売り言葉に買い言葉だったか、己の感情に流されたことに少々どころでない後悔を覚えて夜中は軽い自己嫌悪に陥っていた。
 町へ入ること自体は容易い。別に、門番の目をかいくぐる方法など、幾通りでも知っているのだ。
 それでも町へ来なかったのは、無論、かつて放逐された身であることを彼自身が自らにきつく戒めていたこともあるのだが、もう一つは、
(ああ、変わっていない)
 たかだか五年だ。そうそう、町並みなど変わるところなどあるはずもない。
 目に慣れたこの郷里の風景は、けれどもかつて、彼が切り捨てていったものだ。
 ――どんなに懐かしくとも、これは全て、彼が切り捨てたものの断片に過ぎない。
 郷愁と同時に湧き上がる、思い知らされるのは、郷里を彼が捨てることを決定付けた、己の罪への想いだ。
 後悔ではない。だが、胸が塞ぐのは、確かだった。郷里の光景は何よりも、彼に罪を突きつけて見せる。
 蔦の巻きついた古い壁、赤茶のレンガが多く使われた町並みは、森の最奥であることを住人にすら感じさせない。材木を使った商店が並んでいるこの場所は、東西南北の門に通じる町の目抜き通りだ。
 人目に付かぬように咄嗟に裏路地に入った夜中はその様子を見遣り、表からはまずいな、と胸中に独りごちた。裏路地を通って人目を避けながら、「人形師」の住まう小さな家まで向かうしかあるまい。
 五年間も掘り起こしてこなかった、埃を被っている自身の記憶を思い起こしながら彼が歩み始めて暫し、「人形師」の住まう小さな家――この町のどこにでもある、赤茶のレンガの、ろくに手入れもされていない汚れた住いだ――を目前にして、夜中は慌てて路地の一角に身を隠した。人の気配を感じたのだ。
 僅かにではあるが、威勢の良い声も聞こえている。
 恐らく子供だろう、判じて彼は迷った。幼い子供であれば、夜中の犯した罪を知らぬ子である可能性も高い。堂々としていればばれないのでは――?
 だが躊躇の隙は結局の所、彼には与えられなかった。キィキィキィ、と、先程から耳障りな金属音がしている、と夜中は思っていたのだが、唐突に、彼の腕に小さな痛みが走る。見遣れば、精緻な細工の腕輪――の姿をした亜鉛が、彼の許可もなく蠢いていた。鋭い牙を持つ蛇の姿へ転じようとしている。
(何だ?)
 常ならば感情と言うものをおよそ見せぬ亜鉛の、ただならぬ様子に夜中は眉を顰め、そして気付く。
 キィキィキィ。
 先程から子供の囃す声と共に聞こえて来るこの音は、
(――金属生命種…!亜鉛のご同類か!)
「おい、もっと火を近づけろよ。」
「うわぁ、すっげぇ動いてるぜ!暴れてる!」
「ちゃんと縛ったのかよ?こないだみたいに逃げられちゃつまんないぞ」
 キィキィキィ。
 耳障りな甲高い音は、子供に玩具にされた金属生命の、悲鳴であったのだ。
 子供達が手に手に火をつけた松明のようなものを、地面に落ちた銀の物体に押し付けているのを見たところで、とうとう夜中は腕の上で暴れる亜鉛を押さえつけるのを止めた。
「…俺もつくづく面倒な性質だな」
 ひとつ呻く。亜鉛は翼の生えた蛇に擬態して飛び出し、子供の一人の脳天に噛み付いた。
「うわぁ!?な、何だよ!」
「こ、コイツ――」
 子供達が唐突に現れた亜鉛に後ずさり、手にしていた炎――紙束に火をつけた簡素な松明のようなものを亜鉛に投げ付ける。鉛色の、この時は翼の生えた蛇の姿をした生き物は、炎をまともに浴びて地面に落ちた。ギィィィ、と、けれども亜鉛は低い威嚇音をあげる。目があれば子供達をまともに睨みつけていた所だろう。
 一瞬、戸惑った風に身体の一部をもたげた銀の塊は、空を飛ぶ姿に転じるだけの余裕もなく子供の輪を這い出そうとする。その銀の物体の一部を、慌てた風に子供の一人が踏みつけた。
「何だ、お仲間かよ。くそ、ニンゲン様の頭に噛み付くなんて、お前みてぇな『穢れた生き物』の分際で――」
 激昂したのだろうか。一際体格の良い子供が亜鉛を怒りに任せて踏みにじろうと足を上げる――夜中はふぅ、と息を吐いて、その子の背中を蹴り飛ばした。亜鉛は大事な旅の連れだ、怪我でもされては困る。
 一応、加減はしたつもりだったのだが、片足をあげた不安定な格好だったことは不運だったとしか言いようが無い。体格の良い子供は均衡を崩して倒れこみ、頭を庇う間もなく固い石畳に激突した。硬いモノ同士が衝突しあう独特の鈍い音がして、残った二人の子供が怯む。
「おい」
 夜中は、そんな子供達には一瞥すらもくれなかった。地面をのたうちまわる鉛色の、元は蛇だった塊と、もうひとつ銀色の塊を拾い上げ、
「亜鉛。あのくらいの火な、避けろ。」
 子供の手遊びだろうが。
 苛立たしげにそんな文句をつけて、銀の塊の方を撫でる。
「大丈夫か?」
 怯えたように一度小さく縮こまった銀の塊は、夜中の気遣わしげな視線を感じたのだろうか。するりと音もなく、蜥蜴の姿に転じて見せた。ちろりと一度銀色の舌を出して、大丈夫、と主張すると、それこそ音もなくするすると夜中の手から抜け出し、去っていく。
「な、何だよてめぇ」
 身を竦めていた子供の一人が、なけなしの威勢を集めてだろう。腰は引けていたが、地面に激突した仲間を助け起こしながら、夜中を睨みつけて問うた。
 面倒臭いなと夜中は思い、答えもせず、けれどどうしてもひとつ言っておきたかったので、
「…あんまりこいつらを苛めるな。死者の魂からしっぺ返しを食らうぞ。」
「ふんだ!『ししゃのたましい』なんて大人の作った嘘っぱちだろ!!こいつら苛めたって、俺達、なんにも悪いことなかったもんな!」
 そうだそうだ、と二人は頷きあう。鼻の頭を抑えた少年もぎらぎらと憎悪の滾る目で夜中を睨みながら頷いた。
「大体、こいつら『穢れた生き物』なんだろ。それを焼いて浄化してやろうってんだぜ。俺達、イイコトしてるんじゃねぇの?」
 少年はあざ笑うように、そう言った。
 確かに彼らは、死後の世界、「漆黒墓所」に繋がりが深い、と言われている。あくまでそれは迷信であり、神話のようなものとして伝えられるのみだが、それを理由に金属生命の彼らを「死の象徴」と忌み嫌う人は多い。
 恐らく少年の二親のどちらかが、或いは双方が、そうした迷信を口にすることがあったのだろう。子供達は、それを都合よく解釈して、自分達の暴力を振るう理由にしたのに違いなかった。
(さてどうしたもんか)
 あまり深く係わり合いになりたくもない。説教してやる義理もない。そんなことは彼らの親、もしくは(この町には、『店主』の力を発現し、親元から離されて暮らす子供も多いので)親代わりたる師匠のすべきことである。そう、思うのだが。
 一方で、亜鉛を五年間、旅の友にしてきた夜中は、このまま放置は出来ないという衝動にも駆られていた。友人を悪く言われればいくら面倒臭がりの彼でも腹は立つ。
「…穢れた、なんて、仮にも『店主』になろうって奴が言うものじゃない。アレは、死後の世に繋がりの深い生き物だ――つまり、死後の世を管理してる、新月の月神とも繋がりが深いんだぞ。」
 新月の、という単語に、子供のうち二人がびくりと身を竦ませた。互いに顔を見合わせる。
 ――この町の、否、『店主』と呼ばれる全ての人種は、新月の月神を格別に信仰している。子供達の頭にも、それが最も敬うべき、そして身近な神様だ、という認識はあったものらしい。
 だが、もう一人――夜中に蹴倒された、体格のいい少年だけが、その言葉に口元を引き攣らせて笑った。
「そんな訳あるかよ。だったら何でこいつらが踏みつけられて怪我して泣いてる時に、新月様は来ねぇんだよ。ホントに新月様が居るんなら、俺達の『力』なんて奪って、バチでも何でも与えりゃいいじゃねぇか。俺が焼いて、ギャアギャア耳障りな声で鳴いて、とうとうくたばった奴だって居たんだぜ?何で新月様は助けてやらねぇのさ、ああ!?」
 夜中は急に深い徒労感に襲われた。思わず深い溜息をついて、唾を飛ばしてまくし立てる子供を睨みやる。
 刃の色の瞳はそれでなくとも鋭いのに、険を帯びるとますます強い視線になり、まくし立てていた子さえもただならぬ気配を察したか、口を噤んだ。
「…お前がそれでいいと思ってるなら、それで人に羞じぬ『店主』になれるって思ってんのなら…勝手にしろよ。」
 だが淡々と、感情を見せぬ夜中の口調は、静かにその場に落ちただけだ。
 再び子供が声を荒げようとした所へ、不意に、すぐ傍の小さな家屋の裏口が開いた。台所に直結した勝手口だろう、生ゴミを抱えた女性が一人、ちらりと子供達を見、
「お前達、また悪さしてたんじゃないでしょうね。そろそろ夕飯だからさっさと帰って――」
 拙い、と夜中が後ずさったのと、女性が言葉を呑んで夜中をまじまじと見たのとが同時、そして夜中が踵を返したのと、女性が金切り声を上げたのがまた同時だ。

「お前、『魔女殺し』…!!!」

 忌まわしい単語にざわりと首筋の産毛が逆立つが、怒りを腹の底へ仕舞いこんで夜中は亜鉛を引っ掴んで走った。その背中に、女の金切り声は、突き刺さるようだった。
「この恥知らずめが、どの面下げて町へ戻ってきたッ!!…出て行け!なんて忌まわしい…!」
 言いながら子供達の腕を無理やり引っ張り寄せる。
「お前達、あの男に何かされなかっただろうね」
「何かって言うか…」
 少年の一人は思わず口ごもったが――幾ら『穢れたもの』と教え込まれたとはいえ、生き物を虐待していたのだから罪悪感が無いでもなかったのだ――、蹴倒された一人は唾を飛ばしながら勢いづいて、
「蹴り飛ばされたぜ。訳のわかんねぇこと言ってた。何なんだよ、あの男」
「ああ、厭だ。お前達、身体を清めておいで。…あれは『魔女殺し』だよ。新月様の恩を仇で返そうって言う穢れた罪人だ…」
 子供達に手を上げるなんて、と、女性は喚いて、子供達を勝手口から家へと放り込み、自分は慌てた様子でエプロンを外し、夕餉の支度もそこそこに家を出た。町の上層、長老達にこの事実を伝えようと思ったのだ。

 かくして、罪人である夜中の帰還は、町中全ての知る所となった。
 



 町中の扉と言う扉が閉じられ、人々が緊張した様子で路地裏を窺っている。
 懐に収めたままの拳銃を意識しながら、夜中は舌打ちした。町中でこの武器を使う羽目には陥りたくなかったし、それ以上に、「人形師」にはあれだけの啖呵を切って町へ入ったのに、己の様が情けなくもあった。
「あ、居たぞ!」
 あれやこれやと思案している間にも、彼の隠れた軒先に数名の人の足音が近づいてくる。恐らくは、「店主」の誰かが外法の力で彼を探しだしているのではないかと、夜中はそんな気がしていた。逃げても隠れても、恐ろしいくらいに直ぐに見つかってしまうのだ。
 追ってくる他の「店主」から逃げる為に、塀を乗り越える。
 ――彼等に捕まれば、恐らく、自分は二度と、町の外へは出られまい。夜中はそれを確信していた。自分はこの町の人間から見れば、許し難い大罪を犯した罪人である。まして、一度は「町からの放逐」という、この町の全てを取り仕切る老「店主」達からすれば、寛大ともいえる処置を受けていながら、未だ彼は罪を犯し続けているのだ。
 処断されるか、死ぬまで幽閉されるか。
 いずれにしても、二度目の処分に、「寛大さ」など求めることは不可能だろう。
 そして何よりも――彼は己の犯している罪を、今更、止める事など考えもしない。それは、己の全てを否定してしまうのに等しい。
「全く。恨むぞ、『人形師』…」
 小さく呻いたが、実際の所、彼の安い挑発に乗ってしまった自分が原因だ、と夜中は理解していたから、それ以上は愚痴も零さずに路地裏を駆けた。背後を追うようにして、人の怒号と――僅かに聞こえた重い金属音は、どうやら、銃器を用意している者が居るのだろうか。
 後ろを振り返って判断する間も無く、夜中の走った後方の石畳が、重たい音をたてて弾けた。ちらと横目にそれを見て、夜中は舌打ちする。
(最悪の場合は、俺を殺してでも止める事を考えてやがるな。)
「今度は当てるぞ、『郵便屋』!」
 鋭い警告にはご丁寧にどうも、と胸中だけで吐き捨てて、夜中は地面を蹴り付けた。背の高い生垣を跳び超え、落下の最中に亜鉛が絡みついた左腕を振る。鉛色の塊は、彼の意思を察して大きな鳥の姿に転じると、その場で大きく羽ばたいた。夜中は自らの身体を大きく揺らし、振り子の要領で、宙に浮いた亜鉛から飛びあがり、平屋の屋根へと降り立つ。
 亜鉛はそのまま夜中の頭上を飛び、銃弾の一発を、翼で打ち据えて落とした。
「助かる、亜鉛」
 キィ、と小さく応じる声。夜中は僅かに口元を緩める。
 彼には、金属の友の言葉を解することが出来た。
「さぁな。無事に逃げ切れるかどうか…俺にも分らないよ」
 だが、切り抜けねばならない。彼は言葉と同時に腹を決めると、傾斜の大きな屋根の上を器用に走り出した。どうせ何処を走っても見つかるのだから、目立つことなど構ってはいられない。
 実際、形振り構わぬ夜中の逃走も、数棟の建物の屋根を移動した所で追いつかれた。再び銃声が響き、今度は亜鉛にも防ぎきれず、一発の銃弾が夜中の肩を掠める。
「夜中ッ!」
 更に、追跡者の側に加わった、耳慣れた声に夜中は肩の痛みだけでなく、顔を顰めた。
 ざらりと耳障りなしわがれ声と、ちらりと横目に見えた真っ赤な、炎を背負ったような赤毛。男とも女とも判らない人物が、声を荒げていた。
 金糸雀。
 鶺鴒の双子の片割れだ。夜中は苦々しく、追跡者の名を胸中に唱えた。
「…お前…何だって戻ってきた!」
「知るか!」
 夜中はそう返して、屋根を蹴った。亜鉛の助力を得て再び地上へと着地し、丁度、かなり丈の高い木々の生えた庭園であったので、その中に紛れ込むようにして走る。声がその背中を追ってくる。誰の声かは分らなかったが、非難するような口調が、耳に付いた。
「何故、『魔女』を『墓所』へ返さなかった、夜中!?魔女が『墓所』の死者達を慰め、死後の世に留めているんだぞ!彼女が居なかったらどうなるか…」
 ただその言葉にだけは、夜中は振り返り、投げ付けずにはいられなかった。低く、低く、己を追う銃弾をさえ睨み、彼は獣のように吼えた。呼吸を求めて痛む肺など、知ったことか。

「あれが、あの小娘が、そんなに慈悲深い生き物に見えるのか、お前らは…っ!!!」

 あれは。
 あの美しい声の魔女は。
 彼は、胸に突如として湧き上がる衝動に、拳を、血が滲むほどに握り締めた。背後に叫ぶ余裕は無い。だが、気狂いのように、幼子のように、癇癪でも起こして喚きたくなった。誰でもいい、誰も聴いていなくていい。けれども、とにかく叫びたかった。

 「新月の魔女」は、死者を慰撫し、死後の世に留める、いわば「楔」の役割を負った娘。慈悲深い、墓所の歌姫。

 ――否。そんな訳は無い。あれがそんなに美しい生き物の訳が無い。

(どうしてそれが分らないんだ!)
 幼い日。そう叫んで泣いた自らを否応無しに思い起こし、夜中は困惑と怒りと、過去を思い起こした混乱とで、目の前が暗くなった。酸素不足かもしれない。木の陰に入り込み、大きく息をつく。群青色の髪をぐしゃりと乱し、彼は歯を食い縛って地面を睨んだ。
 腐る落ち葉の匂いの中で、自らの血の匂いを感じ取って顔を顰める。撃たれた肩に触れると、湿った感触が、痛みよりも先に彼に怪我の具合を伝えた。
 走り続けて昂ぶっていたせいだろうか。痛みはそれほど感じていなかったのだが、傷口は深い。血を拭うと、皮膚を抉った銃弾は、薄紅色の肉までも露にしていた。
(骨をやられなかっただけ、まだ良かったな)
 溜息をついて、夜中は懐を探った。普段着込んでいる外套にはポケットの内側に簡単な応急処置の道具くらい用意しているのだが、折悪く、彼はこの時、ほとんど持ち物が無かった。
 仕方なく、長袖の袖口を裂いて、肩を縛る。
 止血をしながら辺りを見回すと、自然と自嘲の笑みが漏れた。背の高い木々が鬱蒼と茂るこの場所は、町の中央、町の全てを取り仕切り、学校代わりとしても利用される一件の屋敷の裏庭部分だった。
 ――この世で最初に、新月の月神より許しを得て、「外法遣い」となった伝説上の人物の、屋敷であるとも伝えられている。何にせよ、町で最も重要な建物であることに違いは無い。
(老『店主』どもには見つからないと豪語しておいて、この様か)
 ふ、と息を吐き出し、夜中はその場に崩れた。
 脳が酸素不足を訴えて、目の前の光景が歪む。一瞬、怒りに満ちた己の声を聞いた気がした。この町の光景は、否応無しに、彼に過去を突きつける。

 こんな世界、滅んでしまえ。皆、皆、死んでしまえばいい!

 言葉は、落ち葉の中に染み透って、多分、今の今まで落ち葉の中、中途半端に腐りながらも腐りきれずに埋もれていたのに違いない、夜中は一人、可笑しさに耐え切れずに引き攣れた声を漏らした。くぐもった声に気付いたか、まさか、先程の呪詛を聞いた訳でもあるまい、僅かばかりの足音が近づいて来る。
「そこに誰か居るのか!」
 誰何に答える謂れは無い。夜中は立ち上がり、無造作に、拳銃を掴んだ。
 依頼でもなく、まして相手は魔物ではない、郷里の人間だ、それを傷つけるのは少なくとも心躍る事態ではないのは確かだったが。
 背に腹は変えられるまい。
「恨むな」
 低く、祈るように囁いて、夜中は引鉄を引く。
 銃弾は彼の狙い通り、町中の空気を震わせるような悲鳴をあげながら、追っ手の一人の腕を撃ち抜いた。悲鳴があがり、それ以上の怒号にかき消される。
 毒づきたいのは山々だったのだが、生憎とそんな余裕も無く、夜中は撃鉄を起こした。だが、次弾を放とうとした時、悪寒を感じてその場を飛びずさる。疲労が反応を鈍らせたのだろうか、回避は一瞬、遅かった。
 空を切る、鋭い音。
 回避しきれないことを悟った夜中の判断に迷いは無かった。自らの死角から投げ込まれた短剣を察し、彼は真っ直ぐに叫んで左腕を出来うる限りの全力で振るった。
「亜鉛!行けっ!」
 振り飛ばされ、鉛色の固まりは抗議をするように宙で回転して小さな鷹の姿に転じる。その時には既に、夜中の腿に深々と短剣は突き刺さっていた。追っ手が迫る声がしている。
 夜中が苛立たしげに、更に叫ぶ。
「頼むから――速く行け!俺に何があっても、翆を護れ!」
 旧友の叫びを、懇願を、亜鉛がどう捉えたのかは、金属生命種の言葉を解する夜中以外には知りようもない。ただ一度、キン、とよく通る甲高い音をたてて、鉛色の鷹は一直線に飛び去った。
「…どうする、逃げたようだが」
「捨て置け。罪人を捕らえるのが先だ」
 追っ手の声を遠くに聞きながら、夜中は膝をつきながら目を閉じる。腿の鋭い痛みは焼け付くような不快感を伴っていた。刃に毒でも塗られているのに違いない。事実、早くも彼は酷い眩暈を覚え始めていた。吐き気までする。
 今日の昼は何を食ったんだったっけ。
 確か翆が喜んでいたから、彼女の好物だったんだろうが。――そんなことを思いながら、夜中が胃の中身を胃酸と一緒に道に撒き散らした直後、彼の意識はぷつりと、途絶えた。
「…馬鹿な、ことを」
 落ちる寸前の暗闇の中、耳に慣れた、ざらつく声を聞いた気がした。