霧の深い森の中を、湿った落ち葉を踏む柔らかな音が耳を打つばかりで、視界も利かず、しかも連れは無愛想で口を開かない。霧の流れる音さえ聞こえてきそうな沈黙と鼻先を掠める腐る落ち葉の匂いに、鶺鴒は纏わりつく霧を振り払うように腕を振った。
「夜中」
先導する男の名を呼ぶ。彼は肩越しに振り返って、何、と問うような眼差しを彼女に向けた。(口を開こうとしない辺りが彼の性格を物語っている。)
「金糸雀の居場所の見当は?」
「…この先に、誰かが放置した小屋がある」
「そこに?」
夜中は頷いたのだがその時、眉根を寄せているのが見えたもので、鶺鴒は首を傾げた。霧の中でも、これでも家族なのだから、相手の不機嫌そうな様子くらいは察することは容易い。つい、単純な問い掛けの声が口を衝いて出た。
「何?」
「何が?」
「機嫌が悪そうだ」
彼のことを責められもしない(家族同然の間柄に甘えているのは彼女も同じだ)。言葉が足りなさ過ぎた、と鶺鴒は一人自己反省をしながら夜中を改めてじっと凝視する。彼の鉄色の瞳はそっくり自分と同じ色、映す感情を悟れぬことが理不尽に思えるほど。
「…別に」
「お前が別に、という時は、」
鼻を鳴らしながら、足下の大きな木の根を乗り越える。不慣れな彼女のおぼつかぬ歩みにようやく気がついたか、夜中が僅かに足を弛めた。
「大概、何か言いたい時なんだ。言えばいいだろう?私はお前の、…家族だぞ」
婚約者だと、主張することが何故か躊躇われた。
「いや、大したことじゃあない。ただ、あの場所は、禁域の近くだったなと…思って」
「禁域の…?…魔物はそういう場所を好むんじゃないのか。金糸雀の奴、何でそんな場所に」
「それは」
夜中は口を噤んだ。(否、何か続けて言ったはずだ。あの禁域のことを、夜中は確かに告げたはずだった)そうしてどうやらそれ以上、何も語る様子がなかったので、鶺鴒は肩を竦めて追及をやめた。(違う、彼は言ったのに、どうしてそれが思い出せないの?)
「まぁ、いいさ。…とにかく行こう」
金糸雀はあまり魔物退治に向いた力を持っていないのだ。鶺鴒は僅かに急く心を押えるように態と平坦な声で言ったが、夜中は彼女の胸中を察していたのか(否、禁域の秘密を知っていたからだ)急ごう、と、呟いたなり足を更に速めた。鶺鴒が前のめりに転げそうになりながら慌てて足を速めるのと、彼の呟きが聞こえたのは同時だったが、濡れた落ち葉を踏む音は霧の中で思いのほかに大きく響いたのでその呟きの内容は判然とは、しない。
「――近付くなと、言ったのに」
歯噛みした夜中の呟きは、鶺鴒には聞こえていなかった。(だからこの呟きを、聞いていた人が居たとすれば、それは、それは)
脳裏を掠める光景があった。掴もうとすれば幻のように消える、それは、(誰の)誰の、記憶の、(思い出の中の、)光景だったのだろう。湖上の霧。太陽の光が拡散して歪む影の中、声を吸い込むような柔らかい霧に肌が濡れるのが心地良く(――と感じたのは一体、誰だったの?)少年の誰何の声が彼女のしじまを破った時、その瞬間の、それは思い出の中の、記憶の底の光景で。
だがそれは本当に一秒にも満たぬ間、彼女の(そしてもう一人の彼女の)脳裏を掠めたに過ぎなかった。物語は、何事も無かったかのように綴られ続いて行く。
夜中は鶺鴒と共に禁域の近く、常緑の木々に囲まれた静謐な泉の近くで金糸雀に追いついた。魔物は、鶺鴒の記憶が確かなら、そこに居たはずだった。やたらと長い手足が伸びる、夕暮れに地面に落ちる影とよく似た姿の魔物は、のっそりと動いて金糸雀を追って来た所だった。
霧の中から飛び出すように駆けてきた金糸雀は、二人の近付いてきたことにはとうに気付いていたらしく、夜中の影に入る様な位置で足を止めた。
「金糸雀」
「金糸雀!」
呆れたように夜中が、咎めるように鶺鴒が。それぞれ名前を呼ぶと、赤毛の人物は頬のあたりをひきつらせて笑う。
「悪い、ホントに魔物が出るなんて思わなかったんだよ」
「…ここのところ、魔物が増えていること、知らない訳ではなかっただろう?」
鶺鴒の詰問に、気まずそうに金糸雀は目をそらしたが、口を尖らせていたところを見ると不服でもあったようだ。
「ンなこと言ったってよ、三日前に夜中と棕櫚が墓場の近くの魔物を封じたばかりなんだ。こんなに短い期間で新しい魔物が生まれるなんて、そうそうあるもんかよ」
「…だが事実、出た、だろう。だから禁域に近づくなと、あれほど言ったのに」
彼の溜息は物憂げではあったが、同時に何か緊迫したものを孕んでいたので、鶺鴒はおやと思って彼の顔を見やった。何を隠しているの、そう問い詰めようとしたところで眼前に唐突に差し込まれた黒い影に驚いて一歩、後ずさる。七本ほど指の生えた手らしい部位が、鶺鴒の目の前を掠めて、再び霧の中へと引いて行った。
「魔物――」
「影御霊だ。ここのところ、やたらと墓地に湧きやがる」
吐き捨てるように、金糸雀。
「この間の魔物は、ついぞ一か月前に死んだ夜雀の爺さんが原因だったな…」
影御霊、と呼ばれる魔物は、死んだ人の魂を喰って育つ魔物だ。故に死者が出て、その魂が『墓所』に送られず留まっていると現れる。
「…気分の悪い話だ。魂だけは『漆黒墓所』に届けたが」
夜中が懐からナイフを取り出し、呻いた。
――『墓所』へ魂を送り届ける。「届ける」ことこそ彼の異能の本質だ。
「しかし、送りの儀式はきちんと手順を踏んで済ませたのに、一体何だってこんなに影御霊が出るんだ?」
「そんなこと後でいいだろう、金糸雀は下がっていろ!」
鶺鴒は厳しく告げて双子の姉の前に立つ。が、すぐに後ろから姉が慌てた様子で彼女を止めた。
「馬鹿、鶺鴒の方こそ下がれよ!いくら強いったって、お前は魔物退治は殆どやってねぇんだろ!」
「馬鹿はどっちだ、修復の力しか無い癖に…」
言い合いになりかけたところでどちらからともなく溜息をつく。夜中が地面を蹴る音が聞こえたことも要因だった。喧嘩をしている場合ではない。伸びた影を、落ち葉を蹴立てて地面すれすれにかわし、すれ違いざまに夜中はナイフを投げ飛ばしていた。腕に刺さった銀のナイフに、影御霊がオオン、と低く金属質な音をたてる。苦悶の悲鳴のようにも、聞こえた。だがとどめには遠い。影は一度大きくうねり、そうして落ち葉の隙間に浸みこむようにして消えて行った。
――確かに金糸雀に指摘された通りで、鶺鴒はあまり魔物退治の経験がない。能力の希少さ故に危険な仕事を任されないのだ。その経験の無さ故に、彼女は咄嗟に反応が遅れた。消えたと思った影が、鶺鴒の真下から腕を伸ばしたその瞬間、反応出来ずに彼女は影に囚われていた。
「っ!?」
もがき、力を込めると、酷く不安定な、柔らかく伸びる感触が返る。どれだけ力を込めてもまるで手応えの無い影に身体を掴まれ、鶺鴒は頭が白くなるのを感じた。思考が止まる。我武者羅に暴れる彼女の抵抗を意に介した風もなく、影の、頭と思しき部分が落ち葉の間からするすると伸びて現れた。
――影御霊は、人の魂を己の力とする魔物。
(生きた人間は、襲われるとどうなるのだった…?)
浮かんだ問いに答えは無い。影に呑まれた人は誰一人として生還しなかったから、その先がどうなっているのかは誰も知らない。手足の先の感覚が無くなっていくことを感じて、鶺鴒は恐怖で硬直した。
「鶺鴒!?」
だが瞬間、切迫した風に彼女の名を呼ぶ夜中の声が聞こえて、鶺鴒の口元を笑みが過った。無論それは一瞬のことだったが。
――何だ、あたしはあんな風に呼んで欲しかったのか。
皮肉な思考が、冷静さを呼び覚ます。
「甍…の、中の」
絞り出すように、謳う。懐に入れた小さな本の重さを思い描きながら、彼女は言葉を紡ぎ出す。脳裏に描くのは本の中のお伽話、荊の城で眠る姫君の物語。
「寝台の、天幕」
ようやっとそれだけ絞り出した、それだけで充分であった。鶺鴒の身体が唐突に支えを失い、投げ出される。影の腕は地面を揺らすような低い呻きと共に彼女の身体を放していた。
投げ出された鶺鴒は、落ち葉の上に叩きつけられる寸前で金糸雀の腕に拾われていた。姉が溜息をついている。
「だから、言っただろうが、馬鹿」
「…お前にだけは馬鹿呼ばわりはされたくない」
先程まで身体を捕えていた影の感覚に身を震わせながらも鶺鴒がそう返せば、駆け寄ってきた夜中が僅か、本当に僅かに、安堵の色を眼に浮かべた。
「大丈夫か?」
「少し冷えただけ、大丈夫」
それでも肌に残る影の感触に眉を顰めて鶺鴒は、自分の二の腕の辺りを撫ぜながら応じた。一瞬、あの影に掴まれた時に脳裏に過った映像が、彼女の寒気を更に強くする。
夜中が再びナイフを振るう。悲鳴をあげて飛びずさる影御霊の姿を見て、鶺鴒は我知らず悲鳴を漏らしていた。
「やめ、て、夜中!」
「鶺鴒?」
驚いたのか。夜中は手を止めてしまい、その隙に大きく振り回された影御霊の腕に吹き飛ばされた。咄嗟に彼は受け身をとったようで、落ち葉の上に思ったよりも軽い音をたてて落ちる。すぐに体勢を立て直した夜中の目の前で、影御霊は鶺鴒と金糸雀の方をじ、と凝視していた。
「鶺鴒、見るな」
だが――夜中の忠告は遅かったし、仮に忠告が届いたとしても鶺鴒が聞き入れることはなかっただろう。
鶺鴒が目の当たりにしたのは、影御霊の胴――人で言うのであれば腹の辺りに浮きあがった顔だった。どこかで見た、と記憶を刺激されて、鶺鴒は半ば呆然と、影御霊に近付いていた。
「…父さん?」
「え」
間の抜けた声をあげたのは誰だったか。金糸雀か、それとも――
「父さん」
今度は確信に満ちた声。鶺鴒は自分が、眼前にあるものをどう感じているのかさえろくに分からなくなってしまっていた。幼い頃に死別した父への想いが胸につかえて、自分の置かれた状況を忘れ、彼女は影に向けて手を伸ばしていた、それこそが魔物の狙いだと理解していたのに。
金糸雀が彼女の肩を掴もうとするのと、夜中がナイフを投げたのと、双方が視界の隅にあったような気がする。或いはそれは後々話を聞いて彼女が脳裏に作りだした記憶であったかもしれぬが、まさか、(その状況を別の場所から見ているもう一人の目の存在を、鶺鴒は抹消したかったのだ)――そんなはずもあるまい。
夜中と金糸雀、どちらの行動が功を奏したものかは分からないが、次の瞬間鶺鴒は影から引きはがされて落ち葉の上に転がっていた。ぽかんと見上げた先に夜中の群青色の髪が見える。自分でも意外なほど安堵して、鶺鴒はその目を見上げて、
「――夜中?」
刃の色の。自分とそっくり同じ色の目が。見えたはずだ。あの時、彼は一体誰を見ていた?
「 」
名前を呼ばれた(そう思った)鶺鴒が大丈夫、と伝える風に頷きを返す。
違う、違う。誰かが記憶の中をさまよって叫んでいる気がしたけれど(違う、呼ばれたのは貴女じゃあない、私の方――)――生憎と、ここは彼女の物語の中だったから、その声は黙殺され、殺され、消され、塗り潰され、やがて聞こえなくなっていった。