宿へ戻ると、婦人である雲雀は夕飯の準備をしているとかで、出迎えてくれたのは宿の主であった。翆は途中で退席したので知らなかったが、彼は鶯、と言うらしく、既に夜中は見知っている風だった。
「お帰りなさい、店主様。…そちらがお連れの?」
夜中から傘を受け取ったのはまだ年若い男性だ。翆のそれよりも渋い緑色の髪をしていて、ひどい癖っ毛であるらしく、髪はあちこちに跳ね飛んでいる。
彼は翆にも目線を合わせるように屈んで、にっこりと微笑んだ。
「いらっしゃい、小さなお客様。…状況が状況だから『ごゆっくり』と言ってあげられないのが、残念だけれども。」
「は、はい…」
鶯の表情は人好きのするものだったが、覗きこまれた翆は気恥ずかしかったのか、夜中の腰の辺りに確りと掴まって、身体を半分隠すようにした。鶯はその幼い仕草に微笑んでから、顔を上げる。夜中を見つめる瞳は、真剣なものだった。
「それで、その、…宿のことは――」
声は不安からか最後の方は殆ど聞き取れぬほど細い弱いものになっていた。微かな雨音も響くような沈黙を差し挟んでから、夜中は静かに低く、口を開く。常のように淡々とした声色は相変わらず、感情を見せない。
「何となくだが察しは付いたよ。部屋は、好きにさせて貰っても?」
その単語に本当に心から安堵した様子で鶯は息を吐き出した。何度も頷いて夜中の言葉を快く受け入れる。
「ええ、ええ。構いません。どうせ他のお客様は皆さん、別の宿に移ってもらっておりますから。」
「…全員、なんだよな。誰も残っていない?」
夜中はその言葉にぴくりと眉を動かした。確認するような彼の言い様に、鶯が首を傾げる。きょとんとすると若い宿の主は少し幼くすら見えた。
「勿論。…危ない場所に、お客さんを残しておく訳には行きませんよ。」
その答えに、翆が微かに、夜中の服の裾を握る指を震わせる。
それに気付いてか、夜中は静かに彼女の頭を撫でて、「…そうか。」と鶯に対して軽い頷きだけを返した。
「もう一つ。…奥さんにも尋ねたことだが、どうしてあんた達、この宿を出ないんだ。危険だと、思っているんだろう?」
この問い掛けに対しては、鶯はさっと顔を強張らせた。が、その変化は一瞬のことで、直ぐに彼は僅かに目を逸らしたまま、静かにこう答えた。
「それは――これが街の者の言うように『人喰い』の仕業であれば、宿の主は、襲われることが無いだろうからと、思ったので。」
それは素直に頷けるような、納得の行く理由ではなかった為、翆は不可思議に思って自分の頭に優しく手を置く青年を見上げた。自分にも気付けた違和感を、彼が見抜けぬ訳が無いと思ったのだ。
が、彼は矢張り感情を窺わせぬ瞳を伏せただけで、その答えにあっさりと頷いた。
「奥さんも同じことを、言っていたよ。」
彼の言葉はそれだけであったので、思わず翆は口を開いていた。そっと弱々しい声で、ではあったが。
「……どうして?だって奥さんは、お腹に赤ちゃんも居るのに、危ないのじゃないです…?」
夜中が翆に目配せしたのと、鶯の顔色が変わるのが同時であった。彼は先程までの人好きのする笑みを一転して暗くすると、低く静かな、けれども厳しい声を上げた。
「――私達のことなど、捨て置いても構わないでしょう!危険の原因は『人喰い』なんです。それさえ取り除いて頂ければ良いんだ。我々のことにまで構わないで下さい!」
「っ…」
その剣幕に驚いて、翆は夜中の服の裾に縋る手を強くして、彼の後ろに完全に隠れてしまう。自然と鶯の言葉を真正面から受け止める羽目になった夜中は、相変わらずの無表情で微かに息を吐き出した。
「すまない。子供の戯言なんだ、忘れてくれ。」
「…」
鶯も彼の言葉に我に返ったようだった。慌てたように表情を取り繕い、頭を下げる。
「い、いえ…すみません。私も、少し感情的になり過ぎて…疲れているのでしょうかね、本当に申し訳ない…」
ごめんね、と頭を下げられた翆は、僅かに顔を覗かせただけで、言葉をかけることも出来ずに頷くので精一杯だった。驚いたのと怖かったのと、その両方で、彼女は心臓が早鐘を打つのを必死に沈めなければならなかったのだ。
彼女の肉体は外法遣いの作った「人形」であり、その心臓も人工の物ではあるのだが、困ったことにこの心臓、ちょっとしたことで直ぐに酷い動悸を起こす。この時もまさにそうだった。
「本当に、ごめん。」
だが頭を下げる鶯の表情があまりにも哀しげに見え、翆は胸を押えながらも首を振った。上手く言葉は出なかったが、謝罪の意思は伝わっただろう。
「大丈夫か?」
手を引く夜中に気遣うように問われて、翆は胸を押えて一つ深呼吸をした。動悸はようやく治まって、今は夜中に連れられ、一度、宿で与えられた一室に向かっている所だ。
「うん、大丈夫。びっくりした、だけ。」
「ああ」
「…疲れてるのかな。少し、様子、変だったよね…。」
幼い顔立ちを少し顰めて呟いた翆に、夜中は「ああ」と曖昧に頷いただけだった。そうして廊下の突き当たりで、足を止める。
それはちょうど、増設された箇所と元々の宿の建物との境目に当たるその場所に用意されていた部屋だった。扉を開いて夜中がそっと目線を落とす。鋭い銀の瞳に真っ直ぐ覗き込まれることに翆は未だに慣れない。思わず足を止め、身じろいでしまう。
「――翆、今日は一人で寝られるか?」
その言葉を、最初翆は理解できずに戸惑った。一人で?思わずきょとんとして、彼女は言葉も出せずに夜中を見返した。
薄い雨音が聞こえてくる。薄暗い部屋で、夜中の銀の刃の色の目は常より鋭さを増しているような気がした。
「ひとりで?」
元々、翆は記憶を失くした状態で夜中に手を引かれ、ここへやって来るまでの数日の間、滅多なことでは彼の傍を離れたことはない。まして、眠るときに彼が傍に居なかったことなど、一度だって無かった。厭な夢を見ても、夜空に出る月が怖くても、名前さえ呼べば夜中は手を伸ばして、少しだけ力を入れて抱き締めてくれた。
――それは、翆の肉体が「人形」であることも大きく影響している。彼女の身体は自ら体温を作り出すことが出来ず、加えて、眠っている状態では体温はどんどん低下してしまう。その為、夜中が彼女の身体を温めながら眠る必要があったのだ。
「いつもなら一人で寝るな、と言うところだが」
夜中は少しだけ、首を傾げる。
「此処らは夜でも暖かいからな。一人で眠っても、問題は無いだろう?」
問題は、無い。
夜中が言うのならば確かにそうなのだろう。
だが、翆は納得しかねて首を横に振った。ゆるゆる、湿気を含んだ髪が重たく纏わり付く。夜中は、予想はしていたのだろう。額を押えて低いため息を吐いた。
「…翆、」
言い含めるような調子で言われて翆は反射的に答えていた。
「厭」
「どうして?」
どうして、と問い掛ける言葉には僅かな笑みが、含まれている。揺らぐことの無い彼の口調の唐突な揺らぎ。
はたと見上げた翆は、視線の先で夜中が微かに笑って居るのを見た。どことなく、からかう様な、小馬鹿にする様な、揶揄を含んだ笑み。本当に僅かな表情の変化ではあったのだが、それに気付いた翆は頬を膨らませた。
――どうやら子供扱いを、されている。
「夜中、何で笑うの」
服の裾を引いて抗議すれば、彼は翆を見下して、
「だってお前、一人じゃ眠れないんだろう。子供だな。」
むっとした翆は彼のコートの裾を握る指に力を籠めた。刃の色の瞳を見上げて睨みつけてやる。それが、通じる相手とも思われなかったが。
「子供じゃないわ。一人でだって眠れる!」
思わず強い調子で言い返してしまってから、翆は慌てて口を手で塞いだ――が、零れた言葉はもう戻ってはくれない。言質を取った夜中がふ、っと微笑んだ。今度は先程のような揶揄を含んだものではなく、ただ純粋に可笑しかったのだろう。
翆の手を放して、彼はひらりと手を振った。
「俺はまだ調べることがあるから、部屋で大人しくしていろよ。」
夕食の時間には戻るから、と言われる頃にはもう翆は彼の言葉など聞いては居なかった。小さな頬をめいいっぱい膨らませ、彼女は勢いをつけてまだ新しいドアを閉める。
ばたん、と強い音が薄暗い廊下に響いて、夜中は苦笑した。
「…仕様の無い奴」
言いながら彼は先程まで翆の手を握っていた左の手を持ち上げた。他人の体温を奪ってしまう翆の肌に長く触れていたせいで、掌は酷く冷たくなっている。
だが彼はそれを然程気にかけることも無く、その左腕の手首にある鉛色の腕輪に向かって声をかけた。
精緻な紋様の刻まれた、枷にも似た腕輪。
「亜鉛、翆を頼む。…夕飯までには機嫌を直しておいてくれ。」
無理な注文をされた腕輪は、精緻な紋様をぐるぐると動かした。紋様が溶け合い絡み合い、やがてするすると動き出す。腕輪は一匹の蛇の姿になって、彼の腕から肩へと移動を始めた。動くたびにキシキシ、と、金属の擦れる高い音を立てる。その音を聴いて夜中は息を吐いた。
「ああ、分かってる。俺がからかい過ぎたんだ。悪かったよ。…そう言うな。」
彼の言葉に何を思ったのか――
金属の蛇はその言葉の直後、彼の肩からひょいと飛んだ。意外にも器用に滑空すると、蛇はべたりと廊下に落ちる。
「分かってるって。早めに戻る。何かあったら、言ってくれ。」
蛇はその言葉を背に、するすると音も無く廊下を這って、やがて翆の閉じたドアの隙間を潜り抜けて行った。
それを見送り、夜中は一つ安堵の息を吐くと、足早に、増築された宿の建物へと歩みを進めていく。
目的地は、物置として使われている宿の地下室。
――人喰い、か。
彼は微かに苦い想いで、唇の端を噛んだ。魔物。この辺りの地域では、御伽噺の中でくらいしか登場しないのだと言う。
(…律から外れた生き物は、最早、魔物と呼ぶしかない存在に成り下がる。だから、退治しなければならない。放置しておけばいずれ、律が乱れ、世界の在り様にすら影響が出る。)
そう教えてくれたのは、彼の師であり、育ての親であり、実の祖母でもあった女性だ。年老いて尚凛として美しい老婦人は、厳しい調子で彼に言った。
「私達には『外法』の力、『律』から離れた力があるわ。――これは、決して律を乱すものであってはならない。私達は、あくまでも律を護る為、そして律の元に生きる全ての意思あるものを護る為、その為に力を振るわなければならないのよ。」
世界を覆い、人々を守る、神々の意思――律、を。
護る為に。
あれほど繰り返し言われた言葉を、彼は今更、と苦く思い出していた。
(何の因果だろうな、水鏡。)
彼は今、律を乱す存在を、魔物を倒そうとしている。
―――彼自身が、何よりも律を乱す存在に成り下がろうとしているというのに。
(それでも――)
それでも最早、選んだ道を違えることだけは出来はしないのだ。
――あるべき「正しい」道を選べば、彼は同時に、あの美しい翠の髪の魔女を永劫に喪う事になる。
そこまで考えて、夜中は強く目を閉じて陰鬱な思考を追い払った。今は、正式なそれではないとはいえ「招き」を受けて此処に居るのだ。「仕事」は「仕事」と割り切らなければならない。今、成すべきは、宿の変調を、その原因を突き止めて出来うる限り「あるべき姿」に戻すこと。それだけだ。
夜中は薄暗い廊下で一人、目を上げた。
今はそれだけを考えよう。