町の裏手には寂れた墓地があって、時々、強く百合の花が香っていることがあり、首を垂れるその白い佇まいを鶺鴒はそれなりに好いていたので、雨の中に混じる重たい空気とその隙間に紛れ込んだ匂いを楽しんで、墓地にただぽつねんと座っていることはままあることだった。
町でも特に静かな一角だ。ひとりで物思いに耽るには丁度良かった。
その朝は霧が特に深く、町の外れにも来れば森を覆う霧のお零れのように白いものがふわりふわりと足元を冷やした。白い墓石を水滴が伝い、重たく首を落とした白百合は、今にも地面に落ちてしまいそうに項垂れている。その様をじっと見ながら、鶺鴒はひとつの墓前にしゃがみこんだ。父の墓だ。幼い頃に父は死に、母はこの町と水鏡へ双子を押し付けるようにして去って行ったから、鶺鴒にとってこの場所がおよそ一番、親と近しい場所であった。
「鶺鴒」
咎めるように自分を呼ぶ声がして、鶺鴒は顔をあげた。少し眉根を寄せて、困ったような、それでいて険しい表情をして、つい最近町へやって来た従弟が居る。彼は自分とそっくり同じ色の刃のような瞳を眇め、蜘蛛の巣でも引っ掛かったみたいに腕で何かを振り払う仕草をした。彼はよく、墓地に近づくとそういう仕草をする、と鶺鴒はその頃には気付いていたが、そういう癖なのだろうと深く考えることはなかった。
(意味を考えるべきだったのだ。)どこかでそんな声がした気がするが、それは、記憶の中の彼女にとって意味をなすものではない。
「あまり、死人の方ばかり見ると、よくないよ」
彼の言葉は時として、(記憶の中の彼女にとって未来からの忠告が、そうであるように)意味を成さなかった。だから彼女は深く考えず、そう、と曖昧に相槌だけを打ち、白い墓石に手をかける。父の眠る墓地は、唯一の死者との繋がりであった。
「見るなって言われても、あたしにはもう、父さんしかないのよ」
「金糸雀が居るだろ。…そういうの、良くない。あっち側だって引っ張られて、黒いのが出てくる」
彼の言葉は矢張り、意味を成さない。
――当時の彼は幼すぎて、自分が見ているものを正しく理解できていなかった。その上に言葉も足りない。だから、互いに言葉の意味を築くこともできず、結局届かない。
苛々と、訳も分からず目の前の少年の言葉に感情が荒立つのを感じて、鶺鴒は唇を噛み締めた。下唇を強く噛むと僅か鉄錆びた匂いがして、荒れる気持ちがそこから少しでも楽になるように思うのは錯覚なのだろう。とはいえ幼い頃から気性の激しかった彼女は、痛みで自分を落ち着けることしか知らなかった。
夜中が彼女の前髪に触れるようになったのは、確かその頃からだ。
「…それ、悪い癖だよ、鶺鴒」
婆ちゃんだって気をつけなさいと言ってただろう、それは、最初のうちは水鏡が鶺鴒に忠告をするのを真似ただけの仕草だった。それがいつからだろう、何か特別の意味でもあるように思えてしまうようになったのは。
「夜中だって怒られていただろ」
「あれは…だって」
彼は戸惑ったように目を伏せた。叱られた原因といえば些細な事で、要するに、新参者の彼が金糸雀に担がれた訳だ。禁域、と呼ばれ、近付いてはいけないと教えられている森の一角、小さな泉の湧く場所へ、このくらいの歳の子供特有の冒険心から、金糸雀に付き合わされて肝試しをしに行ったのだという。バカなことをするものだ、と鶺鴒は端から思っていたが、二人が水鏡に手酷く叱られているのを見るとほんの少しの同情もした。
大人達が近付くなと言えば、興味が湧いてしまうのは子供の常だろう。鶺鴒とて、その頃は例外ではなかった――戻ってきた二人が何を見たのか、熱心に尋ねてしまう程度には。
なんだか酷く奇麗な泉があるだけだったよと金糸雀は笑っていたが、それにしてもあの一件を叱り飛ばした水鏡の剣幕は相当のものだった。今までに見たことも無いほどに怒っていたように思う。
機嫌が悪かったなぁ、などと鶺鴒は呑気な事を考えていたものだ――(今となっては。)
「あれは、金糸雀が悪い」
あんなに怒られるなんて思わなかったんだと彼は言い訳がましく言って、手を離した。鶺鴒を見て、墓石を見る、視線を移してから彼はまた、目を伏せた。(彼は目を伏せてばかりいた、町へ来たばかりの子供が馴染めず俯いている姿など鶺鴒は幾らでも見知っていたからとりわけ気にも留めなかったのだ)
「…早く帰ろう。ここは」
彼は何を言おうとしたのか。そこまで言って口ごもる。
「お墓が怖いの、夜中?」
からかい半分に(幼い頃の無知ゆえの行動だ)笑うと、彼ははっとしたように目をあげた。むきになって言い返してくるだろうと思っていた鶺鴒の予想は外れ、彼は本当に怯えたように、拳を握ってまた俯いてしまった。
(思えば)
誰かの呟くような声は過去においては意味を持たない。それは、今更の、鶺鴒の悔恨であったかもしれない。鶺鴒の記憶に放り込まれた翆にもまた、それは伝わった。記憶を悔いる彼女の、歯ぎしりの音さえ、鮮明に聴こえるようなそれはさすがに錯覚であっただろうけれども。
(思えば。彼は幼い頃からそうだった。何を見ているのか。何が見えていたのか。知っていたら何かが変わっていたかも知れなかったのに。彼は何も言わなかった。)
(変わった――?本#イに?)
翆は胸中に呟いた。独白だった。鶺鴒の応じる声すらないのだから独白であったのだろう。いや、流れ込んでくる鶺鴒の意識の独白であったのかもしれない。どちらにしても、この場で翆は無力で、ただ鶺鴒が流し込む彼女の記憶と彼女の意識に、飲み込まれたままでいるしかなかった。
(変わったのかしら。本当に何か変わったのかしら。夜中が、死んゥ/\人を見ることが出来て、でも、それを知って、何かが出来たのかしら…)
答える声を期待しない疑問は独白にすぎない。
そう、彼には死人を見る力が、あった。生まれついて備わっていた、「店主」の一族としてすら異端の力は、水鏡の配慮で周囲には伏せられていた。
水鏡は、占い師である。
運命とも呼べる未来を視る力を持っていた彼女は、薄々、彼がその異端の力を有して生まれてきた意味を、理解していたのだろう。(今になって思えば。)だが当時の鶺鴒と金糸雀は、そんなことは知る由もない。
――彼が町へ来て数年がたっていた。力の遣い方も堂に入って、その日は確か、夜中と金糸雀がそろそろ一人前として認められるようだと、鶺鴒はそう噂に聞いて、夜中を探して歩いていたのだった。(それなりに成長していた鶺鴒は昨今、幼い日のように夜中と接することが難しくなってしまって、双子の姉の金糸雀とさえ行動を別にすることが増えていた。)
鶺鴒は、幼い頃に「語り部」の才能を持っていることが発覚してからは、修行などは全て金糸雀とも夜中とも、同じ年代の誰とも別に行っていたから、彼らがどこに居るのかを探るのはそう簡単ではなかった。
「ねぇ、金糸雀と夜中を見なかった」
町の人間に問うと、ああと笑って通りすがりの青年は町を囲む壁を指差した。
「最近はよく外に居るよ、あの二人」
「二人一緒?」
「焼きもちかい、鶺鴒」
にやりと笑う男には、違うよと素気なく返答しておく。(嫉妬は、無いと言えば、嘘になっただろう――今でこそ冷静にそれは受け止められる。この頃の夜中は、金糸雀と特に仲が良く、いずれ結婚をと水鏡や町の老店主達に勧められていた鶺鴒より彼女と共にいる時間の方が長いくらいだった。考えてみれば結婚相手は鶺鴒ではなく、金糸雀でも良かったのだろうが、そうしなかったのは彼女が男女の別を持たずに生まれてきた為だろう)
「最近は、どうにもこの辺りも物騒だからね、修行を兼ねて見回りだそうだよ」
「物騒…町の近くで魔物が現れたとか言ってたな、そういえば」
数日前、町の近隣の霧深い森に魔物が出たのだという。それ自体はすぐに「店主」の一人が封じを済ませたのだが、そもそも町の近くに魔物が出ることなど滅多なことではない。この町は霧に隠され、守られているのだから尚のこと。
「心配だな、あたしも行こうかな」
「大丈夫だろ、あの二人ももう一人前だよ。魔物の一匹くらいあしらえなくってどうするのさ」
彼の言うのは全くその通りなのだが。――(持って生まれた才能が『たった一人の特別』なものだったせいで)正直なところ、鶺鴒は二人の能力が頼りないものだと思っていた。
「…やっぱり心配だ。夜中はともかく金糸雀は不真面目だし」
「ああ、そりゃあ言えてる。お前達、何でそんなにそっくりなのに性格違うのかね」
お前は真面目すぎるくらいだよ、鶺鴒。
(ああ、なんて遅すぎる忠告)
「――真面目で悪いことはないだろう、金糸雀のようになるよりよっぽどマシだ。…様子を見て来る。ありがとう、教えてくれて、棕櫚兄」
「ああ、ま、適当にな」
彼の言葉を後ろに壁の方へ走る。町の「店主」ならば周知の事実なのだが、実は町を守る壁には数か所、亀裂のようなものが入っている部分がある。意図的に強度を落としてある個所、と言い換えてもいいだろう。その場所で能力を使えば、能力の種類にはよるが、町の外へ門を介さずに抜けられる――抜け道になっているのだ。
町の外は相変わらず深い霧の中。纏わりつくような霧は鶺鴒のよく立ち寄る墓場に立ち込めているものと同じだが、町の外となると濃度が違う。
「久し振りに見たけど、前より濃くなっちゃあいないか?」
独り呟いた言葉に、思いもかけず答えが返ってきた。
「――最近だよ。魔物が出たって言うから、関係があるのかもしれない」
霧の向こう側、僅かな視界にぼやける人影がある。誰何するまでもなく、知った声の主は容易に知れた。(それくらいの時間は、共にしたつもりだった)
「夜中」
霧の中を泳ぐように近付いてきたのは従弟だった。常と変らぬ感情をうかがわせぬ表情で、(それは幼い頃に町へ来てからずっとそうなので、元々彼は感情を隠してしまう性分なのだろう)鶺鴒を一瞥してから眠たそうに刃の色の瞳を伏せる。
「鶺鴒、金糸雀を見なかったか」
「久し振りの第一声がそれか、全く」
愛想のない男だ、と毒づく鶺鴒に、彼は肩をすくめた。
「今更、お前に愛想を振りまいてどうするんだ」
「振りまいて減る類のものでもあるまいに」
「必要があればそうするよ――それより金糸雀だ。いや、待て、鶺鴒。お前なんで此処に居る?魔物が出るから危険だと言われなかったか」
「…あたしもお前も半人前には変わらないだろ、危険って点では似たようなもんだ」
「馬鹿を言え。百年に一度の『語り部』にもしものことがあったらどうする?」
あたしが心配とは言わない訳かと、鶺鴒はため息をついた。こういう男だと、知っては居るし承知の上で、水鏡や周囲の勧める婚約話も受けたつもりだ。だが、
「前から訊きたかったんだが、夜中。お前、どういうつもりであたしとの婚約話、引き受けたんだ」
「どういうって」
何を問われているのか分からない、と言いたげに彼は鸚鵡返しに繰り返し、
「――鶺鴒だって似たようなものだろう。俺達はどうせこの先、旅暮らしか、町から出られないかどちらかだ。だったら少しでも気心の知れた相手の方がいい。老人共に縁組を無理強いされるよりな」
「『少しでもマシ』ってことか」
口調に滲んだ皮肉に彼が気付いたか否かは、(今でももう確認のしようはないし、)――仮に彼が察していたとして、彼に何が出来ただろう。
彼はあたしを家族としてしか愛してはくれていない。(いなかった。)
(知って、察していたのなら、どうして、どうして『今』?)
夢の中の彼女は喘ぐ。
今になってどうして、こんな物語を見せるのか、こんなもので自分を殺そうとするのかと、殺意の主に問いかける。答えはないから、それは独白にしかならない。意味を成さない、意味を成せない、宙に浮いて散らばるばかりの問い掛け、言葉。
(――何故、これを、見せるの)
手応えなく散る言葉。
それでも彼女は問いかけずに居られない。彼女の真意が見えない。自分を殺すだけならばこんな物語、用意せずとも良かったのではないのか。
(そりゃあ、きっと私を殺すのは、簡単なことじゃないだろうけど)
死者の国の魔女である翆は、死者の国の神である新月による加護を受けるがゆえに、その魂はそう易々とは死を受け付けない。
(でもどうして…)
私を殺す、その手段が、彼女の記憶の物語なのか。
喘ぐ彼女を余所に、彼女の意識は再び、「彼女」の記憶と意識に飲み込まれる。次第に自分の意識が判然としなくなっていることに、翆が気付いていたか、どうか。