宿の出入り口の門扉に黒い鴉の羽を三枚かけると、女は静かに祈りを捧げた。口の中で呟く歌は嘗て母に教わった古い呪い歌で、そんなものにすら縋りたいほど、彼女は追い詰められていたのである。戯れの呪い歌。それを、必死の形相で呟き続ける。
「…さざめく梢に刻まれた、月の欠片が聞こえたら、届ける物を届ける為に、どうかこの場所へ来ておくれ。静かな海の魚の吐息を、死に行く鳥の羽ばたきを、どうかどうか、届けて…」
 早朝だ。人通りも無い。深い霧に覆われて、三歩先すら見えぬようなミルク色の空気に吐息で渦を描きながら、彼女は組んだ指先を振るわせた。白くなるほど強く握り合わせた両の手が、やがて諦めを含んでゆっくりと解かれる。
「……駄目、か…。」
 俯き肩を落とした彼女は、宿の扉を開いて室内へ戻ろうと振り返る。その背中に向けて、全く唐突にその声はかけられた。――それまで足音も気配すら、無かったというのに。
「なぁ、あんた、ここの人?」
「夜中!ちょっと、まだ駄目だって…」
 低い声に被さるようにして、囁くような声もする。驚いて振り返った女の、霧に隠れる視界に、背の高い人影と背の低い人影の二つが見えた。
 恐らくは背の高い方だろう。低い声が、文句を言い続けている声を無視して、更に言う。
「よくもまぁそんな古い歌、覚えてるヤツが居たもんだ。…けど、呪いに使うなら鴉の羽は尾羽じゃないと駄目だぞ。これじゃ招きの呪いは成立しない。」
「え…?」
 聞いてるの、夜中――まだ傍らの少女は言い募っているが、彼は完全無視を決め込んだ物らしい。すたすたと女に歩み寄り、そうして手の中のきらりと光る欠片を見せた。女が門扉に用意していた月鉱石だ。呪いに使った物だった。
 呪いの失敗を見破られて、恥ずかしいやら虚しいやらで俯く彼女に、青年はその三歩先で無表情に肩を竦めて見せる。
「…とはいえ今時、月鉱石まで準備して、そんな古い召集かけるヤツも珍しいからな。…応えてやるよ。」
 言葉の意味を捉えかね、顔を上げた女に、青年――そう、青年だった――は微笑みもせずに続けた。
「あんたの招きに応じてやる、と言ってるんだ。俺は『店主』の夜中。」
 店主。その単語に、女の顔が一息に輝く。まだ若いのに疲れたようなその青白い顔に、今にも泣き出しそうなほどの希望を浮かべ、彼女は青年の手を取った。
「あの、有難う御座います…!私は雲雀(ひばり)と申します。店主様に来て頂けるなんて、こんなに心強いことはありません…!」
「あ、ああ。」
 いささか大仰なその歓待ぶりに意表を突かれてか、曖昧に同意した青年―夜中は、「その代わり」と静かな声を取り戻し、平板な声で問うた。
「…報酬を他にも要求してもいいか?」
 さ、っと顔色を暗くした女を余所に、彼は自分の後方を見遣る。先程から続いていた文句の声、その声の主に向けて、
「おい翆(かわせみ)、いい加減に落ち着け。こっちに来い。」
 声の主――小さな人影はその言葉に、不承不承といった感じで歩み寄る。夜中の後ろにぴたりとくっ付き、ほとんど女には見えないくらいに身体を隠して、顔だけを覗かせ、こくん、と小さく礼をしたらしかった。12,3歳くらいに見えたが、小柄な体躯は、頭からすっぽりと青年の物らしい男物の大きなコートに覆われているので良く見えない。
「…かわせみ、です。えっと…」
 夜中はその少女の頭を後ろ手にぐしゃ、と撫でてやりながら、矢張り無表情に告げた。
「…コイツにちょうど、合うような服が欲しいんだ。…頼めるかな。」
 
 
 *********


 
 その宿ではここ最近、不可思議な出来事が連続して起こっていた。客から幾つも苦情が上がるようになって、宿の主の新婚夫婦は頭を悩ませていた。
 いわく、夜、眠っていると、身体を何者かが押さえつけている。
 いわく、夜ふと起きると、壁際に見知らぬ子供がうずくまっている。声をかけると奇声をあげて消えてしまう。
 いわく、二階の窓の外から、誰かが窓を叩くので眠れない。
 いわく、壁の向こうから得体の知れないうめき声が聞こえてくる…。
 数え上げればきりが無いところだが、大体のところは要約するとそんな感じの苦情である。
 宿に魔物が居るんじゃないかと旅の商人は疑い、いやいや、呪われているんじゃなかろうかとジプシーの老女は言った。
 そうして終には、この宿に泊まった客の一人が行方知れずになってしまった。雨に足止めされた商人の一人が、朝になると部屋から消えていたのである。荷物も何もかも残されたままで。
 この事件は噂となり、翌日には宿からは客の姿が消えた。無理からぬことだったし、客にこれ以上何事かあっては困るので、宿の主人もその妻である雲雀も何も言えなかった。
 ―――そうして、現在に至り、宿はほぼ開店休業の状態になってしまっている。
「…街の噂が広がってしまっていますから仕方が無いのです。それは重々承知の上で。でも、私も夫も、代々ずっとここで宿商売をしてきたんです。…それに、」
「ここいらは雨季が長いからな。――宿は旅をする人間にはどうやったって必要不可欠、ってことか。」
 雲雀の言葉を受けて繋いだ夜中に、雲雀は深く頷いた。ここは街道沿いの街なのだが、隣の街へ向かうには、大きな川にかけられた橋を渡る必要がある。ところがこの辺りは雨が多い。増水した川の上を渡るのは危険なので、自然、多くの旅人が雨の間この街で足を止める。宿は、どうしても必要な施設なのだ。
「ええ、その通りです。だから、この事態をどうにかして頂きたくて。…お願いします。こんな古い呪い歌に縋るより他に、私には思いつく手立てが無かったんです。無理なお願いだと承知していますが…。」
 頭を下げる雲雀に夜中が微かに渋面を作ったのを、横に座っていた翆は見逃さなかった。不安げな彼女を夜中は手で制し、ゆっくりと口を開く。すん、と少し鼻を鳴らして、
「この宿、最近、建て替えたのか?」
「え?」
 言われて雲雀は慌てたように自分も匂いを嗅いだようだった。鼻で何度か呼吸して、首を傾げる。
「はい、確かに…その、建物を少しだけ増築したのです。隣の空き地を利用しても良いことになったので…でも、どうして?」
 その問い掛けには答えることなく、夜中はもう一度渋い顔をした。傍らの翆を見遣り、自分を見上げる不安げな瞳を見返す。夜中の目はあまりにも静かで、いつものことではあるのだが、刃の色の瞳にははっきりした感情は伺えない。
「…夜中」
 不安に押されるように翆はそっと口を開いた。夜中の服の裾を引いて、
「…引き受けてあげようよ。居なくなっちゃったっていうひと、探してあげよう…?」
 その言葉に今度こそ夜中は目を眇めて、不機嫌を露にした。険を帯びた目は、ナイフのようで威圧感がある。その目にじ、っと見られる格好になって、翆は居心地悪く身動ぎをした。正しいことを言ったのは自分だと思うので不当な扱いだとは思うのだが、こうして睨まれるとそんなこと言えなくなってしまう。
 夜中が傍らを睨みやったのは一秒にも満たない一瞬だった。ふぅ、と息をついて彼は依頼人である雲雀へと視線を戻す。このときにはもう、刃の色の瞳には淡々とした色しか浮かんでは居なかった。
「分かった。引き受ける。――ところで、妙なこと訊いて悪いが、」
「はい?」
「あんた、妊娠してるだろう」
 その言葉に雲雀は驚いて目を丸くした。
 確かに雲雀はつい先日、医師から妊娠を告げられたばかりだ。だが、彼女自身の体質なのか、妊娠から三ヶ月を数える現在でもあまりお腹は目立たない。悪阻も実に軽いので、雲雀はしごく普通に日常生活を送っていた。傍目にはそうと気付く要素は無いはずだ。
 夜中はしかし、彼女の疑問の視線には何も答えず、ただこう告げた。
「俺の部屋は極力、あんたたちの私室からは離してくれ。それとこの小さいの――」
 言って、彼は傍らの翠の髪の美少女を無造作に顎で指した。
「――コイツには出来うる限り近付かないように。」
「あの、どうして…?」
 何度目かの問いかけに、矢張り夜中は答える素振りすら見せない。『店主』などという人種を見るのも初めての雲雀は、こういうものなんだろうか、と眉を顰めた――が、代わりに細い、幾重にも重ねた鈴を振るような綺麗な声が彼女に答えた。
 小さいの、と指された翆だった。
「赤ちゃんが居るなら、そうしてあげてください。」
 笑みはどこか憂いを含んで、寂しげにも見える。幼い顔立ちに不似合いなその表情が、否応無しに雲雀の目を惹いた。
「わたしが近くに居たら、その子、死んでしまうかもしれない。」
「…?」
「わたしは死後の領域に、近過ぎる。」
 不吉な言葉をぽつりと落として、翆は静かに席を立った。「夜中、わたし、お外で待っているね。」と子供のように幼い口調で、寂しげに言う。
 夜中はああ、そう、と気の無い返事をしただけだ。怪訝に眉を寄せる雲雀など置き去りにして、彼は更にこう付け加えた。
「翆の言うとおりだ。その子に無事に生まれて欲しければ、翆に近付かないのが賢明だね。」
 何故、と問いかけようとして、部屋を出て行く翆と目が合う。
 青空色の瞳を少しだけ伏せた少女の表情は、先ほど同様に憂いと寂しさを含んで酷く危ういもののように見えた。目を合わせた瞬間に、彼女は雲雀に向かって静かに首を振った。
 聞かないでね。
 そう言われた気がして、雲雀はその問いを、結局飲み込んでしまった。



 客間を後にした翆は廊下をしばらく歩いて、開かれた窓に歩み寄った。窓の外には深い霧が広がっている。
 雲雀が夜中の頼みに応じて翆に着せてくれた服は、この辺りの民族衣装だ。薄手のワンピースに大きな一枚布を巻きつけたもので、昨日まではフリルとリボンとレースをあしらった衣装を着ていた彼女には少し、不慣れなものだった。ひらひら、結び目の部分を弄いながら、窓の外を眺める。
 濃霧はどろりと窓の外を澱んで、雨音が聞こえ始めている。
「ああ、今日も雨なんだね」
 後ろから不意に声をかけられて、ぎょっと翆は目を上げた。足音が、しなかった。振り返ると、そこには人の好さそうな青年が立って居る。
 栗色の目に柔らかな笑みを浮かべて、彼は翆に微笑みかけた。
「こんにちは、見ない顔だけど、今日来たのかな。」
 翆は僅かに身を引いた。
「……こんにちは…」
 言いながら、表情には警戒心がありありと表れている。青年はその様子に苦笑した。
「驚かせたかな。ごめんね。…僕は、掛香(かけごう)。もう一週間も前からここでお世話になってるんだ。」
 名前を名乗られれば名乗り返さないのは礼儀に欠けた行為だ、と、翆は少なくともこの数日で夜中に躾けられている。彼女は服の合わせ目を乱さない程度に礼をして名乗った。それでも表情は硬い。
「翆です。…今日から、此処にお世話に、」
 そこまで言い掛けて翆は口を閉ざしてしまった。それからくるりと踵を返す。背中の小鳥の羽が微かに震えていた。
「ごめんなさい…!」
 言い残して走り去る。長い布の裾と髪の毛がひらりと舞った。
 取り残された青年――掛香は苦笑いを口に乗せる。
 まだ幼い少女だったが、旅の最中だというのなら見知らぬ大人への警戒は当然のことだろう。それにしても彼女の警戒は過剰であるようにも思えたが、掛香はよく躾けられているのだろうと納得した。あの年頃の少女が一人旅をしているとは思い難いから、恐らくは旅の連れが居るに違いない。
 先日から宿の客は次々に引き払ってしまっていて、寂しかったのだ。
 少しでも賑やかになるのなら歓迎すべきことだと、彼はひっそりと笑った。

 掛香は旅の商人である。布の仕立てをしている隣の領地の職人達から良い布を買い取り、それをこちらの服飾職人達へ売る。そしてこちらで作られるドレスや様々な服飾品を買い取って、それをまた隣の領地へ売って歩く。荷物が荷物だし、鮮やかな布の中には濡らすと質の落ちてしまうものもあるから、雨が降るとこうしてこの町で足止めを食うのは毎年のことだった。この宿屋の主夫妻とは、以前からの顔見知りだ。
 最近建て替えたという新しい部屋へ特別に案内して貰って、もう一週間。一向に雨の止む気配は無く、彼はため息と共に歩き出した。
 この町を過ぎれば彼の郷里は直ぐ傍だ。郷里には、妻と娘が彼の帰りを待っているはずだった。
(さっきの女の子は、芹に似ていたな)
 娘のことを思い出していると、不意に声をかけられる。――廊下にはいつの間に現れたのか、一人の青年が立っていた。
「…客…?」
 何故か彼はひどく驚いた風でそんなことを呟いているので、掛香は苦笑した。先程の少女と言い、どうやら今日は千客万来のようだ。
「こんにちは。君は、新しいお客さん?」
「…。」
 問うと、青年は一つ、息を吐き出したようだった。ため息のようでもあったし、何がしか違う感情を含んだものにも思われる。
「…ああ。まぁ。…もしかしてあんた、さっき此処で、女の子を見なかったか。」
 声は確認する風であったので、掛香は頷いた。そしてああ、と得心する。
「12,3の小鳥乙女の子かい?翠の髪に、白い翼が生えていた。」
「そう、それ。どこ行ったか、知らないか。」
「さっきあちらへ走って行ったようだけど」
 答えて宿の出入り口の方を指した掛香はしかし、聞くなり歩き出そうとする青年を思わず呼び止めた。
「君は、あの女の子の同行者?」
「保護者」
 即答して彼は足を止め、肩越しに振り返る。決して機嫌が良さそうには見えない表情、目つきが際立って険を帯びたのが分かる。掛香は一度肩を竦めてから、けれども好奇心とお節介との両方から彼に告げた。
「――お兄さんか何かかな。種族は違うようだけど。…まぁ、どっちでもいいけど、気をつけたほうがいいよ?あの子、とても可愛らしい姿してたから。」
「小鳥乙女だからな。」
 小鳥乙女の種族は女性が殆どを占め、しかも全員が美人なので有名である。
「…うん、だから、魔物に気に入られちゃうかもしれないよ、って」
 言うと、彼は酷く剣呑な――舌打ちをした。
「――あんた、」
「掛香って言うんだ」
「そうか。俺は夜中。――それであんた、『魔物』について何を知ってるんだ?」
 早口の問い掛けに、掛香は目をぱちくりとさせる。それはこの辺りの土地なら誰でもが知っている御伽噺で、「可愛い娘からは目を離しちゃいけないよ」という、忠告の代わりの常套句だ。それを彼は真に受けたのだろうか。
「ああ、ごめんごめん。ここらの人じゃないんだっけ。」
 旅の人だから当然だよね、と掛香が言うと、彼は一瞬――きょとん、としたようだった。鋭い視線が和らいで、どこか子供っぽくすら感じられる。
 そして、彼は罰が悪そうに目を逸らした。
「…悪い。気が立ってたんだな。…ここらじゃ、そういう風な言い回しをするのか。」
「いや、僕もごめんね。ここらの人じゃないって分かってたのに。…に、しても」
 何と無しに気まずくなった空気を換えようと、掛香は少し早口になりながら笑って見せた。肩を竦めて、
「魔物、なんて、この辺じゃ今時、御伽噺にしか出てきやしないよ。夜中…だっけ。魔物が出るような地域から来たの?」
 土地によっては、人食いの鬼や竜、伝承にしか無いような金属生命種族など、不可思議な生き物達が沢山いたりもするというのを旅の最中、掛香も耳にした事がある。どこまでが噂話でどこからが真実かは知れないが。
 もしかしたら彼はそういう地域から来たのだろうか――そう考えての質問だったのだが、彼はほんの少し苦笑をして、
「…そうだな。魔物って言えば魔物か。」
「?」
 奇妙な言い回しが気にはなったのだが、結局、掛香は然程深くは考えなかった。そういう場所もあるのだろう、という程度にしか、考えなかったのだ。
 だから代わりに、彼は笑いながら宿の出入り口を兼ねた食堂を示した。
「――呼び止めちゃってごめん。早く、迎えに行ってあげたら?」
 あの子が心配なんでしょう、と少し茶化すように言えば、夜中と名乗った青年は、肩を竦めた。
「あの馬鹿はすぐに騒ぎを起こすから、目を離せないだけ。」
 彼なりの照れ隠し、なのかもしれない。どちらにしても同行者の少女を心配しているのには違いなく、見送りながら、掛香はまた、郷里の娘のことを思い出した。彼ら二人がどういう関係なのかまでは分からないが、娘を心配する時の心理と彼の心境は似ているのかもしれない、と思って密かに笑う。
 しばらく宿を共にする相手として、うまく仲良くなれそうな気がしたのである。