亜鉛が欠伸をするのを見て、翆は、この鉛色の生き物は呼吸をするのだろうかと埒も無いことを考えた。そうして自分も欠伸をする。
亜鉛も自分も似たようなものだ、と、ちらりと皮肉な思考が彼女の脳裏をよぎった。
「水銀が少し減ってたな。頼むから、体液をあんまり無駄に流してくれるな、嬢ちゃん」
その様子を苦笑しながら見遣り、人形師が――正確には、美しいレースの裾を引き摺る美貌の「人形」と、それが抱えた生首の姿を模した「人形」だ。どちらが本体と呼ぶべきなのか、翆には判断がつきかねた――さらりと冷たい指先で翆の肌を撫ぜた。
少女は、生成り色のワンピースを脱がされて、下着だけで椅子に座らされている。膝の上には亜鉛がちょこんと居座っていた。
「泣いたり怪我をするのは最小限に留めてくれ、いいかい?嬢ちゃんの身体は、温度と体液が重要なんだ。体温の補充も大事だが、体液を失いすぎないこと。」
きびきびと告げてから、生首がにやりと笑った。瞼は縫い合わされて表情も無いのだが、代わりに、生首を抱えた女の方がぱちりとウィンクをして見せる。病的な青白い肌と、神経質なまでに繊細で豪奢なドレスに、その表情はあまりに不似合いで、余計に印象を強くした。
「泣くのもいけないの?ええと…」
そういえば彼の――或いは彼女の、名を聞いていなかった。翆は口をもごもごとさせ、上目遣いに「人形」の方を見る。どちらに視線を投げたものか考えて、結局、主に喋っている生首の方を見ることにした。
「あなたの名前、聞いてないわ。…ごめんなさい、もしかしたら、私が忘れているだけかもしれないけど」
記憶が無いことに不便を感じるのはこういう瞬間だ。夜中が大概のことは知っているし、第一、旅の生活では過去が無いことへの不安を感じることも少ないが、知っているはずの人にこうして名を聞くことの後ろめたさは、なかなか堪えるものがある。
「…何で私、記憶を失くしてしまったのかしら」
きっとすごく大切なことも忘れてしまったのだろう。翆の中にはそんな予感がどうしても拭えずにあって、それで思わずそう口にすると、目の前の「人形」はぱちりと瞬いた。女の方だ。口を開くのは相変わらず、生首の方だったが。
「俺の名ァなんてのは大したもんじゃねぇよ、『人形師』と呼べばそれで事足りる。夜中の奴もそう呼んでただろ?」
まずそう答えてから、生首は思案深げに間を置いた。翆が、手渡されたブラウスのボタンを二つ留めるくらいの間だ。
「嬢ちゃん、お前さん、ホントになンにも覚えちゃいねぇんだなぁ…」
言葉は、吐き出されるようだった。大きな溜息と似ている。翆はボタンを留める手を止めて、目を上げ、また目を伏せた。居た堪れない、胸の奥で罪悪感のような感情が疼いて。
「…嬢ちゃん、自分が『新月の魔女』だって事ァ、覚えているかい?」
問われた言葉に、ひとつ頷くと、「人形師」は今度は深い溜息をついた。女の人形が物憂げに緑柱石の色の目を閉じ、最初から目を閉じている生首は、深い場所から吐き出すような、低い声で、唸った。
「新月様の寵愛を受け、たった一人で『漆黒墓所』の魂たちを慰める。新月の魔女。伝説の中でしか生きていられない、嬢ちゃんはそういう存在だ…知ってるな?」
嗚呼。
翆は胸を突く罪悪感に歯を食い縛った。
死後の世で、独り、歌を歌い、死者を慰める。確かにそれが私の責務であったはずだ。黒い、暗い墓所の静けさを、言葉も意思もなくただ漂うばかりの死者の魂を、魂達の嘆く声を、覚えている。
――覚えている?否、翆ははっとして、目を見開いた。違う。思い出したのだ、今、この瞬間に!
「…そうだわ、何で、私、…『墓所』で新月様のために…歌っていたのに…?」
眩暈がする。翆は呼吸の詰まるような感覚に襲われて、倒れこむように椅子の上でうずくまった。歌声、暗く冷たい墓所の土と水の匂い、魂達の漂わせる悲しさ、虚無感、脳裏に一気に蘇る記憶が溢れて、魂どころか身体までも圧迫しそうな錯覚を覚える。
けれどもこの肉体は、仮の器。
――なら私の、『本当の身体』は何処?
くらりと眩暈がする。それ以上は、どれだけ記憶を辿ろうとしても、空を掴むように、手応えが無い。
「『人形師』、知っているのなら教えて。お願い。私はどうして…どうして此処に居るの?」
「人形師」は、苦い顔をした。それだけだ。欲しい答えを与えることはしなかった。出来なかったのだ。
「それは…夜中に訊くんだな、嬢ちゃん。奴が話せねぇってェのなら、俺から話す事なんて何もねぇ、それに」
女の「人形」の指先がすい、と、翆の頬を撫ぜた。そうされて初めて、翆は、自分が泣いていたことに気付いた。鈍い銀色の液体がぽたぽたと、膝の上、亜鉛の上に落ちる。それは水銀だった。体液として身体の中にある水銀が、涙の代わりに頬を伝って落ちる。
「ほら、泣くなと言ったのに」
「…ふかこうりょく、よ」
どこで覚えたのだったか忘れた言い回しで告げると、「人形師」はくすりと、力なく笑った。
「それに…何?」
「嬢ちゃんは答えをとっくに知ってるはずだぜ」
涙を拭いた翆は、眉を顰める。
「…私、何も覚えていないのに」
「覚えて無くったって、嬢ちゃんの『心』は夜中を覚えてるんだろう。…理由なんてそれで充分で、それ以上でも以下でもねぇと、俺は、そう思うんだがね。このお話は、あんたが思うほどには複雑じゃない。――単純なお話なんだよ、新月の魔女。」
そして、答えはそれで充分であったとでも言いたげに口を噤んでしまったので、翆もそれ以上、追求することが出来なかった。代わりに膝の上の亜鉛が気遣わしげにキィ、と鳴く。
「…大丈夫、だいじょうぶよ、亜鉛」
金属の蛇を撫でると、翆は目を伏せた。「人形師」の言葉の意味を考えてみたが、はっきりとは意味は解らない。しかし、解らないなりに、彼女は理解していた。恐らく今の言葉は、重要なことを伝えようとしていたはずだ。
「よく、解らないけど…覚えておきます、『人形師』」
目を上げて彼女が答えると、満足げに、女の人形が頷き、生首がにんまりと笑った。
「あなたは大事なことを伝えようとしてくれたのよね。それは解るから。覚えておきます」
「嬢ちゃんは頭がいいな」
形はガキだが、と付け加えてから、「人形師」は再び思案げに言葉を継いだ。
「…そうだな。記憶に留めるついでに、もう一つ。嬢ちゃんも夜中も頭が良い。それが仇になることだってあるんだ、覚えておきな」
「仇、に?」
「心が覚えていても、頭は覚えていない。…心が解っても、頭じゃ解らない。そういうこともあるってこった。お前らは二人して頭でっかちだからな。事態をややこしくしないことを祈ってるよ」
ふ、とその時、翆は、「人形師」の視線を感じたような気がした。目の前には生首と女の人形があるばかりで、生首は目を閉じているし、女の人形の表情はさして変わったようにも思えなかったのだが、優しげな、心配そうな視線を感じたのだ。
「…あなたは、誰なの?」
思わずそう問えば、「人形師」はぱっと立ち上がってふざけた一礼をして見せた。女の仕草が大仰で、芝居がかって見える。
「――月神の娘と、馬鹿な親友の幸せを祈ってる、ただの『人形師』さァ。それ以上でも以下でもねぇ」
そうして、「人形師」は小屋の戸へと歩み寄った。小屋のすぐ外では、退屈そうに腕組みしている夜中が樹に寄りかかって立っている。翆の服を脱がせる際に、「人形師」が追い出したのである。渋る夜中に、例え「人形」の身とはいえ、中に入っている魂は娘さんだ、と「人形師」は頑なに主張していた。
「おい、親友。お前の『依頼』、終わったぞ!」
ざらりとした声は案外、霧の中でも通りが良い。夜中はすぐに目を上げると、小屋の中を覗き込んだ。着替えを終えた翆を見て、「人形師」へと目線を戻す。
「余計なこと、吹き込んでないだろうな」
「いんや。人生の先達として助言を少々ってとこだな、なぁ嬢ちゃん」
同意を求められた翆は思わずくすりと笑ってしまった。夜中が怪訝そうな、不審そうな顔をしたからだ。胡散臭そうに「人形師」を睨む彼は、なんだかとても面白かったので、翆は「人形師」の仕掛けた悪戯に便乗することにした。
「うん、それだけよ?」
「…翆、お前な…」
面白がっている気持ちが口調にも出てしまったようだ。夜中の目線が少し鋭さを帯びて、「人形師」と翆とを交互に見たが、彼の視線に慣れている二人は揃って目を逸らす。
「亜鉛?」
夜中はそれで、翆に預けていた自らの相棒の名を呼んでみたが、何を思ったか鉛色の蛇までもが、少女に同調するように首をふい、と背けてしまったので、とうとう諦めて呻いた。
「勝手にしろよ、全く」
がりがりと頭をかいて、彼はすぐに気を取り直して「人形師」へ向き直る。冗談に付き合っていられるほど、彼には余裕はなかった。一刻も早くこの森を立ち去りたい気持ちでいっぱいだったのだ。
「…とにかく、修繕が終わったのなら、俺は行くからな。翆…」
「ああ、ちょい待て、夜中」
翆を呼び寄せ、今にも旅立ちそうな友人の背に「人形師」が声をかける。面倒そうに振り返った夜中に向けて、「人形師」はこう告げた。
「水銀が無いんだ。嬢ちゃんの身体への補充で全部使っちまって、お前に渡す予定だった予備の分がねぇ。町まで取りに戻らなきゃならん」
夜中が眉根をぐっと寄せて険しい顔をする。が、構った様子も無い、「人形師」は暢気に続けた。
「悪いんだが、お前、取りに戻っちゃアくれねェか?」
「俺が?冗談じゃない」
「予備が無いと困ンだろ?嬢ちゃんは泣き虫さんだぞ、体液足りなくなったらどうすんだよ」
「俺は、町への出入りは禁止されてる。お前が取りに戻れよ、俺はここで待ってる」
夜中は取り付く島も無くそう答え、椅子に腰を下ろす。梃子でも動かない、という様子に、「人形師」は苦笑した。
「そうは言うがなァ、夜中。元はと言えば、嬢ちゃんの『人形』に余計な傷を負わせたのはてめーだろ?予備の水銀が無くなったのはお前の責任じゃねェか、責任取れよ」
「あ、あの、それは」
翆は思わず口を挟み、二人から同時に見つめられて、矢張り口を開くのではなかったかと少しばかり後悔したものの、どうやら夜中が町へ戻ることを本当に嫌悪しているらしいことを彼女は察していたので、尻込みしつつも、言葉を続けた。
「怪我をしたのは私の不注意よ、夜中のせいじゃないわ」
しかし「人形師」は頑として彼女の言葉を受け入れない。
「いーや、夜中の責だ。そもそもだなァ、元より夜中が余計なことしなけりゃア…」
「俺の罪は俺のものだ、そんなことは解ってる。今更言われなくても」
唐突に、夜中の声が、嫌悪よりも硬質なものを纏った。荒々しくさえ思える調子で「人形師」の言い募るのを遮り、眉根をぐっと寄せた不機嫌な表情で踵を返す。
「亜鉛、来い」
ただひとつ、旅の連れの名を口にして手を伸ばすと、逆らうのが賢明ではないと感じたのか。金属の蛇は微かに高い音を奏で――恐らく返事をしたのだろう――小鳥に姿を変えると、金属の重さを感じさせずにふわりと羽ばたき、彼の伸ばした腕に止まった。
「夜中?」
「水銀を取って来る。お前の家なら覚えているし、抜け道を使うから人目につく心配もないだろうさ」
舌打ちをする間を置いて、彼は小屋の扉の前で付け加えた。
「…あの老人連中に見つかるような愚は冒さない。俺はそれほど馬鹿じゃないし、とち狂ってもいないつもりだ」
その瞬間の彼の表情を、二人が見る機会は永遠に失われた。荒々しい音をたてて夜中が扉を閉じ、森の中を歩き去っていく。窓からそれを見送った翆は戸惑いながら「人形師」を見遣った。
「夜中を止めた方がいいんじゃ…」
「人形師」は、硬質な瞳にも、そしてがらがらにしわがれた声にさえ感情を滲ませず、淡々と応じた。
「――放っておけ。だからあいつは馬鹿だと、俺は言うンだ」
何故だか酷い痛みを感じて、翆は椅子にぺたりと座り込んだ。失くした記憶を探ろうとする時のように、目の前が暗くなるような感覚がある。
「人形師」は何かに憤っている風だった。ざらざらとした声音は激しさを帯び、暗転しそうな視界の中で聞いていると、人のものではないように聞こえて来る。
まるで人では無いものが、無理に人の言葉を繰っているように。