木製の椅子の上で両足をふらふらと動かしていた翆の傍で、生首の髪を撫ぜていた女が立ち上がったのは、夜中が町へ入った直後のことだ。唐突な動きに驚いて翆が顔を上げるのと、女の細い腕が見た目に似合わぬ程の膂力で翆の頭を床へと押し付けたのがほぼ同時、抗議をしようと息を吸い込んだ翆は、しかし開いた口に強烈な熱気を感じて声も漏らせず目を閉じた。
耳をつんざく、破壊の音。
自分がいた小さな小屋を、「何か」が吹き飛ばしたのだと察したのは、女の「人形」が翆を抱えて立ち上がってからのことだ。事態についていけずに呆然とする翆の耳へ、女性のものにしてはやや低めの擦れた声が響く。
「“赤い竜が啼いた、遠くの方で”」
「ッ!てめェ、鶺鴒、なんのつも」
言葉は途切れた。鶺鴒、と呼ばれたその人の声は、場を支配してでもいるかのように響き渡り、他の言葉の一切を拒絶していた。
「“赤い竜はもう一度啼いた、ほぅら、北東から、冬が来た”」
「っ…、」
小さく悲鳴を呑むような音を立てて、「人形」は翆の身体を放り投げた。先程もそうだったが、儚げな女性の外見にはそぐわぬ膂力が、翆をかなりの高さに投げ上げる。重力から一瞬だけ解放されるような浮き上がる感覚にぞっとしながらも、翆は必死で、折り畳んでいた翼で空を打った。
霧が、深い。濃霧の中で方向感覚が狂い、地面も見えない。だが音だけは、霧を縫うようにして伝わってきた。耳に障るような、何か硬いものが、柔らかいものを抉るぐじゅり、という濁った音だ。悲鳴も、声も、無い。
そうしてやっと、翼を打って着地した翆の目の前の地面には、腐る落ち葉の上に、花でも咲いたように広がる銀の液体と、ばらばらに砕けた女の肢体が、転がっていた。引き裂かれ、何か硬いものに抉られた、無残な姿の人形が。
「っ、…『人形師』…!」
それが「人形」であると知っていても、気持ちの良い光景ではない。呻いた翆に、霧の中からぬぅ、と腕が伸びた。
指先に、裂けたドレスの破片をはりつけたままの、白い女の腕。
白い、ミルクのような霧の向こうに、薄らと見えるのは燃える炎のような赤髪。
「――セキレイ」
翆はその名を、うわ言のように呟いた。胃の上の辺りで、贋物のはずの心臓が、きりりと痛んだ。
霧の向こう側に居るのは、そうして、「人形師」の人形を破壊したのは、鶺鴒だ。夜中の名を、痛々しいほど強く呼んだ、あの女性が、そこに居る。
そう判断したのと、翆の咽喉元に白い手が掛かるのが、同時だった。声をあげようとして気道を塞がれ、苦痛に身を捩る。どろどろと纏わり付く霧の中、もがいた指が触れた彼女の腕は、矢張り温かかった。
強く爪を立て、咽喉を締める腕が怯んだ一瞬に翼を打って身体を離す。咽喉を締め上げられていたせいで、贋物の肺は、贋物の癖に空気を求め、翆は咳き込んだ。涙目になりながら息を吸おうとして、
「ひぁっ…」
妙な声を立ててそれきり、彼女はその場で膝を突いた。
――呼吸が出来ない。
濃密な霧が、まるで、何か得体の知れぬ生き物のように彼女に纏わり付き、それが呼吸を邪魔している。
いけない、と翆は何かに縋るように指を伸ばした。このまま意識を失えば、魂が「人形」から離れてしまうかもしれない。魂のみの状態は安定が悪く、更に、ただでさえ「そこに居る」だけで「律」を崩しかねないほどに周囲に影響する翆の存在は、魂だけの状態では制御不能な状態になってしまう。「人形」が仮の肉体となってくれているからこそ、彼女は現世に居られるのだ。
「お前、さえ居なければ…」
低い、女の声が叫んだ。霧の合間で、柔らかな霧を引き裂くような声で。
「お前さえ居なければッ、夜中は、苦しまずに済んだのに!!」
どういう。
意味なのか、と問う暇もあればこそ、少女の意識は暗転しそうになっていた。歪んで聞こえる女の声の名ばかりが、頭の中でちらつく。夜中。
(わたしが、彼を苦しめている)
幻覚であったかもしれない。砕けてバラバラに散った断片のような印象が、彼女の脳裏にひとつの光景を呼び起こす。
彼女の、心臓を、貫いている、夜中の姿。
あの時彼は何を言ったのだったか。ナイフの冷たさばかり鮮明に思い出せるのに。大事なことばかり、私は忘れてしまう。苛立ちと焦燥の中で、翆は目を閉じた。意識が、落ちる――
だが、唐突に翆は空気を奪う霧の力が弱まるのを感じ、半ば消えかかった意識の中で必死で咽喉を鳴らした。咽喉も肺も頭も痛む。涙目になり、咳き込みながらも息を吸って、身体を起こす。
柔らかい、腐った落ち葉の匂いに爪を立てながら、ようやく周囲へ意識をやる余裕の出来た翆の耳に飛び込んできたのは、短い記憶の中でも耳に馴染んだ、金属の甲高い音だった。
「きゃあっ!?」
鶺鴒が小さく悲鳴をあげてしりもちをつく。
鉛色の、金属で出来た小さな鷹が、彼女の腕を容赦なく突いたのだ。
「あ、えん…?」
咳き込みながらも呼べば、その鳥の姿をした塊は、甲高い音をひとつ立てて翆に答えた。
「くっ、この、邪魔を!」
纏わり付くように低く飛ぶ亜鉛を、血の流れる腕で鶺鴒が振り払う。振り払われた亜鉛が重たい音をたてて腐葉土の上に落ちた。
「亜鉛!」
翆は駆け寄り、その金属を手のひらに拾い上げる。彼女の表情には僅かに希望の色があり、同時に、焦燥の色もあった。
「…夜中は?夜中は一緒じゃないの?」
「夜中なら来ない」
彼女の言葉に無情に応じたのは、鶺鴒だった。
「…え?」
意味をとらえかね、思わず翆は一瞬、赤毛の女の顔を見上げた。
「どういう意味、…ううん。その前にあなた言ったわ。私が夜中を苦しめてるって、どういうこと」
鶺鴒の、それまでぞっとするほどに平板だった声が、この問いかけに耐えかねたように激高した。
「――ふざけるな!!」
叫びに呼応するように、あたりの霧がぐるりと渦を描いて翆にじわりと迫る。後ずさりしながら、翆ははっとしてその霧に目をやった。彼女の怒り、彼女の意志に、まるで霧は追従しているように見える。まさか。
だが考える暇も無い。このままここにいては危険だと、彼女は踵を返して走り出した。
夜中は来ないと、奇妙に確信をもってあの女性は断言していた。それを思い起こして、翆は殆ど無意識に下唇を強めに噛み締めた。
あの町は、彼を拒絶している。それは彼自身の言っていたことだ。
だとすれば。町へ行った彼に何かが起きたのだと、そう察するにはた易い。翆は見た目こそ幼いし、知識も人並みには持ち合わせていなかったが、決して頭の悪い少女ではなかった。
(夜中、大丈夫よね…?)
喉元をせりあがってくる不安と恐怖を飲み込み、押さえながら、翆は走った。当てなど無いのだが、走らなければ、この霧は、自分の一歩先さえ見えぬ飲み込まれそうな深い霧は、彼女の呼吸を再び奪うのではないか、そんな不安が襲ってくる。
「はっ…」
息を切らせ、慎重に走っていた翆は、大樹の陰を見つけて走り寄った。その幹にもたれて、息をつく。安堵の息には程遠いが、或いはあの女性が追跡してこないのではないか、諦めたのではないかという考えが頭をちらついた――「人形師」にああも容赦のない攻撃を加えているところからして、期待するだけ無駄だろうとも思っていたが。
「嬢ちゃん」
座り込んで頭を抱えていた翆がそんなことを考えていた矢先だった。低い獣のようなあの声が、唐突に足元で響いたので、翆はまずぎょっとして飛びのいてから落ち葉の上に膝をついてまじまじと地面を見た。そうでもしないと霧が深くて、足もとだってよく見えはしない。
「…その声…『人形師』…?」
恐る恐る小さな声で呼んでみる。応じるようにがさがさと落ち葉の鳴る、音がした。
「鶺鴒の奴、何のつもりだってェンだよ、アア、吃驚したじゃネェか、チキショウ」
呻きながら落ち葉ががさりと盛り上がる。指先に、確かに生きているモノの体温が突然触れ、驚いて一歩後ずさった翆の目の前で、それはぶるぶる身を揺すって落ち葉をふるい落とした。真っ白な霧の中に、真黒な影姿が浮かび上がる。きらりと、濡れたような金色の眼が光って、翆はぱくん、と口を開いた。
彼女が最初に考えたのは、道理で、まるで人ではないものが言葉を繰っているように聞こえたのだ、ということである。
「ィよォ、嬢ちゃん。直に会うのは初めてになるナァ?俺ァ、人前に出るのが苦手でよ」
しなやかな尻尾をくねらせて、堂々たる恰幅のその黒猫は前足でぴんと張った鬚をしごいた。
「ね、ね、ね、ね」
「猫が喋ってる、なんぞとお決まりの台詞を吐かないでおくれよ、嬢ちゃん。俺ァその台詞が嫌いだからよ、人前にゃあ出ネェことにしてンだからよゥ」
でっぷりと太った黒猫は言いながらぺろりと赤い舌で舌なめずりをした。落ち葉まみれの体をいかにも重たそうに、大儀そうにどすん、と座らせる。
「人形」ではない、本物だ。翆はくらくらしながらそれを認めた。さっき触れた時、黒猫の身体には紛れもない体温があった。それは「人形」には持ち得ないものだ。
「しッかし、夜中のヤロウ、あの鶺鴒の口ぶりじゃァ、どうやらドジ踏んだようじゃアねェか。全く、あれだけタンカを切っておいて情けネェ奴だ。…亜鉛、お前、何があったか見てたんだろ?」
キイイと高い音をたて、蛇の姿に転じた亜鉛が翆の肩の上から応じた。何を言っているのか相変わらず理解できなかったが、どうやら人外の者同士、かの黒猫、改め「人形師」には理解できたものらしい。ううむと黒猫は唸ると、きらりとしたその眼で一人会話に取り残された翆を見上げる。
「安心しろヨゥ、嬢ちゃん。俺と亜鉛が居るンだ、夜中が戻るまで何とか踏ん張るさァ。相手が鶺鴒てェのがちと分が悪いがよ。…しかし鶺鴒、一体何だって突然こんなことしやがンだ?」
あの「人形」は気に入ってたのに容赦無しに壊しやがってよゥ、と怨みがましく黒猫が呟く。
「…私、その、記憶をなくす前に…彼女に恨まれること、したの?」
「ンン、あいつァ、確かに嬢ちゃんを恨んでたサ…今までこンな行動に出たこたァ無かったが…。…まァ、恨み自体は仕方ネェよ、それまで自分のモノだった夜中を、いきなり横からかっ攫われちまッたんだからナァ」
「自分のものだった?」
翆は思わずその部分を咎めるように反駁してしまった。それまでべらべらと饒舌に喋る猫に半ば以上、呆気にとられていたのであるが。
「ああン、嬢ちゃん覚えてネェ…いや、元から知らねンだなァ」
説明する手間を考えればどちらも同じことだが。鬚をしごいてピンと立てながら、黒猫は僅かに首を傾げ、まじまじと青空の色の瞳を見上げた。
焦燥、不安、そんなものがぐるぐると目まぐるしく渦巻く彼女の瞳の中で、焦げ付くように陰りを添えているのは、きっと、嫉妬だ。夜中を慕うこの少女に、その言葉は聞き逃せぬ響きを持っていたのに違いない。
「…『店主』ってェのはよ、身内で結婚することが多いンだよなァ。町から出ねェで一生過ごすか、もしくは旅から旅へ、依頼人に呼ばれて放浪するか、どっちかだから、自然とそうなッちまうんだろうがな」
そこまで言って、ちらと少女の様子をうかがう。いっそう不安の色を強くして、彼女は落ち着きなく胸の前で指を組み替えていた。
「夜中はガキの頃に町へ来てから、鶺鴒と…あいつの双子のアネキの金糸雀ッてェのがいてな。その二人と一緒に育てられたのサ。だから町の連中は、いずれ、夜中は鶺鴒と結婚するモンだろ
うと、そうずゥっと思いこんできたし、実際、二人ともそのつもりだったンだろうサ」
嬢ちゃん、あんたに会うまではなァ。
責める風でもない。淡々とした猫の語り口に、翆は我知らず胸に手をあてていた。
「…どっか痛むかィ、嬢ちゃん」
猫が気遣わしげに問う声に、翆は怨みがましくその金の瞳を睨みやる。そもそもこの身体があまりにも精巧に造られているのがいけない――偽物の心臓がきりきりと締め付けられて、こんな風な痛みは、生身の人のもののはずだ。
「あなたはきっと、すごく腕がいいのよね」
返答の代わりにそう言うと、目をぱちくりさせた猫は、ふふ、と鼻を鳴らして尻尾をくねらせた。彼女の言葉を、この黒猫は驚くほどに老練な瞳で察してくれたのだろう。見てくれ通りの化け猫であれば、彼はきっと相当な年を経ているはずだった。
「夜中は私のせいで、…色んなものを捨てたのね…?」
その言葉を口にするのもまた、痛みが伴った。翆はその皮肉に憮然としながらも問わずにはいられず、黒猫をじっと見つめて言葉を待った。黒猫はちらと金の瞳を翆に投げる。どこか呆れたような、小馬鹿にするような雰囲気があったのは、きっとあの猫独特の飄々とした感じのせいだろう、と翆は解釈した。
「ンなこたァ、夜中に直に訊いてみりゃア、いいさ」
「駄目よ、あの人、面倒くさがりの上に優しいもの。たった一言『そんな訳あるか』って言って終わりよ、きっと」
「…ああ、何だか想像がつくなァ。さすが嬢ちゃん、記憶はなくても夜中のことァよく知ってらァ」
黒猫は真っ赤な口を開いて笑ったが、すぐに、丸々と太った身体に不似合いな素早さで立ち上がった。その辺りはさすがに猫である、シャア、と咽喉を鳴らす独特の警戒音で彼が鳴いたので、翆は亜鉛を抱えて慌てて立ち上がった。次の瞬間、飛びのいたその場所に、鋭いものが次々と刺さる。
矢だ、と認識する暇もない。翆は踵を返して走り出した。途中思いついて翼を広げる。助走をつけて飛び上がり、彼女は木の枝のひとつに飛び移った。黒猫が意図を察したか、矢張り体躯には似合わぬ敏捷さで彼女の後に続く。大振りの枝のひとつに飛び乗ると、黒猫は尻尾をぴんと張り、耳を後ろに倒した警戒の姿勢をそのままに、にやりと鋭い牙を見せて笑った。
「『人形師』!お前、その魔女を助けるつもりか!?」
鋭い声は矢張り、鶺鴒のものだった。弓は持っていなかったが、武器のように一冊の古書を左手に抱えていた。
「ああン?何の話だ、鶺鴒。俺ァ、俺の作品を守ってるだけだぜェ、当然のことだろうが」
「こ、の、獣風情、がッ…」
怒りを露に、鶺鴒が左手の古書を構えた。不思議なことに本は触れてもおらず、風もないのに、ひとりでに動き出し、項を繰り始める。そしてひとつの項でぴたりと止まると、鶺鴒が右手をその上にかざした。
「“城壁の上、眠りの終わりの始まり、剣を掲げ、名を名乗る――”」
「嬢ちゃん、跳べ!」
黒猫の忠告に、翆は素直に従った。翼を広げて別の枝へ飛ぶ。だが、宙に浮かんだ不安定な状態の彼女の周囲で、霧が渦を巻いた。真っ白な闇に視界を奪われ、翆は思わず、翼を止めてしまった。
どろりと、指先に絡んでくるような気がする濃密な霧。咄嗟に口元を手で覆いながら、翆は地面につま先をついた。途端――
「“甍を切り裂き、鳥籠の小鳥を放つ”」
鶺鴒の言葉が閉じる。
霧の中の翆に知る術はなかったが、彼女の右手には、剣が出現していた。同時、翆は何かに足を取られ、思わぬ痛みに小さく悲鳴をあげてうずくまる。足元に何か、鋭い棘をもったモノが絡みついたのだ。茂みに足を突っ込んでしまったかと、半ば手探りで確認すると、彼女の足首を蛇のように、荊が絡め取っていた。
ぞっとして、翆は霧の中で声を上げる。さっきの窒息への恐怖より、訳が分らない、という感情の方が勝った。
「何で、こんなこと――!」
「貴女を連れ戻すためよ、新月の魔女、墓所の歌姫」
声は。
耳元でした。翆は飛びずさろうとして、足もとを絡め取られているのでそれも叶わない。足首を傷つけられて、あれほど注意されたのに、体液である水銀が地面に流れ落ちていることが感覚で知れた。
唇を噛んだのは、恐怖か、悔しさか、もうどの感情なのかさえ分からない。
「水鏡、いえ、『モリビト』ね…?」
眼だけで確認する。初老の老女がひとり、ブラウスにスカートという姿で、穏やかな笑顔でそこに居た。
「ええ。姫様。貴女を墓所へ連れ戻す為に、彼女に協力して貰ったの」
穏やかな語り口は、きっと、生前の水鏡という人とそっくり同じなのだろうと翆はぼんやりと考えた。だとすれば、彼女が祖母であり、師でもあったという夜中は、どんな想いがするのだろう。死んだ彼女の魂がこんな形で動き続けているという事実に。
「さぁ鶺鴒、私の可愛い孫娘。この忌々しい『人形』を壊して、中の魂を解放してあげて頂戴な」
鶺鴒は呼びかけに顔をあげもせず、剣を構えたまま静かに呟いただけだ。吐き捨てるように、怒りを滲ませ、
「黙れ、墓所の遣い」
「あら、あら」
口に手を当て、老女の姿を模した墓所のモリビトは笑った。とても穏やかに、とても淑やかに。
「気性の激しさは相変わらずかしらね。…でも、いいわ。今は利害が一致しているのだもの」
その言葉に、鶺鴒は険しい表情を崩しもせず、ただ、翆の目を怜悧な瞳で覗き込んだだけだった。一切の言葉を拒むような、激しい殺気に刃のようになった瞳は、それでも夜中と同じ色をしていて、胸が痛くなる。
殺される、と翆は直感した。実際のところはこの「人形」を破壊され、中の魂を引き摺り出されるだけなのだろうが、彼女にとっては大差ない。
肌に慣れた死の気配は静謐だ。しかし、他人が己を否定しようとする拒絶の暴力は、荒れ狂うように激しい。死の匂い、暴力の気配、両方に晒されて身体が竦む――仮に動けたところで、足を取られたこの状況でどうしようもなかったが。
――老女が僅かに目を瞠ったのは、翆がとうとう堪え切れずに目を閉じたその後のことだった。
「鶺鴒?」
無言の鶺鴒が、剣を振り下ろした。
「止めなさい、鶺鴒!」
意外にもそう叫んだのは水鏡で、
「鶺鴒!てめェいい加減に目ぇ覚ませ!」
二つの怒号が耳に飛び込んでくる。
翆が恐る恐る目を開いたのは、覚悟していた刃の冷たさが――夢で覚えた心臓を貫くあの冷たさが――二秒数えても訪れなかったからだった。その時には、彼女の目の前には、乳白色の霧を割くように黒く塗られた鎧がひとつと、そして、鶺鴒の前で対峙する水鏡の姿が、あった。
「何のつもり?」
「勿論」
鶺鴒の声は、激しさを孕んでかえって平板だった。揺れる感情の振幅を飲み込んで、なお。
「その魔女を、殺すの」
言葉よりもその平板さが、翆に恐怖を感じさせた。頭蓋を鈍く叩くような恐怖に、少女は思わず目をそらす。
「させるかよォ!」
叫びと同時に、まず動いたのは黒塗りの鎧。がしゃんと重たい金属音の後、大ぶりの剣が振り下ろされる。
「邪魔するな、『人形師』!」
「邪魔だァ?てめェが言うんじゃネェよ、くそったれが!夜中を――」
その名前を耳にしたとたん、鶺鴒が炎を吐くように叫ぶ。咽喉の奥から己をすら焼き尽くすように、苛烈に。
「夜中を苦しめているのはその魔女だろうがッ!!」
「ッ」
翆は一歩を後ずさり、そうしてはっと足元を見た。――忌々しい茨が、消えている。それでも警戒しながら二歩目を後ずさりながら改めて鶺鴒の方を観察すると、彼女の手には大ぶりの剣ではなく、意思をもった生き物のように項が捲れているあの古い本があった。
そのページの、蠢きのたうつ虫のような細かな文字が、翆の目に飛び込む。
視界に入ったその一瞬に何があったか、翆にも分らない。ただ、彼女は悲鳴もあげられずに瞼を抑えてその場に倒れた。慌てて黒塗りの鎧――「人形師」の操る戦闘人形が、その細い体躯を担ぎあげる。
「嬢ちゃん!?鶺鴒、おめェ何を…」
鶺鴒は、本を手にじぃと担ぎあげられた細い体を、睨んでいた。
「――忘れたのか『人形師』、あたしは『語り部』」
――「店主」の能力に優劣は無い、というのが、幼い見習の子供達が真っ先に教わる道徳観念である。だがそれはあくまで表向きだ。実際、数種の「店主」の能力に関しては特別扱いを受けているのが実情である。
「物語が、言葉が、彼女を殺す」
「語り部」。
見習から一人前までの間は「本屋」とも呼ばれるその能力は。
百年に一度しか生まないとされ、特別な才能と呼ばれる、異能者の中ですら異能と呼ばれる力であった。
かつて「外法遣い」と呼ばれた「店主」の始祖達が使った能力に最も近い能力であるとも言われている。
その力を、「律」を無視して下される外法の力をもってすれば、
「あたしには魔女を殺すだけの力があるんだ。忘れたのか」
――その異能は、月神に寵愛され、「律」によって護られる「魔女」をも殺す、と言われている。
水鏡の幻影が、微笑みながら、瞳に黒い陰りを映していた。
「夜中が殺せずに苦しむのなら。あたしが終わりにしてやる。――この魔女を、殺してやる」
「セキ――」
墓所の遣いは、穏やかに微笑んだまま、彼女にすいと指を走らせた。誰も気づかぬうちに影から影へ、霧の中を鶺鴒の背後に移動していた老女の指が、鶺鴒の首に掛かる。鶺鴒は笑った。老女の指先からは、濃霧の中ですら隠しようなく、黒い影が滲み出ていた。
高く、霧を裂くような不快な音で笑いながら、彼女は高らかに、宣言した。
「無駄だ、墓所の遣い。あたしの勝ちだ。――あたしを今殺せば、あの魔女に掛けられた物語は誰にも解けなくなる。」
「…」
さすがに顔を歪めて、モリビトは指を止めた。それでも爪の間には、澱むように黒いものが蠢いているのが見て取れる。
そのこう着状態を、最初に打破したのは「人形師」であった。正確には彼が操る人形だが。
翆の細い体躯を抱えたまま、無言の人形が霧の奥深くへと駆け始めたのだ。はっとして、老女と鶺鴒はほぼ同時にそちらを見やったが、結局、追うことはしなかった。
追ったところで、物語を掛けられた翆を救える訳ではない。
追わぬところで、彼らを見失うわけでもない。
「この森の霧は、『墓所』に近いモノだもの――すぐに居場所は知れる」
呟いたのは、老女であったか鶺鴒であったか。
遠く霧の中へと逃げ込んだ黒猫に、知る由は無かった。