔物に、落ちる。
 不吉な言葉の意味をその場で理解できないでいるのは翆だけのようだ。誰も、何も、その言葉に反駁しなかった。鶺鴒でさえ、静かに告げられた彼の声に、何も返さず、ただ顔を背けただけだ。
 そして彼女は、傍にいた金糸雀の二の腕を掴むと、肩を震わせて、告げた。
「…夜中。しばらく、それを連れて離れていてくれ、『人形師』も」
「……」
 何か、夜中は、多分謝罪に近いことを、口にしそうになったのだろう。けれど結局何も口にはせず、あくまでも静かに頷くにとどめ、立ち上がった。僅かにふらついたが、歩けない程でもないらしい。その後ろを、ちょこちょこと黒猫もついてくる。最後に亜鉛が小鳥の姿で羽ばたいて、夜中の肩に止まった。
 霧の中を歩きだした彼らの背中に、遠く、微かに、誰かの嗚咽が響いたが、誰も振り返ろうとはしなかった。