ぱちゃり、ぱちゃり。水を弾く音に目を上げて翆は軒先の雨だれを見た。細かく柔らかな、霧の様な雨だったが、もう二週間も降り続いているのだ、とその店の主は語ってくれた。
宿にあった傘を借りて町中を歩き回っている最中、見かけた店である。この町には数多い、染めた布を売っている小さな店のひとつだった。
初老の夫婦が二人で切り盛りしているという店の中は、染料の不思議な匂いと、それから染められた布が所狭しと置かれている。老夫妻に勧められるまま、店に招かれ椅子にかけた翆は、小さな布の端切れを縫い合わせている老婆を頬杖付いて眺めていた。
「こんな雨の時期にこの町へ来るなんて、災難だったねぇ。」
「晴れている時なら、とても賑やかで、とても美しい町なんだよ。」
霧に覆われる町を窓から眺め、老夫妻は口々にそう言い、翆に微笑んだ。優しげな様子に翆もつられたようにふんわりと笑う。
「町中で染めた布を乾かして、それが風に扇がれて。ひらりひらりと、それはとても綺麗なんだよ。」
誇らしげに言ってぷかりと煙管を吹かした老人に、翆は頷いた。
「…雨が降ってて、残念です。」
それは目を閉じて想像してみると、とても素敵な光景であるように思われたのだ。店内に飾られたとびきり美しい布を見つめて、彼女はほう、と息を吐いた。
「どうせなら晴れるまで居ればいいよ、お嬢さん」
しかし老婆に言われた彼女は微かに苦笑して、ゆるゆる首を振った。
「ううん、夜中のお仕事が終わったら直ぐに、別の町へ行かなきゃいけないの。ここから遠く、東の町。」
そうかい、それは残念だねぇ、と老夫妻は口々に言って、それからそれぞれにお茶を飲んだ。翆にも温かいお茶と、砂糖漬けにした小さな果物が出されている。翆も、そろりとお茶を口に含んだ。
翆の目には少し不思議な、琥珀色のお茶は、涼しい花の香りがした。
「…美味しい」
「そりゃあ良かった」
皺だらけの顔をくしゃりと深くして老婆が微笑む。翆はまた、つられて、にこりと笑った。湯飲みを両手で抱える小さな手に、その温かさが染みて、心地よい。
翆の身体は、実は血の通ったものではない――その身体は、魂の器として作られた特別製の「人形」である。その為、彼女には体温が無い。体温を自分で作ることが出来ないのだ。
代わりに彼女は、体温代わりの「熱」を周囲から取り込んでいる。
熱いお茶を両手に抱えて、翆は息を吐き出した。一度濡れると冷えた身体は動きが鈍くなりがちだ。お茶の温もりは何ともあり難かった。
「ところでお嬢さん、どこの宿にお泊りなんだい」
そうしてじっと温もりに感覚を研ぎ澄ませていると、不意にそう問われて、翆は目を上げた。少し考え込むような間を置いてから、彼女はそっと宿の名前を口に乗せる。
すると途端、老夫妻は目を見合わせて、少しばかり険しい顔付きになった。
「――それは良くないよ、お嬢さん」
「そうだよ、あの宿には今『人喰い』が出るって言うじゃないか」
「…『人喰い』?」
不吉な語感を持ったその単語を思わず反芻すると、二人はそれぞれに難しい表情のまま翆の顔を覗きこむ。
「そう、昔の話なんだけど、あの場所には別の宿があってね」
老婆が御伽噺でも語るようにそう言い置き、静かに窓の外を見た。
「私らの婆さんの代の話さ。…あの場所には宿があった。とても人の好い若い夫婦が営んでいてね。それはそれは評判の良い宿だったそうだよ。」
二人は仲むつまじく、そして滞在する旅人に親身になって接したので、町でも評判だったのだと言う。ところが。
「ある日、その宿に泊まっていた商人の一人が、『自分の知人の旅商人がこの宿で居なくなったのだ』と主張したのさ。そうして探してみれば、宿に泊まった人間の中には、ごく何人か、行方の知れなくなった客が居ることが分かった。」
「それで、夫婦に町の者達が問い詰めたのさ…」
夫婦は最初こそはぐらかしていたものの、次第に様子がおかしくなった。――当時の町の者達には知る由も無い事だが、二人は、既に魔物に取り付かれていたのだ。とうとう、特に強く彼らを糾弾した若者の一人を、町の者達の目の前で――
「食べてしまった」
老人の声は淡々としていたから、翆にその場面は想像出来なかった。ただ、悲惨なことが起きたのだろうと推測する他にない。
翆は知っている。
彼女自身は記憶があちらこちら欠けているから、そういう場面を直接見たことがあるのかどうかと聞かれれば分からないが。
彼女は、人を喰らう魔物を知っている。そういうことが実際にあるのだと、知っていた。
きゅ、と細い指に力を籠めて湯飲みを握り締める。そこから伝う熱に縋りつくように。
「…それで、二人はどうなったんでしょうか」
「勿論、…そのまま放って置くわけにはいかないからね。町の者達は手に手に武器になりそうなものを持って、宿を取り囲んだ。…でも、誰もが同時に二人を、二人に憑いた魔物を怖れていた。とてもではないが、喰らわれてしまっては溜まったものではない。」
宿を囲んだまま、町の人々と宿の夫婦の状況は長くこう着状態が続いた。手を出せば自分が食われるかもしれないという恐怖、けれども彼らを放置しておくことは出来ない。
状況を変えたのは、どこからともなくやってきた奇妙な旅人だった。
「とてもね、とても綺麗な人だったそうだよ。光の加減で青くも赤くも見える不思議な黒髪と、澄んだ銀の瞳をしていたそうだ。…ワシらは直接見たわけではないが、子供の頃、婆様達がそりゃあ熱心に語ったもんだよ、当時は誰もが夢中になった、ってね。……誰が呼んだものか、彼は自らを『外法使い』と名乗った」
「そう、『外法使い』。私らの婆様達の時代は、まだ彼等は自分をそう名乗ってた。東の国の王様の怒りを買って、今みたいに『店主』と名乗る前の時代のことだったのさ。」
翆はこの言葉にぐっと身を乗り出した。
記憶の曖昧な彼女には、『店主』達に関する詳しい情報というものが無い。そういえば、いつでも傍にいる夜中の背景を彼女は知らない。これは好機と、彼女は熱心に聞き入った。
「彼は町の状況を誰に聞いた訳でも無いのに、一瞥するだけで察したそうだよ。そしてこう言った。宿の主人の夫婦を見るなり、鋭い言葉で。」
―――お前達、その夫婦を喰らって姿を奪ったのか。
―――何ゆえ、東の果てよりも西の果てよりも遠いこの場に棲み付いた、『人喰い』よ。
『人喰い』とその正体を看破された、宿の主達に取り付いていた魔物は、男を見るなり悲痛な――そして人のものとは思われぬ声を上げて、男に掴み掛かった。町の誰もが目を覆ったが、男は何をしたものか、手を一振りしただけで二人の動きを止めてしまった。
「…愚かな。我らの目を逃れること、叶うとでも思っていたのか?律を乱し、唯人を喰らった罪は重いぞ。」
「忌々しい『外法使い』…!同じ外法の存在でありながら、律にしがみ付くか!」
「お前達と違って多少は利口なだけだ。小賢しいとも言うがね。…して、弁明はあるか、『人喰い』。」
「弁明など――」
魔物は、それから何かを叫んだらしい。けれども町の人々にはその言葉は聞こえず、次の瞬間には二人の宿の夫婦――の姿を被っていた二匹の魔物は、その場に倒れていた。最後まで、町の人々にはその若者が何をしたのかは分からぬままであった。
彼は手にしていた小瓶の蓋を閉めると、ため息を吐いて憂鬱そうに目を伏せた。(この辺りは、或いはその光景を見ていた語り手達の捏造も含まれているのだろうが、翆は深く気にしなかった。些細なことだ。)
「有難う御座います、外法使い様。」
「有難う御座います」
「助かりました!」
人々に取り囲まれても彼はほんの微か微笑んで見せただけであったという。
「…宿の地下を調べると、いい。丁重に埋葬してあげることだ。…この宿の夫婦だという二人も含め、出来うる限り丁寧に送ることを勧める。早くしないと、彼等も魔物と化してしまう所だった」
彼は言い、そして、町の人々から謝礼――月鉱石と呼ばれるある金属の原石で、どこにでも落ちているような屑石なのだが、外法使いにとってはそれは特別な石であるらしい。一般に彼等は謝礼として金銭ではなく、それを受け取っていた――を受け取って直ぐに立ち去ってしまった。
「…それから、宿の地下を調べると、居なくなっていた商人と、その他にも沢山の、沢山の人の…骨が見つかったそうだよ。」
「誰が誰か、どんな姿だったのかも判らぬ状態だったけれど、幸い衣服や荷物はそのままだったからね。どうにか、一人一人を判別することは出来たんだ。」
老夫婦の語りが終わり、ずず、とお茶を啜る音が響いて、翆はようやくほう、と息を吐き出した。
「――これが、この町に残る『人喰い』の話さ。そして噂じゃ、今、あの宿にも同じような現象が起きている。」
老婦人は憂鬱そうに眉を強く顰めて、お茶を置いた。立ち上がり、窓の外を見遣る。霧の様に細い雨が視界を煙らせて、外はよく見えなかった。晴れているときの光景も、そこからは想像できない。
「…だからねお嬢さん、早い所その宿からはお逃げなさい。町ではもう、有名なんだよ。あの宿には、『人喰い』の、嘗てこの町に居て滅ぼされた魔物の怨霊が出ると。」
「あの宿の夫婦も可哀想にね、もう、きっと宿を続けることは出来ないよ…。」
けれど翆は、婦人の言葉に微かに微笑んで、頷くことも首を振ることもなく、静かに湯飲みを置いた。
「……お茶、有難う御座いました。」
「お嬢さん」
咎める声をあげた老人にも翆は同じようににこりと笑って首を傾げた。さらりと、薄暗い店内にも光るような、翠の色の髪が揺れる。
「――外法使いは居なくなっちゃいました。でも」
諦めないで下さい、と。
彼女は幼い姿には不似合いに強い、それでいて涼やかな声で言い切ると、目を伏せて胸元に手を当てた。
――店の入り口から中を窺う声がしたのは丁度その時で、翆はぱっと顔を、年相応に輝かせると、老夫婦の返答も待たずに入り口へと駆け出した。背中の小さな翼がふわふわと動く。
「夜中!」
愛らしい声に呼ばれた相手は、傘を畳みながら濡れた手で彼女の頭を小突いた。
「…雨の中出歩くなんてどういう神経だ、お前」
「だ、だって怖かったし…。それにあんまり、近くに居ない方がいいのかな、って」
だが翆の言い分など彼は聞いていないらしい。直ぐに店内へと向き直り、立ち上がりかけた老人と、その傍の婦人を彼は低い声で制した。
「すまない。連れが迷惑をかけた。」
濡れて黒く見える青い髪の下から覗く、その、銀の、強い刃の色をした瞳。
鋭い瞳に一瞬二人は何故だか互いに目を合わせて黙り込んでしまい、それからゆるゆると首を振った。
「いいえぇ、此方こそお引止めして。ごめんなさいね。」
「老いぼれの長話に付き合わせてしまったよ。ご心配かけてしまったのかな。」
申し訳ないね、と老人が笑いながら言うと、彼は一度嘆息し、濡れた手で翆を引き寄せようとして、瞬間、躊躇する。その彼の手に、翆は自ら飛びついた。腕に抱きついて、そのまま夫婦の方へ向き直る。
「あの、お茶とお菓子、美味しかったです!お話も」
「…何だ、食べ物まで貰ったのか…」
「だから今お礼をしてるのー。…お話も、嬉しかったです。有難う御座いました。」
全く、と彼は自分の腕に絡みついている少女の髪を撫でた。優しく撫でながら間食はするなとか他人に迷惑かけるなとか、そもそもどうして出て行ったとか、愚痴なのか説教なのか分からないようなことを彼女に言い聞かせていたが、ふと老夫婦に向き直り、感情の見えぬ表情のまま、頭を下げる。その様子に思わず老婦人は「あらあら」と笑った。彼女は小さなテーブルの上の小瓶を手にして、翆へと歩み寄る。
まだ僅かに濡れている少女の髪に触れると、驚くほど冷たかった。が、彼女は躊躇無く少女を撫でて、小瓶を握らせる。
「これは話を聞いてくれた御礼よ。後で食べてね。」
瓶の中身は、砂糖漬けにした果物だ。翆はそれに気付いてぱちりと瞬き、それから花が開くように笑った。
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二人が宿へと戻ってから、店内にはまた、微かな微かな雨音が響いた。ぬるまってしまったお茶を一口含んで香りを楽しみながら、婦人が口を開く。
「銀の瞳をしていましたねぇ。」
老人は熱いお湯を入れ直すべくやかんを手にしながら、その言葉に振り返って頷いた。皺の刻まれた顔に、どこか子供のような笑みが浮かぶ。
「銀の瞳を、していたなぁ。」
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