太陽は中天を過ぎ、既に時刻は昼下がりになろうとしていた。霧深い町の気温は一気に下がり始める。傾き始めた太陽が霧の粒に細かく乱反射し、ひと時の間、町は幻想的な色合いを帯びている。
地下の牢獄にその様は無関係ではあったものの、気温の低下に夜中は顔をあげ、地上の町の様子を瞬間、夢想した。それは捨て去ったつもりの郷愁だったろうか。だがすぐに彼は脳裏の光景を振り払い、眼前の幼馴染に意識を戻した。正確には幼馴染だけではない、数名の「店主」がそこには立ち並んでいたのだが、彼はそちらには極力意識を向けぬようにしていた。
居並ぶ彼らは一人残らず黒い面をつけていた。面の表に刻まれているのは死の穢れを全て墓所へと返す、祓いの呪言。夜中は目を背け、苛立たしげに小さく唸った。
牢が開いたと思ったら彼らが入ってきたのだ、唸るより他になすすべもない。
顔を隠している彼らは、魔物に落ちた同胞を殺す為の、それだけの為の、「店主」の処刑者達だ。彼らが誰であるかを夜中ですらも知らなかったが――その仕事の特殊性の為に、彼らは素性を秘匿している――その存在の理由と意義なら、幾らでも答えることが出来た。
課せられた仕事を破棄したもの、依頼から逃げだしたもの、そして己の異能を私利私欲に利用しようとする――すなわち、魔物へと堕ちるであろう、「店主」の処刑。
「夜中。『墓所』から魔女を連れ出し、一度は温情をかけられながら、まだその罪を繰り返していたとなれば、我々としてもお前を処断せざるを得ん」
その一団の後ろで淡々と語る老「店主」の顔を見上げて、夜中は頬の肉がひきつるように笑うのを押え切れなかった。吐きだしたのは溜息ではなく嘲笑だ。
「好きにしろよ」
笑う。次にはとうとう声に出して彼は笑った。咽喉の辺りで声が引っくり返る様な耳障りな声色でひとしきり笑ってから、後ろ手に繋がれたままの青年はどこを見ているのか焦点の定かではない眼をして、高らかに叫んだ。
「殺してみろよ、殺してみろ!その程度で俺の罪が消えるものか!これは俺の罪、俺のものだ、何者だろうが、殺そうが侵そうが踏み躙ろうがこの身が腐ろうが、俺の罪が消えるものか!殺してみろ、早く、殺せ!」
誇らしげですらあり、その様は、それゆえ同時に狂気じみてもいた。だが仮面の一団は動じた風もない。幼馴染みが声をかけようと口を開き、その口を血が出るほどに噛み締めたのだけが、夜中の視界に僅かに引っかかっていた。ああ、それ、悪い癖だって水鏡もよく叱っていたのに、鶺鴒――。
「…金糸雀。お前も異存はないな」
先程とは別の、今度は女の老「店主」に問われた金糸雀が反駁をしようと顔を上げる。一度、目が合った。自分の眼と同じ色をした刃の色の瞳は、動揺も露にして揺れている。
夜中はそして、無言で首を横に、振った。金糸雀が怒りに似た色をたたえて表情を険しく変える。
「待って下さい、長老様方…夜中は、彼は!」
「金糸雀!」
どんな正統な理由があったとしても、反論など必要無いのだと、夜中はそう叫びたかった。極力穏やかに、従姉に伝わるように強く告げる。
「…ここで殺されるなら、それもいいだろうさ」
それは彼の本音であった。決して本意ではないが、ここで死ぬならそれまでなのだろうと、むしろ幸福感すら感じていたのだから、嘘ではない。
「お前、何を言っ…!」
「いいんだよ。そうすればこれ以上、あれを、翆を苦しめることもない」
翆は、
(泣くだろうか)
そう思えば、胸が痛む気もしたが、
(大丈夫、あれは)
彼は、瞳を伏せてあの小鳥の少女を思った。想った。奇麗な声の、小鳥の名前の、
(――次の新月が来れば、全部、忘れられるから)
あの美しい鳴き声の、死の国の魔女は。
(だから泣いてなんかくれるな)
勝手な言い分だろうか、胸中の独白を自ら嘲笑ってから、夜中は再び目を上げる。今この瞬間に処刑されるのだとしても、老人達や処刑人や、後ろから不安げな目を向けている金糸雀のためにも、首を垂れて殺されてやることだけは出来かねる、そう思ったのだ。
だが傲然と顔をあげた瞬間に、夜中は半ば愕然と、自らの死が遠ざかったことを思い知った。
黒い仮面が一斉に動く。手を掲げ、夜中に向けられたそれには各々異なる武器や力があったが、一様に同じ殺意を示していた。だが夜中はその何れをも見ていない。居並ぶ彼らの後ろで、今にも目をそらそうとしていた金糸雀はそれに気付き、一体彼が何を見ているのかと視線を巡らせ、そして絶句する。
翠色の髪が、風もない地下にふうわりと揺れた。
「かわ、」
薄暗い地下を睥睨する、冬の空と同じ青の瞳。細い腕がすぅと持ち上がり、
「馬鹿、逃げろ!」
金糸雀が思わずあげた声に数名が振り向いた時には、既に遅い。
――黒い仮面が次々と、冷たい床の上に倒れ伏した。硬い石の床に木の仮面がぶつかる音が響いて、まだ立っていた数名が困惑に呻く。
「な、何だ、一体――おい、何をした!?」
「…俺が訊きたいよ!」
吐き捨てるように夜中は応じ、倒れた同胞に手を伸ばそうとしていた仮面の一人を突き飛ばした。後ろ手に繋がれていたので、均衡を取れずにそのままもんどりうって相手と一緒に床に倒れ込む。したたかに打ち付けた肩の痛みに彼が顔をしかめていると、処刑を見届ける為に居た二人の老「店主」が、怒りに身を震わせ歩み寄った。
「貴様、逃げるつもりか!!一体これはどういう…!」
立ち上がろうともがきながら、夜中は自らに向けて振上げられた老「店主」の杖を睨む。樫より硬い樹精に祝福された柏の杖は、さぞ痛いだろう、そんなことを頭のどこかが冷静に考えていた。が、
「…」
振りおろそうとしていた杖を取り落とし、老「店主」は悲鳴も声もあげずにその場に倒れ込む。
――よくよく観察すれば、老人が寝息を立てていることが、傍目に見ている金糸雀にも分かっただろう。
「ね、眠ってる…?」
金糸雀は唖然として辺りを見回す。仮面の一団も、二人の老「店主」も、双方ともにいっそ穏やかとさえ言ってもいい程安らかに寝息を立てていた。折り重なるように倒れた人々の間に、一人、白いワンピース姿の女性が立っている。
彼女がこの事態の原因であろうことは、想像するに容易い。
問い詰めようと金糸雀が拳を握ったその時、女がくるりと金糸雀の方を見た。底抜けに青い瞳は、無垢な色さえ湛えている――と見て、金糸雀ははっとした。この瞳は違う。
「に、人形…なのか?」
「ええ」
女は、否、女の形をした人形は、穏やかに頷いた。微笑んでみせる所作さえ人間染みてはいたが、瞳の色は硝子の光を宿している。その指も、触れれば冷たいだろう。「人形」には体温がないのだから。
その冷たいだろう細い腕を伸ばし、彼女は開いていた牢の扉に触れた。
「…夜中、帰ろう…?」
鈴のような声音は耳に涼やかで美しく、金糸雀ですら一瞬、我を忘れてしまいそうになる。
「どうしてお前が、」
対して、名を呼ばれた夜中は動揺も露に声を震わせていた。近付いてくる彼女を拒むように。
「お前がここに居る訳がないだろう…?」
「…そうね…」
人形はあっさりと頷いて見せ、金糸雀を振り返った。
「…手錠の鍵は、誰が持っているの…?」
「え、ああ、多分そこのおいぼれのどっちか…いや、壊した方が早いな、ちょっと待ってろよ」
急激に冷静さが戻ってくる。金糸雀は夜中に駆け寄ると、その手錠の鍵穴に慣れた様子で髪に差していたピンを伸ばして突っ込んだ。しばらく手探りに動かすうち、かちりと音がして、夜中は自身の腕を縛っていた力が無くなったことを感じ取る。やや呆れて、彼は幼馴染の得意げな顔を見た。
「相変わらず、変なことばかり技術を磨きやがって、お前は」
「なーに、誰かさんに比べりゃあこの程度の規則破りは可愛いもんだろうよ」
皮肉っぽく言い放ち、背後に立つ細い人影を振り返る。
「…助けてくれたのはありがたいけどよ、お前さん、何者だよ?」
「人形」はのろのろと首を傾げた。助けを求めるように夜中を見、金糸雀を見てから、不思議そうに、
「……あなたと、翆は、逢った事がある…はず、よ」
感情めいたものを映さぬ瞳をじっと向けられ、居心地悪くなったか身動ぎながら、金糸雀は記憶を探るように顎に指先をあてて目を眇めていたが、不意に眉根を寄せて顰める。
その一方で、手錠を解かれた手首をさすりながら、夜中は「人形」に向けて珍しく嫌悪さえ見せながら、詰問した。
「お前、何だ?翆じゃあ無いな」
低い、恫喝にも似た声に、物思いに耽っていたはずの金糸雀までもがはっと顔をあげる。
「人形」だけが穏やかな目をして、じっとそこに佇んでいたが、やがて夜中は眉間に皺をよせた険しい顔のまま、呻いた。
「…そうか。以前造った失敗作の『人形』があると『人形師』に聞いてはいたが。お前がそうか」
「人形」は無言だ。答えもせず、否定もしない。ただ彼女はくるりと金糸雀を振り返った。
「思い、だせた?」
「いや、――変だな」
顎をさすって金糸雀は改めて目の前の女を見る。
年の頃なら二十歳ほどか。すらりと伸びきった白く細い手足と華奢な体躯に、背中の小さな翼は今ではすっかり見かけなくなった小鳥乙女の特徴だ。美しい声も種族特有のものだろう。腰まで伸ばした緩やかな波を描く翠色の髪が地下の薄暗がりで、幽鬼のようにゆぅらりと揺れている。青い硝子の瞳が伏し目がちなのは、「人形」であるがゆえか、それとも原型となった人物が内気であったことの表れか。
見たことがあると、金糸雀自身もそう思う。だが。
(妙だな。見たことがある、その確信はあるんだが)
どこで見かけたのか――思い出せない。
「変だなぁ、あんたみたいな美人、逢えば絶対に忘れないと思うんだが」
「…逢った時も、…そう、言っていた、わね」
僅かに口を弛めたのは微笑もうとしたのだろうか。夜中が突然、立ち上がったのはその時だった。
「金糸雀!鶺鴒はどこだ!?」
「は?」
唐突な言葉に金糸雀は一瞬驚いたように目を瞬いてから、
「いや、今朝からずっと見てねぇけど…鶺鴒が、どうかしたのか?」
「翆に何かあったのかもしれない」
眼前の「人形」を睨むようにして、彼はきょとんとするばかりの金糸雀を余所に鋭く問うた。
「お前、翆の居場所は分るな?お前と同じ似姿の『人形』だ、互いに惹かれ合うくらい出来るだろう」
「人形」が大人しく頷くのを見届け、夜中は改めて金糸雀を見た。
「おい、どういう…鶺鴒が何か、したのか…?」
「分からん。それをこれから確かめる。…お前は無理についてこなくてもいいんだぞ、金糸雀。これ以上はお前にも咎が及ぶ羽目になりかねない」
「あのな、もう、いい加減にしろよこのど阿呆」
今にも牢獄から走りだそうとした夜中の前に立ち、金糸雀は幼馴染の頬めがけて思いきり、平手打ちを見舞った。
突然だったせいだろう。抵抗もせずに夜中の頬はべちりと地下に響く音をたて、さすがに驚いた風で彼は頬を押えて目を丸くする。無感情な彼の表情を引き出せたことに小気味よい想いをしつつも、金糸雀は腰に手を当てて夜中の鼻先に指を突きつけた。
「お前が罪人になろーが町の連中から嫌われようがな、俺ぁ、お前の家族をやめるつもりはねぇんだぞ、馬鹿夜中」
「だが、…だからといって、お前や鶺鴒にも咎が及ぶのは理不尽だろう?」
――従弟が、そして同じ師匠に師事していた兄弟弟子が、町を放逐されるだけの罪を犯したのだ。その後五年間、金糸雀と鶺鴒が老「店主」達からどう扱われたか、町の人間にどのように思われていたか、想像には難くない。この町は、長い間霧の中に身を潜めるうちに、町の、「店主」達の調和を乱す者を決して許さぬ風潮を育ててしまっている。
「そりゃーなー。お前が出てった直後は皮肉は言われるわ、俺の『上級』の許可は下りねぇわ、お店の姉ちゃんに嫌われるわで面倒くさかったよ、当たり前だろお前ちっと反省しろよ」
「…悪い」
反省はしないが、彼らに迷惑をかけたことに罪悪感を感じないわけはない。夜中が存外素直に頭を下げると、金糸雀はがりがりと深紅色の頭をかいて、
「――でもなぁ。お前、少し俺達に相談すりゃ良かったんじゃねぇの?」
「相談して、どうなる」
「あー、そりゃまぁどうにもならんわな」
肩を竦める金糸雀を見て、ため息をつきつつ夜中はふと問いかける。
「お前、どこで翆を見たのか、思い出せたか?」
「は?いや、全然…」
ち、と小さく舌打ちをする。
「…なぁお前今、俺のこと馬鹿だと思わなかったか」
「違う、阿呆。妙だと思わないのか。お前の記憶から、翆と出会った時の事が消えているんだぞ」
忘れているだけなのに妙な言い方をする――そう思いかけて、金糸雀はようやく思い至った。
――記憶を、過去の思い出を、干渉して改竄する――
そういう能力の持ち主が、彼の身近に、一人いたはずだ。
「おい、待てよ。…これ、鶺鴒の仕業なのか」
「…何と言ったかな。『語り部』の技にこういうのがあるんだろう。…古き時代の『外法使い』が使った力と、同じ」
彼が言い淀んだ言葉を継いだのは沈黙していた「人形」だった。何を感じたのか、何を思ったのか、硝子玉の瞳からは読み取れはしないのだが。
「それは、かp@み\蘂でさえ、ころしてしまう力」
金糸雀が青くなる。
「待てよ。翆って…例の、お前と一緒に居る『新月の魔女』じゃないのか?それにンな術かけたりしたら…!」
「…俺と同じ罪人――で済めばいいが、最悪、魔物に堕ちる、な」
夜中もさすがに顔色を失くす。「人形」の手を引いて牢獄を駆け出す彼の後に、金糸雀が続いた。
「――俺と一緒に居るとまずいんじゃないのか」
「馬鹿にするな!お前も、鶺鴒も、俺には同じだけ大事な家族だッ!」
ど阿呆、ともう一度悪態をついて、彼は先を走る夜中を睨みつける。
「いっこだけ許せねぇことがあるとすりゃあ、それはお前が俺にも鶺鴒にも相談しねぇでいきなり『新月の魔女を連れていく』なんぞと阿呆な宣言ぬかしやがったことだッ!どーにもならねぇことだとしてもだッ!!予告なしに置いてけぼり喰った、鶺鴒の気持ちはどうなるんだよ、ばっかやろう!!!」
腹の底から吐き出すような叫びだった。絞り出すような叫びと、金糸雀の射るような視線にぶつかって、夜中は唇を噛む。
「知っていれば、お前達だって下手すれば罪を問われるんだぞ。出来るかよ…」
たった五年、それでも長い五年間。その五年間、鶺鴒は何を想っていたのだろうか。この町に何か後悔があったとすれば、夜中の胸によぎるのはそれだけだった。一方的に別れを告げて、あの頑固者の彼女がそうそう納得したとも思えないし――実際に納得していなかったことは、先の再会で知れようというものだ。
改めて胸が痛む。彼女のことを、決して、おざなりにしたつもりはなかったのだ、などと言ったところで今更だろうが。
「お前は、馬鹿だ」
繰り返し吐き捨て、金糸雀は地下を抜ける階段の先、古びた重たい鉄扉の前に立つ。手錠の鍵を壊したのと同じ要領で伸ばしたピンを鍵穴に突っ込んだ。
「俺は…中身が男寄りだからだろうけど、お前の気持ちは分からねぇでも、ねぇんだよ、夜中。だけどな。…町の連中に『捨てられた』なんて陰口叩かれて、町に居られなくなって旅に出た、鶺鴒のことを考えりゃあ、お前をそうそう許せもしねぇ」
「っ」
謝罪の言葉を口には出せなかった。そう容易に口には、出来なかった。かちゃりと扉が開く音がする――それを耳にしながら、夜中は一度、強く瞼を閉じる。思い出そうとしたのは、五年前の、
――あたしが、嫌いになった?
常の強気の姿が思い起こせぬほどに弱々しい声を。思い出して、夜中は額を押えた。嗚呼、彼女は、あんなにも、弱かっただろうか。それでも、どれだけ胸が痛んでも、それでも。
夜中は握った「人形」の手首に触れる力を意識する。見やった先、茫洋とした硝子玉の瞳は何も映しはしないのだろうけれど、それは矢張り、彼女の、彼が選んだ彼女の似姿で。
(それでも、俺は、翆を選ぶことしか出来ない――)
すまない、鶺鴒。
胸中の謝罪がこの場に居ない彼女に届く訳もない。臍を噛んで夜中はそれを己に認めた。どれだけの謝罪を重ねたとして、彼女を傷つけた事実は消えもせず、許されもしないだろう。
「金糸雀、俺は」
扉を押し開ける、真紅の髪の後ろ頭に向けて彼は呟く。痛む胸を押さえもせず隠しもせず、ただ、「人形」を握る指の冷たさだけに意識を澄ませながら、
「…どうしてだか、愛しているんだよ、翆を、あの魔女を」
「ああ」
金糸雀は小さく吐息を吐きだした。溜息だったのか、それとも別種のものだったのか。それでもとにかく、鶺鴒とそっくり同じ姿のその人物は扉を開いた格好で俯いて、自分の爪先を見つめながら、苦々しく笑ったらしかった。
「俺はこの五年、その言葉が、聞きたかったんだ」