門番の青年は、名を錦、と言った。
早朝の不可思議な邂逅があってから、門を潜る旅の人の姿も無く、錦は欠伸を噛み殺しながら詰め所に頬杖をついていた。こうして退屈を数えて潰すようにしていれば、錦には朝の出来事もまるで夢の中のことであったように思えてくる。
「にーしき!」
ぼう、と朝の出来事を反芻していた時だ。錦は名を呼ばれて、詰め所から顔を出した。門の向こう側、町の方から一人の人物が手を振って歩いてくる。
燃えるように赤い髪をひとつに纏めて、それが腰の辺りまでの長さなので、尻尾のようにゆらゆら揺れている。
年の頃は――早朝の訪問者の青年と同じくらいだ。鋭い瞳の色は、午後の太陽を受けるときらりと銀色に光って見えた。
見た目には、性別は男女のどちらとも判別がつかない。男にも女にも、見えた。
「やぁ、金糸雀(カナリヤ)さん。また森へ?」
金糸雀、と名を呼ばれたその人物はにやりと口元を笑ませた。瞳が鋭いので、そうして不敵な笑顔を見せると、獰猛な獣じみて見える。金糸雀という名前は、御伽噺に出て来る小鳥の名だと聞くが、むしろその人は小鳥を狙う猫のような雰囲気を漂わせている。
「いいや、今日はちょっとな。…俺の妹が町へ帰って来ているんだが、お前、見ていないか?朝から見当たらんのだ」
声はざらざらとして低い。昔、声帯を傷つけたか何かで、金糸雀の声は聞き取り辛い独特の声色をしていて、男か女か分らない。
「妹さんですか?」
「ああ、鶺鴒(セキレイ)と言うんだ」
俺の双子の妹だよ、同じ顔をしているから分かるはずだ、と金糸雀は言って、詰め所の椅子を勝手に引き寄せるとどっかと腰を下ろした。旅人のよく着ている外套とは違う、裾を短くつめた妙な外套の懐を漁って、煙草を引っ張り出す。その衣服は、仕事柄か、無数にポケットがついていた。
「いえ、今日は…ここにいらしたのは、旅の人だけですよ。それも一組きり」
肩をすくめて応じると、金糸雀が少し眉を顰めた。煙草が不味かった訳ではないだろうから、話題にのぼった旅人に、金糸雀も心当たりがあったのだろう。
「――郵便屋と、人形の娘か」
「ええ。あれ?ご存知で?」
「ご存知もクソも、朝から老人連中が大騒ぎで、俺まで朝からたたき起こされて、死ぬほどいい迷惑だよあんにゃろう、帰るなら帰るタイミングくらい選べってんだよ」
吐き棄てるように言って、煙草の煙を深く吸い込む。銀の目が、俯いた拍子に翳って鈍い灰色に見えた。
刃の色に、よく似ている。
「ったく。南も北も東も、門番の奴ら鶺鴒を見てねぇって言うし。ここも通ってねぇってことは、抜け道使ったんだろうな。…あーくそ、追いかけるのめんどくせぇ!」
がりがりと煙草を持たない方の手で頭をかく。元々乱暴にまとめられている髪は、好き放題にあちらこちらへと跳ねていた。
「抜け道?そんなのあるんですか」
「ああ、鶺鴒とか、一部の店主しか使えねぇンだ。鶺鴒は『本屋』だから、守備範囲広いしなァ…」
そこまで言って、金糸雀はふと言葉を呑んだ。胡乱な目付きで虚空を睨み、呻く。
「なぁ、『郵便屋』がどっち行ったか、お前知らね?」
「…何故です?」
「鶺鴒は多分、あいつを追ったんだろう。…何せあいつは、」
視線を虚空へやったまま、どこか遠くを見るように目を細める。
「……鶺鴒の、許婚だったんだから」
ったく、めんどくせぇ。口癖なのだろう、再び呟いて、瞳を翳らせる。そうすると、鋭い銀の瞳は、刃の色によく似て見えた。
早朝の訪問者も、そういえば、刃の色によく似た瞳をしていた。
金糸雀の予想は正しく当たっていたと言うべきだろう。
森の中にはあちらこちらに、古い時代の遺物である廃墟が点在している。そうした廃墟の中に、比較的新しい小屋の存在を見つけて、夜中は安堵に息を漏らした。知らず、息をつめていたらしい。
霧深い森は、歩くことに緊張を強いた。いくら、ここが彼にとって故郷と呼ぶべき町の近くであったとしても、だ。――いや、よく知っているからこそ、彼はこの霧に警戒を強くしていた。
森を取り囲む深い霧は、ある種の意思のようなものを持っている。霧、それ自体が、人を拒むことがあるのだ。
「迷わされずに済んだか…」
小屋の鍵を器用に壊して開き、彼はそう呟いた。翆が怪訝そうに彼を見上げる。
「迷わす?」
「ここの霧は、人を惑わせる」
そう彼女に応じ、夜中は小屋の中を見渡した。寝台がひとつと、ずらりと並んだ戸棚。既に長く使われていないのだろう、戸棚は殆どが空であった。手狭だが、数日過ごす程度であれば問題なさそうだ。
「…だから翆、あまり一人で歩き回るな。霧に惑わされたら、帰っては来られないぞ」
小屋の中を物珍しげに見回す少女の背中にそう忠告すると、彼女はぞっとしたように青ざめて真剣に頷いた。
「わ、わかった。外に出るときは、夜中と一緒なら、大丈夫?」
「多分な」
ふぅ、と戸棚の埃を吹き払いながら夜中は応じた。
「多分…?」
「霧に俺が拒まれる可能性もある。町に拒まれているんだからな」
淡々と告げる夜中に、翆はふと顔色を翳らせる。
「私の所為?」
彼女の問い掛けに、夜中は振り向きもせず、戸棚を検分する手も止めず、矢張り淡々と応えた。
「お前が気に病むことじゃない。」
突き放すような調子にすら聞こえ、翆はそれ以上は尋ねることも憚られ、所在無く、埃まみれの寝台を撫ぜた。シーツも埃まみれで使い物にはなりそうもない。寝台で眠れるだろうかと少し期待をしたのだが、残念ながらそれは叶わなさそうだ。翆はそっと溜息を押し殺して、辺りを見回した。
薄汚れた窓に、はめ込まれた硝子の向こう。深い霧に覆われた森に目を遣る。
「あれ」
霧で灰色にも見える森の風景に、ちらりと赤いものが見えた気がして、翆は思わず窓に駆け寄った。
「どうした?」
「誰か居るみたい」
僅かな緊張を帯びて、翆は夜中を振り仰ぐ。青年も窓に近付くと、翆の頭越しに硝子越しの光景をじっと見つめた。
やがて彼もまた、灰色の光景に、赤いものがちらちらと見え隠れすることを見抜いたようだった。しかも、その赤い色に何がしか、心当たりがあったらしい。ち、と舌打ちをひとつして、彼は荷物から、鉛色の塊を引っ張り出した。
「おい、亜鉛起きろ」
――鉛色の、蛇のような姿をした生き物は、見た目には分らないが眠っていたものらしい。彼の言葉に首をもたげて、金属の蛇は夜中の方を見るような所作を見せた。
「翆を頼むぞ。俺は少し、外へ出て来る」
「え、夜中…」
「どうやら俺の客だ。」
「…夜中が待っているって言った人?」
彼は元々、この町へ来る目的を、ある人物に逢う為だと翆に説明している。その目的の人物なのだろうかと翆は考えたのだ。だが、夜中は少し険しい顔をして、首を横に振った。
「いや、最悪の部類の方の客だ」
応える声は何故か酷く、うんざりしたような響きを帯びていた。それを察した訳でもないだろうが、ほぼ同時に、小屋の外から鋭い声がする。
「夜中!帰っているんだろう!」
「……鶺鴒」
溜息をついて、夜中は額に手を当てる。セキレイ、と言うのが外で声を荒げる女の名らしい、と、翆は亜鉛を抱き上げながら眉を顰めた。何故か胸の辺りがちくりと、ささくれでも出来たように不快に痛むのだ。
「夜中」
理由は分らない。だが、彼に外に出て欲しくない気分になった。翆は夜中の服の裾を引いて、彼を見上げる。彼の方は、そんな彼女の気持ちになど気付いていないのだろう、彼女を一瞥して、告げた。
「直ぐ終わらせる。…大人しくしてろよ」
欲しい言葉はそんなものではない。
扉の外に居たのは、燃えるように赤い髪をした女だった。夜中と同じくらいの年頃だろう、鋭い視線は霧に煙って、暗い灰色にも見える。
肩で切り揃えた髪の先で、霧の水滴が滴っていた。
「――何をしに戻ってきた?」
「別に、何も」
「里心がつくほど、可愛い性格ではないだろうに」
吐き捨てるような調子で、女――鶺鴒が呻く。夜中は何も応えず、霧で湿るばかりの髪を手で拭った。じとりと、冷たい感触は、小屋の中で待つ人形の娘を思わせる。――彼女の身体も、体温が無いのでこんな風に冷やりとする。
「答えろ。何のために、町へ来た?」
鶺鴒の言葉に、夜中はひとつ溜息を吐き出す。
「…お前はそんなことを言う為に、態々俺を追ってきたのか?鶺鴒」
「あたしは」
鶺鴒が、ふ、と目を背けた。小屋の方を見遣り、窓から顔を覗かせる、青い瞳と視線が合う。
窓からこちらを伺っていたらしい。その小さな影は、彼女と目が合って、慌てたように引っ込んだが、その一瞬でも鶺鴒の激昂を呼ぶには充分だった。彼女はそれを、よく見知っていた。
「――お前は、まだ、あの子を連れて歩いているのかッ!」
つかみ掛からんばかりの勢いで叫ぶ鶺鴒に、夜中は辟易したように目を逸らす。もうこんな問答は、何度繰り返したかも知れない。彼にとってはもう、倦むべき言葉でしかない。
「…俺の勝手だろう」
「違う、お前は…分ってるんだろう!そのままじゃ、お前、」
「狂う、って言うんだろう」
彼は。
微笑んだようだった。霧深い森の中のことで、それは鶺鴒にもよく見えはしなかったのだが、そう見えた。
「俺は、疾うに、狂っているよ」
彼はそう応じて、背を向ける。鶺鴒はなおも何かを叫ぼうとして、霧の空気を吸い込んで、そして結局、言葉を見つけられずに沈黙した。肩を落し、力を失くした声で、それでも彼女がようやく吐き出した言葉は、夜中の背中に投げやりに、響いた。
「…あたしは、それでも、お前が心配で、…」
「すまない」
違う。欲しい言葉はそんなものではない。
彼の謝罪を聞いて、彼女はそう叫びたいのを飲み込む。それは、彼女の望んだことでもない。――そんな惨めな真似は、したくなかった。泣いて縋るような、そんなことは弱い女のすることで、彼の最も軽蔑するものだっただろうから。
一度は、将来を約束するほど愛し、信じた人なのに。
何故、と彼女は、閉じた小屋の扉を前にそう問わずには居れない。
何が狂えば、何を間違えば、彼は今の選択を選んでしまうのだろう。
霧が渦巻く。彼女の心中の葛藤と苛立ちと、混ざり合う激情を、まるで受け止めるように霧が一際、濃くなった。自らの身体の輪郭さえ危うい視界。俯いた状態でそれに気付いた鶺鴒ははっと目を上げ、そして、
「――そうね。何を間違えたのかしら。」
低い囁きに、身を凍らせる。