何で、と、彼女が問うた。
 聞いたこともない、弱い声。
「俺は『店主』なんだよ、鶺鴒」
「そんなの理由になってない…――!」
 言葉にならない。頭をかきむしりたい衝動を殺して、噛んだ唇から僅かに鉄錆びた匂いがした。夜中がすい、と彼女の前髪を撫でる。
 手の優しさがいつもと同じだということに、縋りたいような気持だった。
「鶺鴒、それ…悪い癖」
 唇を噛む少女の癖を、彼はいつも苦笑しながら指摘したものだ。それはずっとずっと、今までの決して長いとは言えなかった人生の、九割くらいは占めているほど長い間で、それくらいに彼女を占めていたもので。
 そんなことを今、何で思い出させるんだ。この男は。
 睨んだ先、きっと今の自分とまるで違う感情を湛えた、それでも同じ色をした瞳が見える。従兄は、その瞳の色だけは、一族の特徴なのか、自分とそっくり同じだった。
 それ以外、何一つとして共有するものがないような気がして、それを否定するように問いを重ねる。
「どうして。婚約破棄までする必要がある?」
「俺は町を追われるんだ、鶺鴒」
 いつもと同じ調子でそう告げられても、実感は、無かった。何故、という言葉ばかりが頭を巡って何一つ、何か彼に届けられる言葉を思いつけない。否、端から彼にはもう言葉が届かないのかもしれない、想像してまた、鶺鴒は身を震わせる。それだけは。そんなことがあってはいけないはずで。今目の前で起きていることは、何か間違っていると、そればかり、それだけを、考えて、言葉にしたくて、それでも。
 届きはしないのだと。空回る思考の真ん中でそれだけを薄々理解できてしまって。
「お前や金糸雀にまで迷惑はかけられない。それだけだ」
「それだけ、って――それだけじゃあ、ないだろ…?」
 それだけが理由なら彼の気持ちはどこにある?自分の気持ちをどこへ持っていけばいい。
 物心ついてこの町へ連れて来られたあの日から、彼の好意を、自分の愛情を、彼女は一度だって疑ったことはなかったのに。
「あたしが、嫌いになった?」
 何を間抜けなことを訊いているのか、と、苛立ちながらもそう問わずには居られない。夜中は目をそらし、ごめん、と彼にしては珍しい、謝罪を口にした。
 違う。
 欲しい言葉は、そんな言葉じゃあ無い。


 ――そんな、夢を、翆は見ていた。
 夢の中で翆は、鶺鴒だった。いつだか分らない、今より少し幼い夜中が、目の前に居る。彼は彼女の幼馴染でもなければ婚約者でもない。だがこの夢の中ではそうだった。
 身に覚えのない感情が、まるで自らのものであるかのように胸の中で息づいている。
 翆はその、胸中に生まれた他人の感情に呑まれ、声もなく、鶺鴒の目をして、鶺鴒の言葉で、そこに居た。


 それは、彼女の仕掛けた物語の中だったかもしれない。
 否。
 誰かが否定した。
「違う。彼女は、私を殺したいだけ」
「…違う。だって私にも、分るもの、彼女の痛み」


 欲しい言葉を、彼は一度も、口にしたことがない。
 私が(あたしが)欲しい言葉は、(欲しかった言葉は。)




「夜中」
 耐え切れず声を出そうとしたが、この場で彼女の身体には自由がなかった。足元を茨に絡められていた時よりなお悪い。彼女の言葉は、この場所では意味を成さないのだ。どんなに言葉を口にしても、どんなに空気を震わせても、叫ぼうともわめこうとも、その言葉が意味を成さないのならば、誰にも届くわけはない。
 届かない。
 彼は、翆の声には、振り向かない。
 眼が、回る。
 私は。



「――今日から、この子も一緒に暮らすのよ、鶺鴒。金糸雀。良くしてあげてね」
 優しい老女の声がした。目を上げると、見知った祖母が、老女が、見知らぬ幼い子供の手を引いていた。
 自分とそっくり同じ、刃の色をした瞳が、すい、と、鶺鴒と金糸雀、二人の表面を撫でてそらされる。何か、酷く険しい色を感じて、鶺鴒は眉を寄せた。
「…婆ちゃん」
 小さく呟いた彼が何事かを祖母に耳打ちする。彼女は一瞬、目を見開いてから、人差し指を口元に寄せる仕草をした――「内緒よ、内緒」
 彼と、祖母の間に、何がしかの秘密があることに、鶺鴒が僅かに感じたのは嫉妬だったのだろう。
「…金糸雀、鶺鴒、貴方達、裏の墓地で何かしたの?」
「え」
 呻いたのは、金糸雀の方だった――こうした悪戯を好むのは、大概は双子の癖にまるきり性質の違う姉の金糸雀の方だった。姉と言っても彼女には性別がない。双子の片割れの鶺鴒とそっくりだったから、女の子なのだろうとあたりをつけて周りがそう呼ぶだけで、正直、鶺鴒は彼女は男なのではないかと疑ってはいた。どうでもいいことなのでそれ以上突っ込んで尋ねることもなかったが。
「墓地のご先祖様が怒っていらっしゃるそうよ。謝っていらっしゃい」
「えええ…。怒ってるったって、ごせんぞさまは『墓所』で寝てるんでしょ、そんなのウソにきまってるよ」
「――ウソじゃない」
 硬質な声。誰の声かと思わず、祖母の影に隠れるようにしていた少年を見る。彼の声だろうか。
 彼は硬い表情のまま、硬い声で、続けた。
「ウソじゃない。怒ってる。そのままだと、びょうきになる」
 ――酷く強い調子で断言したのを、いやによく覚えていた。そして実際に、金糸雀はその数日後に熱を出して寝込んだのだ。


 断片的に飛び込んでくるのは――これは鶺鴒の記憶から作られた、物語か。
 これは全て、「語り部」たる彼女の異能が翆に見せる、仕掛けられた、外法の幻影、彼女の目線の、彼女の記憶、思い出。
 翆は不思議とそう確信した。その確信もまた、鶺鴒とまじりあうようなその感覚がもたらしたものだったのだろうが、今は、状況を理解できるだけでもありがたい。
(彼女は、私に何をした?)
 己に問えば、どこかで、己か鶺鴒か、判別のつかぬものが応じた。
(――物語に閉じ込めた。あなたは、私は、この物語に殺される)
(私を殺すの?)
 ぽつりと。白い紙の上に浮かんだ黒い染みのように。彼女の心がその言葉ひとつで、じわりと揺れた。
(私を、殺すの…?)
 記憶のどこかに、何かが引っかかったような気がして、それを手繰ろうとするのだが、結局、翆はそれを諦めた。混じってしまった鶺鴒の意識ばかりが浮かび上がってうまくいかない。

 ただ、末期の、頭蓋を震わせた己の声だけが、鮮明に記憶に残り、彼女は抱えた違和感をそのままに、記憶の断片の中へと再び投げ込まれていった。