霧深い森の奥に、その小さな町は在る。
晴れた日でも太陽の光が届かぬ、鬱蒼と茂る木々の作る闇のその奥、霧が天然の迷路を作り出したそのずっと奥に、ひっそりと、その町は存在していた。
――かつてはその場所は、東の王国の王の手によって、地域で随一の大都市であったという。だがそんな過去を思わせるものは、町の周囲に点在する、今は使われぬ城壁や廃墟だけだ。町はあくまでも密やかに、静かに、日々を繰り返している。
その町に、名前は無い。
ただ、町の人々だけが、「店主の町」と、控えめに名乗るばかりだ。
その朝は常よりも深く濃い白い闇のように濃密な霧の出ているような日であった。朝日を遮る霧のお陰で、町はまるで午睡の最中のように気だるい朝を迎えていた。
憂鬱なその気だるさを助長させたのが、朝一番に町へと入ってきた知らせである。霧深い町には古い時代の城壁が一枚だけ残されており、町へ入るには、町の四方にある門でそれなりの手続きを踏む必要がある。
彼らのその憂鬱と苛立ちの要因となったのは、西の門からの知らせであった。
「…『郵便屋』と、娘の姿の人形です。自分は話にしか聞いたことがありませんが、彼はもしかして…」
年若い門番の報告に、町の老人達は顔を顰め、町の長を務める青年が溜息を吐き出す。集まっていた面々が、口々にさざめいた。
「どの面を下げて帰ってきたのか、あの恥知らずめが」
「何処へなりと消えればよいものを、今更この町に何用だと言うんだ?」
その場に集められていたのは、町でも長老格の人々ばかりである。この町に住む「店主」と、その家族や見習い達に、師と仰がれ尊敬を受ける人々だったが、この時ばかりは彼らも常の人格者としての顔を歪め、苦しげに息を吐いていた。
郵便屋、と、この町でそう呼ばれる人物は一人しか居なかった。そしてそのたった一人は、数年前、決定的な罪を犯して、この町から放逐された。今は世界中を、当て所なく彷徨い続けているはず――二度とこの町に、戻ることもなく、死ぬまでそうやって放浪を続けるはずの人物だった。
その彼が、この町に顔を見せたという。
長老たちの困惑は深く、それ以上に怒りも激しかった。
「それにしても『人形』を連れているということは、あの男、未だに罪を犯し続けているのか!」
一人が嘆かわしげに、吐き棄てる。誰かが首を横に振った。
「全く、水鏡の弟子ともあろうものが…『漆黒墓所』の彼女が知れば、一体どれだけ嘆くことだろう」
「店主の面汚しもいいところだ、全く」
また誰かが、そんな言葉で呻く。白髪の頭を抱えて、
「よりにもよって、『墓所』の姫君を!アレは一体、我らの使命を何だと心得ているんだ」
「そうだ、その通りだよ。世界中の死者が集まる『墓所』の均衡を崩すような真似をするなどと…」
「我々『店主』は、新月の月神様から――『墓所』の王から、力を頂いているんだぞ」
「その大恩ある相手に、唾を吐く行為だ!」
場の人々は口々に、その言葉に同意する。
――ここに集まった彼らもまた、若い頃はこの町を維持していくために、町で暮らす同胞のために、そして何よりも「新月の月神様」から下された使命のために、「店主」として活躍していた人々であった。「店主」の故郷たるこの小さな町は、こうして一線を退いた老「店主」達によって意思を決定されている。
その彼らの記憶には、未だ、数年前にこの町を放逐された「郵便屋」の青年の事件は鮮明であった。
門番の年若い青年は、ついぞ最近この町へ入ってきたばかりの見習いである。その為、彼だけは、老人達の困惑と怒りの正体が分らない。ただ彼は、数年前、ある罪を犯した罪人として「郵便屋」が手配されているということだけを知らされており、それで職務を全うする為、こうして朝の訪問者のことを報告したのに過ぎなかった。
一体、彼がどんな罪を犯したというのか――
門番は老人達の言葉の断片に、内心だけで首を傾げる。想像するだに、恐ろしく、忌まわしい罪を犯したらしい件の青年は、けれども、
(…そんなに悪そうな人には見えなかったのだが)
そう、悪い人には見えなかった。彼自身が「郵便屋だ」と名乗るまで、門番は大して警戒もせずに彼を町へと通してしまうつもりでいたくらいだ。
「――郵便屋、ですって?」
書面に名を入れようとしていた手が思わず、止まる。
小さな門の出入り口の、その待合室。濃い闇にも似た霧の中からふらりと現れた青年は、小型のストーブで暖を取る少女の、霧に濡れた髪を丁寧に拭いてやりながら、淡々と、
「そうだ。多分、この町で俺は手配されているだろう?…そんなにあっさり俺を通すと、後であの老人連中から、大変な大目玉を食らう羽目になるぞ」
幼い少女の姿をしているそれが「人形」であると、門番が気付いたのもこの時だ。物憂げな瞳を優しく微笑ませ、門番を見上げた少女の瞳が、けれどもただの硝子玉である、と、門番の青年には分ってしまったのだった。
――決して珍しくは無い。人のように振る舞う「外法」の人形も存在することを、この町の住人として彼は知っていた。それに、そうした人形を連れ歩く酔狂な趣味の人も、まぁ――稀には居る。門番として旅人と接していれば、変わった人に出会うのは常である。
「…あ、あの、ご忠告、ありがとうございます。ですが…手配されていると知っていて、何故?」
「……連中に迷惑をかけるつもりはない。町へ…入るつもりもないんだ。」
彼はそっと、少女の――姿をした人形の髪を拭う手を止めた。門番の方をちらと見て、「助かった」と、門番の貸したタオルを差し出す。
「ただ、どうしても会って置きたい奴が居てな。町に入れなくても、連絡だけでも、と思って立ち寄った。…不愉快な想いをさせるだろうけど、すまないな。」
幼い姿の人形は、青年の顔を不安げに見上げている。彼の外套の裾を握るその姿は、「人形」であることを知っている門番の目にさえ微笑ましく見えた。
――「人形」であることを知っているがゆえに、同時に、どこか物悲しくも、見えた。
そして、長老達からの指示を受けた門番は、再び、西の門の待合室へと向かった。元々、旅人が長居をするようには出来ていない、粗末な木の椅子と薄い壁と、小さな小さなストーブがあるだけの部屋だったが、青年と幼い姿の人形は、何やら言い交わしながらじっと座っていた。
老人達の会合は決して短いものではなかったのだが、その間、彼等はその場を全く動かなかったらしい。ただ、薄く立て付けの悪い扉から、細い声が漏れ聞こえていた。
「…でも、夜中?夜中は、町には入れないのよね…?」
不安げな少女の声は、驚くほど細く、綺麗に響く。背に小さな羽の生えているところから見ても、この「人形」は、美しい歌声を持つことで知られる「小鳥乙女」の種族をモチーフにしているのだろう。
「そうだな」
応じる声は淡々として、表情を感じさせない。まるで他人事を語るように、彼は続けた。
「――俺はこの町ではもう、赦されることなどないんだろうな。本当なら、連中、俺の顔だって見たくないはずだ」
「…夜中、悪いこと、したの?」
幼い声に問われた青年の表情は、ほんの一瞬、歪んだように思われる。ストーブの明りを吸って、銀というより灰色にくすんだ瞳が、強過ぎる感情に撓みを帯びたようだった。
「俺は多分、『墓所』へさえ入れてもらえない」
全てを赦す死後の世からさえ拒絶される、と。
哀しいというよりいっそ決然とさえしたその言葉。
「私も?」
人形の細い声は、だが、その内容にも関わらず唐突に感情を抜いたように淡々と響く。青年がわしゃ、と乱暴に人形の頭を撫でた。
「…さぁ、どうだろう」
「えー、あのー」
こほん、と咳払いをして門番が室内へ入ったのがその時だった。さ、っと顔色を変えて口を閉ざした人形を他所に、青年の方はと言えば全く悪びれた風も照れた風も見せず、「ああ、どうだった」と矢張り淡々と問い掛けてきた。
(…なんて神経の太い)
ある意味、老人達が恐れるだけの器の持ち主ではあるのかもしれない。妙な納得を覚えながらも、門番は、老人達から告げられた言葉をそのままに、彼に伝えることにした。
「えと、ですね。…矢張り、町へ入ることも出来ませんし、あなたがたの為に何かをする、と言うことは出来かねると…長老方はそのように仰ってました」
大部分は、彼の意訳である。敬うべき長老方が、それほど悪そうにも見えない人物を悪し様に言う言葉を、とても彼は口にしたくなかった。彼もまた、老人達を師に持つ「店主」の一人なのだ、尚更。
だがその彼の心遣いも、青年にはとうに分りきったことであったらしい。僅かに苦笑を浮かべたようで、本当に僅かに口の端を歪めて、
「そりゃ随分と、丁寧なお言葉だ」
「…ええ、まぁ、ハイ。他にも色々仰っておられましたけど」
それから、彼はす、と目線を下げる。先程の、長老達の言葉の断片を、この時彼は思い起こしていた。
その始まりからして、「新月の月神」に力を貰ったと伝承にも謳われているほどだ。「店主」達にとって、「新月の月神」は月神の中でも取り分け重要な、恩人とも呼ぶべき神である。老人達は、この青い髪の郵便屋の青年に関して、こう言っていたか。
――大恩ある新月の月神に、唾を吐くような真似を。――
神に唾するような恐ろしい罪を、犯すような人物なのか、この青年は。傍らの幼い「人形」をやたらに気遣っている風ではあるが、変わっている所といえばそれくらいのものだ。
「そういう訳で、貴方には即刻、ここから立ち去って欲しい…とのことでした」
疑問を胸に押し隠し、門番の青年は老人達からの伝言を伝える。青年は無表情に、けれども一度、溜息を吐き出した。
「奴が町から出るのを、待つしかないか…」
眼を伏せて、それから彼は幼い姿の「人形」を見遣る。気遣うような視線に、門番の青年は、ふと思い立った。
「――差し支えなければお尋ねしたいのですが。…あなたは、一体どんな罪で、この町を追われたのですか?」
この問いは、少々不躾に過ぎたかもしれない。青年が途端に、ぐっと眉間に皺を寄せた。ナイフの色と同じ瞳で鋭く一瞥され、けれども門番は怯まずににこりと微笑む。
「『町に居る人に連絡をつけて欲しい』のですよね?僕が個人的に、待合室で盗み聞きしたことを、たまたま知人に伝えても…それは問題ないと思うんですよねぇ。」
「…」
ぱちり、と一度瞬いて、青年は先程とは恐らく違う感情からだろう、眉を顰めて、
「…なかなか立派な門番だな」
「恐れ入ります」
僕、人を見る眼はある方ですよ?と胸を張られて、さすがに青年も返す言葉をなくしたようである。
「ありがたい話だが。――あんたがそれを知らされていないのなら、多分、知らん方がいい」
だがそれでも、青年はきっぱりとそう断じた。すとん、と板張りの椅子に座り、傍らの「人形」を引き寄せて膝に乗せる。
「逆に知りたいのなら、そこらの連中に聞いてみるがいいさ。忌々しいと思ってはいるだろうが、あんたがどうしても知りたいと言えば、きっと答えてくれるだろう」
彼は、やはり感情を窺わせぬ声でそう言って、一度言葉を切った。何かを考えるように、膝に乗せた幼い「人形」の、精巧に作られた旋毛の辺りを眺めている。
「大事件だったんですか」
「…そうかもな」
他人事のように相槌を打つ。傍らに居た人形が、居心地悪そうに身じろいだ。
ストーブの中でぱちりと薪が爆ぜる。
「悪かった、面倒をかけたな」
それが合図だった訳でもなかろうが、青年が立ち上がった。ぎしりと椅子が軋み、慌てた様子で傍らの人形がそれに従って立ち上がる。
「いえ、…いいんですか?」
「ああ。あんたはこの街の人間だろう?俺に関ったと知れれば、老人連中の覚えも悪くなる。…気持ちだけありがたく受け取っておくよ」
唾棄すべき犯罪を犯したという青年は、そう告げて門番の傍らを過ぎた。人形の少女がぺこりと一礼し、淡く微笑む。微笑は、物憂げな瞳の色を一層、濃く見せた。
絆された、と言うのが正しいかもしれない。魂など無いはずの人形の見せたその笑みが、門番の感覚を刺激した。
「――ここから南東の方向に、少し歩くと」
独り言のように、背中の二人を見ずに言う。
「廃墟になった大きな建造物があるんです。で、…その傍に、僕の師匠の使っていた小屋があるんですよ。師匠はあと一ヶ月は戻る予定はありませんし、その間に、うっかり空き巣に入られたりもするかもしれませんねぇ」
背後の二人が応えたかどうかは知る術も無い。僅かに、苦笑するような気配があったように思う。