翆を似せて作られた「人形」が一度、びくん、と大きく跳ねた。黒猫は目隠しするように前足で顔を覆い、ああ、もうだめかもしれない、小さな絶望に心を埋めた――それなりに近しいつもりでいたこの「人形」の所有者が、そこに魂を宿す少女の姿の記憶が、段々とおぼろげになっていることを彼は自覚していた。
 過去の改ざん、運命の書き換え。
 語り部、百年に一人と呼ばれる伝承の異能者にしか出来ぬ、神さえ殺すと恐れられたその力が、まさに目の前で振るわれている。
 ――魔女を殺す、という選択をした鶺鴒の覚悟を思えば自分に手だしは出来ない。だが同時に、ただ手をこまねいているしかない現状に苛立を抱えていたのも事実だった。黒猫が床に爪を立てたところで、小屋の扉が乱暴に叩かれる。
 唐突な音に驚いてふぎゃあ、と鳴いた黒猫は、しかしすぐに続いたよく知った声に目を瞬いた。
「『人形師』!」
「…その声は、金糸雀じゃアねェか」
 ざらつく、男女のどちらとも知れぬ独特の声色を聞き間違うはずもなかった。はたして扉を開くと、そこには真っ赤な、鶺鴒とそっくり同じ色の髪を、たてがみのように逆立てた人物が立っていた。更にその後ろにこれまた意外な人影を見とめて、人形師は二度目の瞬きをする。
 翠の長い、緩く波立つ髪と、冬の晴れた空のような色をした瞳。表情は殆ど動かないが線の細い顔立ちは霧の中でもはっきり分かるほど整っている。二十歳かそこらの女性――の姿をした人形だった。
「そいつァ、…なんでそいつが動いているんだィ」
「――何だ、お前じゃないのか、この『人形』に俺を助けさせたのは」
 最後に霧の中から現れたのは、群青色の髪の青年だった。刃の色の瞳に相変わらず感情は伺えないが、ひそめられた眉を見れば彼の焦燥は明らかだ。
「…主の意思は、関係ない…わ」
 青年の手を握り締めたまま、女の人形は静かに口を開く。玲瓏とした声音に似合わぬたどたどしい物言いは、この人形を作った主である「人形師」ですら初めて聞いた彼女の声だった。ぽかんと口を開いた猫の表情は、夜中程に彼と親しい訳ではない金糸雀にとっても見ものではあったが、生憎呑気にそれを眺めていられる気分でもない。
 「人形」は驚く三人を尻目に、矢張り淡々と続けた。
「私は…『私』の為に、彼を助けた」
「……翆は?」
 女の物言いに夜中は、翆に起きている異変を思い起こしたのに違いない。
「翆はここに居るんだろう。この『人形』はそう告げている」
「あァ、居ることァ、居るんだがな」
「矢張り、鶺鴒が何か仕掛けたんだな」
 夜中の問い掛けはほとんど確認のためのもので、「人形師」が頷くのを鷹揚に見ていただけだったが、これに息を呑んだのが金糸雀だった。
「あいつ、…何でそんなことまでして」
 そりゃア、と口をさしはさみかけて人形師は結局何も言わずに口を噤んだ。背後にあった翆の、幼い姿の「人形」が微かに苦悶の声をあげたのだ。本当に微かなその声に、誰より先に反応したのは夜中だった。彼は無言のまま黒猫をひょいと跨いで室内に入ると、寝台に横たわった冷たい「人形」の手に触れた。握る訳ではなく、そっと指を絡めて、
「…冷たいな」
 目を伏せた彼の刃の色の瞳にどんな感情が映ったものか、場に居合わせた二人には知れようはずもない。口振にさえさしたる動揺は見受けられず、だが、あまりに感情を見せぬ声だからこそ、押し隠したものは計り知れない。
「翆、って、例の魔女だよな?」
 その夜中の背に声をかけるのはためらわれたのだろう。金糸雀の問いは「人形師」へ向けられていた。
「ああ…そうか、お前は俺と違って、アレと接した記憶は少ないからなァ。早々に忘れちまったかィ」
「お前は覚えてるのか、『人形師』」
 矢張り自分は彼女と出会ったことを忘れているらしい――改めて思い知らされ、知らず、胸の辺りを摩りながらの金糸雀の言葉に、猫はふむ、と首を傾げた。耳が後ろを向いてピンと立っているが、生憎彼との付き合いの長い訳ではない金糸雀はその表情を探ることは出来なかった。
「…出会った頃のことは覚えているがねェ、お前や夜中と嬢ちゃんの出会った頃のことがトンと思いだせなくなってらァ。全く、参ったね…」
 呻くように告げて前足で鬚をしごく。
「鶺鴒を止めて来る!」
 例えようのない苛立ちに急かされるようにして金糸雀はそう叫んでいた。鶺鴒が、まるで夜中のそれを背負おうとでもするかのようにして罪を犯そうとして居ることにも耐えられなかったし、眼前でじっと幼い「人形」の指を握る青年の姿にも耐えられそうにない。
 だが彼を押しとどめたのは、その青年の声だった。
「…やめておけよ。お前が言ったくらいで、聞き入れるような女か?」
「そりゃあ――あいつは頑固だけど、でも」
「それに多分、…翆を殺そうなんて考えるくらいだ。大方、今頃あいつの場所にはモリビトが居るだろう。違うか、『人形師』」
 黒猫の頷く様を見て、だったらなおさら、と金糸雀が呻くのを、冷徹な声が制する。
「お前が行っても、意味がない」
「何で止めるんだよ!…夜中、鶺鴒がどうなってもいいってのかよ…!」
「誰が!」
 ――声を荒げたのが誰だったのか、金糸雀には一瞬、分らなかった。
 自分を睨む刃の色の瞳。
「夜中…」
「誰がそんなことを言った。…俺が、鶺鴒に好んで狂ってほしいなんて思うと、お前、冗談でも思うのか?」
 金糸雀に、返すべき言葉は、無かった。「人形」の翠の髪を撫でて、夜中が立ちあがる。
「…冗談じゃない。この罪は俺のものだ。他の誰かに背負えるようなものじゃあ、ない」
「っ…!」
 感じられたのは強い拒絶。夜中の言葉の端々からは、彼の覚悟の深さと、同時に家族への拒絶が匂っていた。唇を噛み、金糸雀は反論の言葉を自ら封じる。
 それが罪だと知っていながら。
 祖母から教えられた「店主」の誇り故に、彼は、たった一人で孤独に苛まれた「魔女」に手を差し伸べることを選んだ。選んでしまった。
 それは、罪なのだ。侵せば正気を失い、いずれ狂った末に、同朋に――郷里の仲間に「魔物」として討たれることになるだろう。それを、彼は知っていたから、だからこそ、家族には何も告げなかった。
 それを、鶺鴒が責める気持ちも、金糸雀には痛い程に理解できる。
 ――だが、己がいずれ「魔物」に落ちる、そんなことを家族の前であっても口にできるだろうか。家族だからこそ、彼は五年前、何も伝えられなかったのではないのか。
 夜中の気持ちも、金糸雀には痛い程に分かるのだ。
「お前が五年前、俺達に相談してくれてりゃ、こんなことにならなかったかもしれないのにな…」
 恨み言を言うつもりなど毛頭なかったのに、口に出せたのはそんな言葉だった。夜中の表情が歪む。彼とて鶺鴒を苦しめたことを、悲しませたことを後悔しているのだ。そんな分かり切ったことを改めて確認できたような気がして、僅かに金糸雀は安堵し、そんな自分への嫌悪で溜息をついた――こんなことを言うつもりでは、夜中をこの上苦しめるつもりではなかったのに。
「悪い。今更言ったってどうにもならないんだよな」
「……すまない」
「俺に謝るな」
 謝罪するなら、鶺鴒にだろう。そう思って呻いた言葉に、足もとの黒猫が鳴いた。何を言ったものかは知れないが、夜中には分かったのだろうか、同意の言葉を口にした。
「…ああ、…鶺鴒に…今更どれだけ詫びをしても、もう、足りないんだろうけどな」
 食い縛った歯の間から洩れた声は、悔恨を帯びて痛々しい。だが、金糸雀にも最早、どうにも出来ぬ類の痛みであった。鶺鴒の立場も分かる。どれだけの謝罪をされたところで、魔物に落ちる危険を冒してまで魔女を殺そうとしている、鶺鴒の降り積もった五年分の痛みには、もう、きっと届かない。
 壁際で、糸が切れたように動かなくなってしまった、大人の姿をした方の「人形」――ここまで夜中達を案内してくれたあの「人形」が、すい、と虚空に視線を動かす。
 硝子玉の瞳が何を捉えたのだろう。
 

 


 霧が、刻一刻と深さを増していく。
 否、それは、己の身体の感覚が分からなくなってきた彼女の錯覚であったかも知れなかった。鶺鴒は、水鏡――の姿をしたモリビト――と睨みあう位置で、ずっとずっと、立ち尽くしている。
 その体は、足もとから這うように伸びる、霧の中で尚黒々とした「影」に覆われていた。ちょうど彼女自身の影が、彼女の身体を奪おうとしているかのような、それは傍目に見ている人間が居れば絶句するようなおぞましい光景だっただろう。
 左肩、首から上の頭だけを残して、彼女の身体はその影に覆われ尽くしている。
 ――ああ、昔、「影御霊」に掴まれた時もこんな感じだった。
 いっそ懐かしく思い起こしながら彼女は呪詛の言葉を紡ぐ。
「あの時――いいえ、もっともっと前。夜中が彼女と出会ってさえ居なければ、何一つ、間違いなんて起こらなかった」
 霧の中に彼女が吐き出す吐息は、既に人のものとは思われぬほどに冷たい。魔物は「人形」と同じ、体温を持たぬもの。更に、霧の作る白い闇に爛々と光る彼女の瞳は、次第に生来の刃の色から、赤黒い、凝り固まった血のような色へと変わっている。
「そうかもしれないわね、でも、その為にあなたが魔物に落ちてまで、魔女を殺す必要があって?」
 鶺鴒は、問いには、答えない。
 ――本来なら魔女を護るものであるモリビトは、墓所から出た魔女を連れ戻す存在でもある。だから、魔女を傷つけることはしても、魔女を殺すことは決して許さない。
 その魔女を殺して、自分は魔物に堕ちるだろう。
 そうしてこの、祖母の死を嘲笑っているようにしか思われぬ、忌々しい「モリビト」に殺されるだろう。
 鶺鴒はその、ほんの僅かに先の未来を思って、笑った。目からぽろぽろと、五年分の澱を吐き出すような、白く濁った涙を落としながら。
「この術が成就すれば…夜中の記憶から魔女のことは消える。きっと誰も彼もが魔女のことを忘れてしまうでしょうね」
 存在を根幹から否定すること。
 それが彼女の仕掛けた「物語」の本質だ。
 ――最初、鶺鴒が「モリビト」に持ち掛けられたのは、この古い古い、失われた時代の術でもって、夜中の記憶から翆の存在を消すこと、それだけだったはずだ。水鏡の姿をしたこの「モリビト」の言葉を、迂闊にも最初は鵜呑みにし、亡き祖母の願いならと鶺鴒はそれを実行しようとしたのだが――そこでふと、気付いてしまった。
 失われた時代の術であれば。
 一介の「店主」でしかない彼女に、魔女を殺すことも可能だ、と。
 そうして、彼女はそれを実行してしまった。一度思いついてしまったその考えが頭をぐるぐると廻り、何所かでずっと、自分はあの魔女を恨み続けていたのだと、鶺鴒は胸を衝かれるような想いで認めざるを得なかった。
 夜中の罪の肩代わりが出来るのなら、と、そう思ったことも一因だが、それと同じくらいに、夜中を奪ってしまった――彼の未来を、平穏を、家族を奪い、その上自分から夜中を奪った全ての原因である魔女への憎悪であったことも、否定はすまいと彼女はこの時、どこか冷静に思っていた。
「モリビト。お前は端からあたしを利用すべきじゃあ無かったんだ」
 彼女は諦めに似た感情を乗せて、俯き加減に、眼前の死者の国の存在に向けて呻く。
「あたしの中に魔女への憎悪があることを、察することは出来なかった?それとも、水鏡の姿をして居れば、あたしが言うことを聞くと高を括っていた?…どちらにしても甘かったんだ」
 ぽつり、ぽつり。落ち葉を濡らす霧のように静かに、彼女は虚ろに呟いている。最早言葉がモリビトに届いているかどうかすら、どうでもよくなっていた。
 魔女は死ぬだろう。自分の仕掛けた「物語」が収束し始めているのを感じる。
 ――夜中は魔女を忘れて、何事もなかったかのように町へ戻ってくるだろうか。
 彼女は感情の見えぬ平坦な声を、虚空に投げた。

「夜中が殺す必要なんか無かったんだ…最初から、こうしていれば良かっ、た!」

 嗚咽。飲みこんだ熱い塊は咽喉を焦がし、胸を焼き、霧の中で影に呑まれた己の身体を思い出させた。
「…愚かな娘」
 溜息。どろりと粘る霧の中、老女は目を伏せて、首を振った。それを合図にしたように、動きを止めていた鶺鴒の身を覆う影が蠢く。皮膚から脊髄へ、言いようのない悪寒に囚われて鶺鴒は声にならぬ呻きをあげた。
「魔女が、墓所の姫様がこのまま死ぬのならば、お前はこのまま魔物へ変わるより他にないわよ。…本当に、一度仕掛けた術を解く方法は無いの?」
「ありはしない。…一度仕掛けられれば、余程のことが無ければ全ての記憶から消され、過去を奪われ、存在自体を否定されて死に至る…!百年に一度と『語り部』が呼ばれる所以を知るがいいさ!」
 吐き捨てた鶺鴒の眼前で、水鏡は表情の無い瞳で、まるで「人形」の硝子玉のような瞳をして、すいと視線を動かした。
「術を破る方法は無い?」
 彼女は首を傾げる。
 鶺鴒が術を仕掛けてからどれだけの時間が経過しただろうか。「モリビト」であり、「墓所」の意思の体現でもある彼女には、魔女の生死が手に取るように分かるのだが、
(まだ、姫君は死んでいないわね)
 にぃ、と口を歪める。笑ったのかも知れなかった。
 愚かなこの娘以上に愚かな、あの罪人の青年は、――モリビトには理解し難いことに――「魔女殺し」の汚名を被りながら、魔女を害する全てを排除しようとするところがあった。その点で、モリビトにとって夜中は時に味方にもなり得るのだ。
 目を閉じる。瞼の裏に白い闇の残像が焼きついて、「墓所」を覆う闇ほどにそれはモリビトに優しい安息を与えてはくれなかったが、それでも気休めにはなった。現世に姿を現し続けることは、かつて現世に居たこの老女の姿を模し、彼女がこの世に遺した力を媒介としても尚、モリビトに負担を強いる。
(上手く動いてくれればいいのだけれどねぇ?)



 唐突に動き出した「人形」の人差し指の指した先には、夜中が居た。
「…何だ?」
 夜中はその所作に気付いて眉根を寄せる。彼はこの「人形」を生理的に嫌っていた――二十歳前後の姿をした「人形」は、今彼が手を握る「人形」よりも余程、翆の本来の姿に似ている。それが気に入らない。
 だが、この「人形」が、魔女の姿を模したが故に奇妙な力を擁していることにも彼は気付いていた。
「……何を、俺に伝えたい」
「言葉は、『私』に打ち込まれた。もう、取り消しは利かない」
 「語り部」の術を破る方法は無い。
 そんなことは疾うに理解していたつもりだ。夜中はますます刃の色の瞳を鋭くして、今にも「人形」を切り裂きそうな視線になる。
「人を殺すのも、言葉。人を救うのも、言葉」
 それだけ言うと、言うべき言葉は全て言った、という風に「人形」は再び動かなくなった。瞬きひとつしない。硝子玉の瞳も光を失っていた。
 しばし、小屋の中を沈黙が支配する。最初にそれを破ったのは金糸雀だった。
「…『語り部』の術を破れるのも、『語り部』の術ってことか?」
「だが…」
 呻いたのは「人形師」だ。
「それが出来るンなら、疾ウにやってらァ。今の鶺鴒が、今更、嬢ちゃんを助けるのに手を貸してくれるなんて思えネェ」
「違う」
 その言葉を。
 ふいに、夜中が打ち切った。彼はじっと、虚空を見上げている。
「違うって、何がだィ、夜中」
「……言葉を、『届ける』。…そういうこと、か?」
 彼の言葉は完全に独白だった。きょとんとしている二人を余所に、夜中はキッ、と眼前を、眠ったように動かぬ幼い姿の「人形」を睨む。
 その瞳に。刃の色の、瞳に。
 微かに、赤い色が混じったのを、金糸雀は見た。見た、と思った。
 ――焦がれる気持ちはどうしようもなく、狂気に似ていたから。金糸雀の見たものもあながち間違いではなかったかもしれない。
「俺は何を許せないんだろう…」
 ぽつり、夜中が零す。
「このまま翆が死ぬことが?鶺鴒が魔物と化すだろうことが?――そりゃあどちらも許せないが、妙なもんだ。俺はもっと、別の事が許せずに居るんだ、翆」
 彼は、跪いたまま。少女人形の指に絡めた、己の指を解いた。死んだような「人形」を前にして額を押えてそうしている彼の姿は、祈るようにも、許しを乞うているようにも思え、金糸雀は言葉を飲み込んでしまった。触れることさえ躊躇われる静寂と緊張が彼を覆っている。
「――なぁ、金糸雀、『人形師』」
 その彼が、瞼を薄く開けて呟くように呼んだもので、室内の二人は同時にぴくりと、一方は肩を、一方は尻尾を震わせた。
「俺はまだ、正気だよな?」
「とりあえず、魔物にゃア、見えネェな」
「……そうだな」
 二人が頷く。夜中は、微かに頷いて、懐に手を入れた。

 懐から出した彼の手には、拳銃がある。
 そして彼は、拳銃の銃口を、己のこめかみに当てた。口の端を微かに緩めて、微笑む。

「悪い。俺も自信が無くなってきたんだが――お前らがそう言ってくれて、安心した」

 


 ――銃声が、ひとつ。霧を揺らす。
 夜中は自らを、撃ち抜いた。