小屋の戸を閉じた夜中は一度深い溜息を吐いた。安堵というより疲労のそれにも見受けられる。こっそりと窓から覗き見ていた罪悪感もあっただろう、翆は恐る恐ると言った風でそれを遠巻きに見ていたが、やがて、亜鉛を抱えたまま音を立てぬようにして彼に近付いた。
「…夜中、今の人、だれ?」
 誰、と問いながら、彼女の胸は痛む。
(きっと、知っている人なんだわ)
 失くした記憶のどこかに、刻まれている人なのだろう。そうは思うのだが、思い出せないのだから、矢張り夜中に尋ねるしかない。
「鶺鴒。俺の――」
 夜中は僅かに言い淀んだ。翆が首を傾げる程に間を置いて、ようやくぽつりと答える。
「…従妹で、幼馴染だ。同じ町で育ったし、水鏡に教わったんだ、一緒に」
「水鏡」
 翆の知るその名を持つ人物は、あまり良い記憶とは結び付けられない。何しろ、その名を持った人物は、翆の魂を「漆黒墓所」へと引きずり込もうとする、墓所の「モリビト」なのだ。
 しかし、元々、「モリビト」は、墓所にある死者の魂を模して姿や能力を変える存在だ。恐らく今は、その能力を有用なものと考え、「漆黒墓所」が水鏡の姿を模しているに過ぎないのだろう。
 それは理解していたものの、矢張り気分は良くない。
 翆の葛藤を察してだろう、夜中は彼女の頭を撫ぜて、天井を見遣った。そこに何か、遠いものが見えるとでも言いたげに。
「生きていた頃は、俺にも、鶺鴒にも――あと鶺鴒の姉の金糸雀ってのも居て、…俺達にとって、良い師匠だったんだ。水鏡は。」
 彼の思い出話など、滅多に聞けるものでもない。翆は思わず彼を見上げ、そして、遠くを見る彼の面差しに、思いもかけぬ胸の痛みを覚えて、瞬いた。
(――私の知らない、夜中の、時間)
 それがどうしてこんなにも寂しいのだろう。訳が分らず、彼女は瞬きを繰り返していた。




 室内にあったもので簡単な掃除を済ませ、近場にあった沢から水を汲んでシーツを洗う。シーツを干す頃には霧が僅かながらに弱まって、太陽の光の具合で、もう昼を回っていることが知れた。
 シーツを一度叩いて皺を伸ばす。そういった所作は、誰に習った訳でもないのに身体が覚えているらしい。翆の所作を眺めて夜中がそんなことを考えていると、幼い人形の身体に魂を宿したままの彼女は、振り向き様に微笑んだ。
 子供のように無邪気に、
「おなかすいた!」
 なんとも和やかな言葉である。

「よう、そりゃ丁度良かった。飯持って来たぜ」

 そこへ掛けられた言葉に、翆は驚いてシーツの影に隠れてしまった。夜中が僅かに苦笑して、声のした方向へ振り返る。薄い霧をかき乱して、濡れた落ち葉の上を足音もなく歩く人影がひとつ、森の中を歩み寄ってくるところだった。
「――人形師。随分と早かったな。」
「お前、わざわざ騒ぎになるように仕向けただろうが?」
 霧を掻き分け、まず現れたのは――ぞっとするような美貌の女だった。
 霧に濡れて艶やか過ぎるほどに艶やかな、簪に飾り立てられ結い上げられた黒髪。森を歩くには不似合いの極みだろう、幾重にも布を重ねて創られた、裾を引き摺るよう装束を纏っている。落ち葉を音もなく踏む足は素足で、「透き通るような」というより、いっそ病的に青白い。引き摺る布の色は霧の雫を吸い込んで余計に艶やかに映える赤や黄色の原色、翆は見たことも無いような植物と、真っ赤な魚の柄だった。
 だがその瞳がぎょろりと翆を向いた瞬間、翆も察した。そろりとシーツの影から顔を出して、胸中に呟く。
 ――これは、「人形」だ。私の身体と同じ様に、肉の器を模しただけの。
 硝子玉で出来ているのだろう、丸く緑柱石と同じ色をした瞳には、どんな感情も映っていない。
「『郵便屋』なんだから、抜け道使って町に来りゃあいいものを」
 そしてこの言葉を聴いて、翆は小さく悲鳴をあげて、またシーツの影に入ってしまった。
 ――「人形」の女は、声など発しては居ない。声を出しているのは、女が腕に抱えた「もの」の方であった。
 森の中で見るには、豪奢で繊細すぎて、かえって馬鹿馬鹿しくさえ見えるドレスの、たっぷりとした袖の中。女の細い腕に抱かれているのは、血の滴る、生首だ。瞼を縫い合わされ、傷口からは今にも血の匂いさえしてきそうな、その生首が、翆の悲鳴を聞いてかか、と笑った。潰れたようなしわがれた声は低く、霧の中にざらざらと響く。
「おやまあ、また驚かせちまったなァ、あはははは」
「…翆。あまり気にするな。あの首も人形だ」
「わ、わかってる!」
 ――当たり前である。幾らなんでも、どれだけ精巧に出来ていても、こんな現実離れした光景を見れば、直ぐにあの生首も「人形」であると察しがつこうと言うものだ。
「じゃあ何で隠れるんだ」
「だ、だ、だって!」
 普通隠れるだろう。あんな常軌を逸したものを見たら。
「変な奴だな」
「…嬢ちゃんもお前に言われたくネェと思うぞ、郵便屋」
 淡々とした様子の夜中に、さすがに「人形師」と呼ばれた生首も、呆れた風にこう呟いた。それから、生首はぐるりと目玉を動かして夜中へ視線を投げる。
「まぁなんだ、生きてたか。無事で何よりだ、夜中」
 まぁな、と気の無い返答をして、夜中はそっぽをむく。
「嬢ちゃんも、久し振りだなァ。まぁその『人形』の身体じゃ、病気になんぞ罹りようもねぇが、息災のようで何よりだ!」
「…え、と」
 翆は――ようやく動揺をおさえて、隠れていたシーツの陰から顔を出していた――口の中でもごもごと言葉を選んでいたが、恥ずかしそうに俯き加減に、
「ど、どちらさま、ですか」
「おぉ。その反応も久し振りだ。」
 げらげらと気にした風もなく「人形師」は笑い飛ばし、夜中が付け加えた。
「――お前の魂を入れてる、その『人形』を作った人形師だ。前に話をしただろう」
 そういえば、以前にそんな話を聞いたのだったか。翆は思わず自分の身体を撫でてみたりしつつ、眼前の生首と女の人形に頭を深々と下げた。
「あ、あの、ありがとうございます」
 生首は何故か、謝礼には返答せず、ふぅむと呻くようにして間を空けてから、夜中へと視線をやった。
「お前、どんだけ事情を話したの?」
「…適当に。」
「ってことはロクに話してネェのか」
 長い付き合いのある者同士の、特有の直感である。「人形師」は夜中の説明からそれと悟って、軽い溜息を吐いた。目の前で瞬きを繰りかえし、青い瞳に疑問を目一杯に浮かべている幼い「人形」の少女は――そしてその「人形」に今、宿っている魂は、実を言えば、「人形師」にとっては馴染みの深い相手である。だが、目の前の彼女に、今、恐らくその記憶は無いだろう。
「お前さぁ、その面倒くさがりなトコ、治した方がいいと思うぜ、俺。…だから鶺鴒にも、妙な誤解されるんじゃねぇか」
 鶺鴒、と名を口に出された途端、夜中の表情が目に見えて不機嫌になった。少なくとも傍らの翆はそう判断した。
 嘴を差し挟むか否か。おろおろと睨みあう二人を見比べるうちに、ふ、と生首の方が軽い息を吐く音を残し、
「俺にゃあ関係ねぇことだがな」
 苦々しくそう告げる口調に、夜中は、僅かに目を逸らしたらしい。
「……悪ぃ」
「謝罪が筋違いだよ、ばぁか。…で?わざわざ近寄りたくもねぇ故郷に帰って、俺を呼び出して何の用事だよ、親友」
 肩があれば、肩でも竦めていたかもしれない。あからさまに話題を変えたいがための問い掛けだった。
「翆の『人形』を診て欲しい。前の町で怪我をしたんだ。一応、治癒はしたみたいだが…」
「怪我?」
 そういえばそんなこともあった。翆は思い出して、肩を押さえる。「あの時」は、刺された夜中の血を目の前にして頭が真っ白になってしまって、思い出したくないのだけれども。
「肩、撃たれたんです」
「撃たれた、だァ?」
 素っ頓狂な声をあげて、生首ではなく、今度は、生首を抱いた女の人形の方が目線を動かした。緑柱石の色の無表情な目が、夜中の方を見やる。ただし、相変わらず、喋るのは生首の方である。
「どういうことだよ、お前。よりにもよって俺の最高傑作に!」
 翆の心配ではなく、どうやら自分の作品である「人形」のことを心配しての発言であるらしい。
「色々あったんだ。」
 対する夜中はといえば、相変わらずの面倒くさそうな返答であった。事情の説明になっていない。これは自分が釈明をするべきか、と翆は少々慌てて二人の間に割って入ったが、直ぐに「人形師」は引き下がった。
「…ったく、気ィつけろよ。嬢ちゃんにくれたこの『人形』はな、最高傑作なんだ、二度は作れねぇんだよ!修繕はするが、壊されたらそこで終わりなんだからな!」
「ああ、何度も聞いた。俺もそこまで記憶力が悪くなった覚えは無い。」
「いい加減、てめぇがあの老人連中より先にボケ入り始めてんじゃねーかと俺は心配だ」
 わざとらしく生首は、大仰な溜息を吐いて見せて、冗談めかしてそんなことを言った。が、
「俺も最近、自分で自分が心配だ。俺はまだ、正気だよな?」
 夜中が真顔でそんなことを言い出したので、「人形師」も翆もぎょっとして、期せずして目を見合わせてしまった。

 二人は、彼が鶺鴒と交わした言葉を知らない。
 ただ、彼のあまりに淡々とした様子に、冗談と笑い飛ばすことも出来ずに言葉を凍らせてしまう。

 ただ「人形師」だけが、心当たりでもあったのだろうか。忌々しげに鼻の頭に皺を寄せる。
「てめぇから愚痴を聞く羽目になるとはな。…もういい、仕事を始めるぞ。依頼者は、お前でいいんだよな?」
「……愚痴のつもりはなかったんだが」
 呟くようにそう言った夜中は、次の瞬間には気持ちを切り替えていたようだ。
「ああ、俺が『客』として要請する。翆の『人形』の修繕、よろしく頼むな」
「おうよ、任せな。伊達に『人形師』を名乗っちゃいねぇ」
 にんまりと生首が、口の端から血を垂れ流しながら笑う。
「だがその前に昼飯だ。腹ごしらえが済んだら一仕事と行こうじゃァねぇか」