夕食はささやかだけれど精一杯の心の篭ったもので、穀物の粉を使った麺と鶏肉と、それに食後にはデザートまで出た。甘いものが大好きな翆にとってはこれは嬉しい出来事で、夜中に出された分もしっかり残さずに平らげた。(夜中は甘いものが苦手なのだ。)
 微かに花の香りがするお茶を飲み終えると、夜中は無言で立ち上がる。
「さて、と…」
 彼は肩を回して、自らの傍、椅子の上に置いていた皮製の拳銃嚢を手に取った。
 夜中は自らの外法の「力」を拳銃で発揮することが多い。「送り届ける」という力のイメージが、拳銃のそれに合わせ易いのだと、彼自身は言っていた。服の内側にナイフも納められていることを翆は知っていたが、こちらは殆どの場合、実用的な場面で使う(つまり野宿の際に周囲の草を切ったりだとか)ものである。もう一本、小鳥の彫られた月鉱銀のナイフもあったが、それは夜中はあまり使いたがらなかった。力を乗せるにしても、イメージがし辛いのだそうだ。
「じゃあ、そろそろやるか。」
 ぽつりと彼が零すと、茶器を下げに来た宿の主人、鶯が一瞬だけ表情を強張らせた。が、彼はすぐに取り繕うように微笑んで、「お願いします」と頭を下げる。
「少し騒ぎになるとは思うが。部屋を出ないようにしてくれ。…特に奥さんは。」
 最後の部分だけは、少し強い口調になる。頼みと言うよりそれは強制力を持った命令であるようでもあった。もしも出て来ればどうなるか、俺は知らないぞ、と言う。
「ええ、解りました。必ず。」
「…翆」
 続いて呼ばれた翆は、足をぶらぶらさせながら椅子の上で青年を見上げた。彼女の頭の上には、ちょこんと鉛色の小鳥がとまっている。
「……解ってる。お部屋で一人で待っていればいいんでしょ?」
「ああ。…ごめんな。」
 謝るくらいならば連れて行ってくれればいい、そう思ったけれど言葉に出来なくて翆は困った。我侭を言えば彼はきっと面倒臭そうにこちらを一瞥するのだろう。それを想像すると、何だかとても耐えられそうになかった。
 そんなことを思って俯いていると、不意に身体がふわりと浮き上がる。驚いて目を上げた先、驚くほど近くに夜中の無表情があった。――抱き上げられたのだ、と。彼と目が合ってやっと気付く。背中と膝の下に回された彼の腕、体温が温かくて、心地良くて、翆は身体を震わせる。温度差。皮膚を通して身体中に、温度が染み渡る感覚がある。人形の自分には体温が無いから、こうされていると気持ちが良いのは、当たり前のことなのだけれど。
「夜中?」
 滅多にこんな風に抱き上げたりなんかしない癖に。(寝ているときに抱き締めてはくれるけれど。)そう怪訝に思って名を呼ぶと、彼は僅かに口の端を緩めて、
「部屋まで送ろう、お姫様。」
 どこかふざけた調子でそう、言った。
 ふざけないでよ、と言って怒ってやろうか。そうも思ったが翆は言葉を呑んで、つん、と顎を上げるに留めた。まんざらでもない気分だったのである。
「落っことしたりしないでよ。」
 彼は瞬いただけでその言葉には応えず、ただ、後ろを向いて、宿の主に、早く部屋へ戻るようにとだけ言った。
「――あと半刻もすれば俺は仕事に掛かる。それまでには、部屋に戻って、鍵を掛けることだ。」
「……解りました。よろしく…お願いします。」
 鶯の声は酷く強張っていた。緊張を含んだそれに翆は違和感を感じこそしたものの、その違和感の原因が思い当たらず、ただ首を傾げる。
 夜中の腕に抱き上げられたまま食堂を出て、翆は間近にある青年の顔を見上げてみた。自分に解った違和感に彼が気付いていないこともないだろうと思ったのだが、彼はちらりと少女を見遣っただけで、何も言わない。
「ね、夜中」
 バランスを取る為に青年の上着にしがみ付きながら、翆は問い掛けた。廊下には静かな雨音だけが満ちている。細い少女の声はその合間を鈴のように響いた。
「何だ?」
「…『人喰い』って、」
 そこまで呟いて翆は言葉を止め、途方に暮れた。どういう風に尋ねればこの違和感の正体を探れるのかが解らない。咽喉に小骨のつかえた様な、胸元に感じる僅かな痛みに似た。厭な夢を見た朝に似た感覚だったかもしれない。
 言葉に迷う翆の様子に何を感じたのだろう。夜中は無表情なまま、淡々とした低い声で語り始めた。低い声は雨音と似ている。針のように細く霧の様に甘い、雨の音。
「『人喰い』は確かに倒されたのだろうが、しかし、昔この街に居た連中は最後の最後、詰めを誤ったな。魔物を本当の意味で殺すと言うのは容易なことではない。」
 彼にしては珍しく饒舌だと感じ、翆は僅かに青い瞳を伏せた後、きっと私に気を遣ってくれているのだろうと結論付けた。
「…魔物を殺そうと思ったら、どうしたらいいの?」
 口にしたのは胸中のその思考とは一切関係の無い疑問だった。
「――魔物とは、律から何らかのキッカケで離れてしまい、輪廻の輪にも戻れず彷徨い、そして律を侵し続ける、そういう魂のことを言う。」
 夜中のそれは説明と言うよりも、何かの独白のようだった。独白と言うのは誰に聞かれることを望む訳でも無い、そういうものだ。彼の言葉は或いは、何か遠い昔から拾い上げているような、そういう響きがあった。翆は上着の端を握り締める指先に力を込める。――体温を分けて貰えるほどに近くに居る彼がひどく遠く感じられる。
 雨音と似ている声。
「魔物を殺そうと、滅そうとするのならば、その魂ごと相手を消滅させなければならない。」
「それは難しいの?」
「難しいな。…俺は魂を『送る』ことは出来るが、『滅する』ことは出来ない。」
「じゃあどうするの?」
「封じる。」
 彼は淡々とそう答えた。
「封じられれば少なくとも悪さは出来ない。それ以上律を侵すことも無い。あとは自然に消滅するのを、ひたすらに待つ。…外法の使い手なら、誰だってそうする。」
 それはどれくらいの時間がかかるのだろうかと考えれば、翆の脳裏で、誰かの囁きかけるように答える声が響いた。(五十年か六十年か。あれほどに人の魂を喰らって居れば、もしかすると、もっと掛かるのかもしれない。)誰の囁きだろう、と翆は一瞬だけ怪訝に思ったけれど、それは一瞬のことで、直ぐに納得した。(そうだね、忘れて。私の声など。貴女はまだ、聴かなくていい。)
「…じゃあ、封じられている間に何かあったら、魔物はまた、律を侵すの?」
 人喰いならば人を喰らい、殺人精ならば人を殺す。吸血鬼ならば生き物の血を奪い尽くし、御霊荒ならば墓場を暴いて人の死体を悪戯に動かす。
「そうなるな。」
 夜中の答えに、翆は眉を顰めた。
「――じゃあ、今、この宿に居る『人喰い』は?」
「昔封じられたものが、何かのキッカケで力を取り戻したんだ。地下で封印が緩んでいるのを見た。」
 夜中は淡々と応じて、そしてそこで翆をひょいと廊下の板張りの床に降ろした。翆の泊まる部屋の前だった。
 足に触れた床が思いのほかに冷やりと冷たく、翆は身を縮めたが、夜中はそれを見ても顔色ひとつ変えず、ただ彼女の前髪を僅かに撫でただけだ。
「…地下の封印をもう一度掛け直す。とりあえずはそれで、『人喰い』は納まるだろうからな。」
「――夜中、」
「ああ、『知っている』んだろう、お前なら。でもいいんだ。こんな場所で力を使って、『満月』の連中や、墓所のモリビトにでも嗅ぎ付けられたら面倒だ。」
 何を言っているのだろう。
 彼は。
 言葉はどちらかと言えば、独白に似ている。何も返らぬことをこそ期待している、独りよがりの、無意味な囁き。
 ただ降り続けるだけの雨の音に、似ていた。
 翆は何故だか泣きたくなってしまった。彼の言葉の意味が解らないことが、何故だか哀しくて仕方が無い。(――聴かなくていい。貴女はまだ。何もかも忘れていて。時が来るまで。)
「…夜中、私」
「いいんだ。俺が覚えてる。だから、お前は何も思い出さなくていいんだ。翆。…忘れてろよ。」
 忘れて。脳裏に何度も掠める囁きと同じ事を彼が呟くのは、偶然だろうか。
 俯きかけた翆の頬にそっと触れた夜中は僅かに口の端を緩めて、微笑んでいるのにそれは哀しそうで、翆はただ、青い瞳で彼の銀のナイフの色をした瞳を見返している。
「お休み、翆。」
 ――どうか願わくば良い夢を。
 耳元に吐き出された囁きは、今度は決して独白などでは無かった。言葉と同時に額に彼が口付けを落として、翆は一瞬、青い瞳を真ん丸に瞠って動きを止めてしまう。前髪をそっと撫で付けて、落とされた唇は決して温かくは無かったのだけれども、翆の機能を一瞬だけ全て停止させるのには充分な熱を伴っていた。
 廊下には雨音が満ちる。外は暗闇でも雨は降り続いているのだと、その音で知れる。
 立ち尽くす翆の足元でキィ、と小さな音を立てて、金属の蛇が鳴いた。


*****


 翆を取り残して廊下を早足に歩く夜中は、実は軽い自己嫌悪に陥っていた。状況が違えば、例えば部屋に一人で居る時だとか、依頼を受けていなくて仕事が無くて気楽な状態の時なら、一発くらい自分の頭を殴ったかもしれない。
(ああ、くそ、)
 頭が痛い。真っ暗な廊下を宿で借りた灯火を提げて歩きながら、彼は自分に向かって自分で毒づいた。
 要するに彼は、翆に、額にとはいえキスをしてしまったことを激しく後悔していたのだった。――翆はまだ、その身体だけは、幼いと言うのに。
 元々夜中は、必要最低限度――つまり翆が肉体代わりにしている人形が、温度不足で動けなくなったりしないように抱き締めたり、手を繋いだりしてやる以外の接触を、極力持たないようにしていた。理由は単純。扱いに困っているのである。
 姿も仕草も。器にしているあの人形の身体は、子供だ。幼い子供。
 だがその魂は、彼にとっては―――
(…何度、繰り返せば慣れるんだ。俺は。)
 暗い自嘲が胸の奥底からふっと湧き上がり、夜中は目を閉じそうになった。実際には閉じない。魔物の居るフィールドで目を閉じたりするほど彼は愚かではない。それでも、胸中を喰らう自嘲の痛みは、灯火で照らされた薄い闇の外側、雨音に満ちて黒々とした闇に似ていた。じわりと身体の内側を蝕む暗さを意識的に彼は、追いやった。
(…何度も繰り返して、堪るか。)
 危うく目を強く閉じそうになり、彼は唇を噛み足を止めた。
 そして同時に、彼は振り返った。鋭い所作で振り向き様に叫ぶ。
「――誰だ」
 低い声に、先程までの彼の後悔は何処にも無い。ただの鋭い殺気を含んだ声だ。振り返る時に揺れた灯火の光が、刃の色の瞳に映りこんでぎらりと凶暴に輝いた。
「…!」
 灯火に照らされた闇の向こう側。
 白い乾涸びたものが、浮かんでいる。
 彼はそれを見て、背筋を強張らせた。
 ――今回の「封じ」の要は、かつてこの場所で「人喰い」の犠牲となった宿の夫妻である。かつてその二人が、葬儀もされずに放置され、埋められたことで、「人喰い」の封印は緩んでしまった。葬儀をされていない魂は、時間が経てば澱んで歪み、総じて魔物たちにとっては強い力の源となってしまう。それを清め、「封じ」を掛けなおせば、今回の仕事は完了するはずだったのだが。
 その、要となる宿の夫妻の遺骸。
 昼間、夜中が宿の地下に発見した、あの髑髏。
 それが、――その薄闇には、浮かんでいた。
 かたかたかたと、雨音を食い破るようにして響く乾涸びた音は恐らくその髑髏が歯を鳴らしているのだろう。夜中は腰の拳銃を意識した。まだ、抜かない。
 その髑髏は、やがて、歯を鳴らしながら唐突に夜中へと襲い掛かった。飛び掛ってくる髑髏を、素手でいなし、青年が鋭く視線を灯火の照らす範囲の外へと遣る。何しろ雨の夜闇の廊下は、まるきり視界が効かないのだ。
 左腕で飛んできた髑髏を払い、彼は誰何を投げ付けた。
「誰だ。其処に居るだろう」
 腰の拳銃の重みを意識しながら彼は、再び髑髏を振り払った。暗闇から飛んで来る物体を避けきれず、その左腕に赤い線が生じる。しかし、その痛みさえ然して気にする風も無く、ただ彼は刃の色の瞳で闇の奥の奥を睨み付けた。誰かが居ると、その気配だけを確信している。
「…」
 相手は。
 無言だった。
 するりと床を滑るようにして、廊下の闇を水色のものが過ぎる。――夜中は眉を顰めた。髑髏が飛んで、主に飛び付く子犬のようにして、その水色の物体の傍にぴたりと止まる。
 ひらりと揺れる、水色の夜着。
 そこには、小柄な女性が立って居る。視線こそ虚ろに彷徨っているが、その姿は見間違うはずも無い。宿の主の妻にして、この「仕事」の依頼主である女性――雲雀が、そこには立っていたのだ。
 虚ろな視線とふらつく足取りで、彼女は灯火に照らされるぎりぎりの範囲で、足を止めた。何処も見ていない視線と、半開きの口から、ギィ、という音が漏れて夜中は飛びずさった。
 拳銃を、抜く。
 薄く淡い雨音を乱暴に引き裂いて、耳を劈く銃声が、夜の闇を貫いた。

 銃弾は、髑髏に直撃し、それを砕いた。からん、と。力を失って、乾涸びた白い欠片がばらばらと床に落ちる。と同時、ひ、と小さな呼吸音が響いた。雲雀が半開きの口から涎を零しながら、耳障りな声を発した。
「――キ、貴様、何ヲ…」
「その体の持ち主に尋け。俺はその人の依頼を果たしに来ただけだ。」
 低い声で応じながら夜中は銃を構えなおした。夜中の愛用している拳銃は、口径の大きく威力の大きなものだが、その分、引き金を引いた際の反動も大きい。
 灯火を片手に持っているので否応無く片手で銃を撃つ羽目になり、その結果、衝撃で肩が酷く痛んだのだが、夜中は顔色一つ変えなかった。
「アア、グ、」
 苦しげに雲雀――の姿をした何かは呻き声を発してその場にべたりと手をついた。四つん這いの姿勢になってグルルル、と獣の様に唸る。見た目が小柄な、線の細い女性であったので余計にその様は異様であった。
「ウガぁぁあああああアア!」
 咆哮。
 ばねでも仕込まれていたかのように、雲雀の小さな体が、跳ねた。四つん這いの姿勢から夜中に向けて飛び掛ってくる。と同時に、夜中の周囲に散らばっていた白骨の破片がかたかたと動き始めた。原型を留めぬほどに粉砕されているというのに、一瞬の間に破片が集まり、元の髑髏の形へと戻ろうとする。それを冷淡な目で一瞥し、夜中は撃鉄を起こした。がちりと重たい音。
 灯火を左手に持ったまま、彼は廊下の板を蹴った。低い姿勢から襲い掛かる小柄な女性を、勢いを少し付けただけで飛び越える。そのまま相手が方向を転ずるより先に振り向き、拳銃を向けた。
 髑髏が、殆ど元の姿を取り戻し、歯を鳴らす。浮かび上がる。
「――今度は月鉱片の弾だ。一発で楽になれるぞ。」
 言いながらも夜中は面白くも無さそうに淡白な視線で、白く乾涸びた、男のものとも女のものともつかないその髑髏を見遣ると、それきり興味を失ったように引き金を引いた。
「永遠の墓所で安息の眠りを。そして新たな生の礎となれ。」
 それは祈りの文句だ。何処の地域でも、誰かが死んだ時、死者の安寧を願う為の常套句。
「『漆黒墓所』の永劫の黒が、あんたの魂を抱くだろう。」
 銃声があまりに強かったので、その祈りの文句は殆どかき消されていたのだが。そんなことはどうだって良い。この言葉は口にすることに意味があるのであり、誰かに聞き届けられる必要は無い。
 銃口から吐き出された弾丸は、淡く白く輝いた。発射の際の火花の明りだけではない、明らかに別種の輝きを纏い、そして宙に浮く髑髏へ突き刺さる。
 今度は先程のように、髑髏は、衝撃で粉々に砕けることは、無かった。
 弾丸が頭部に突き刺さったまま、砕けもせず、しかし力を失ってからん、乾涸びた音をたてて板張りの床へ落ちてしまう。
 それきりだ。それきり、髑髏はぴくりと動くことさえしなくなった。同時に雲雀が身悶えし、床にのた打ち回る。
「あああああ!!!」
「…今、その髑髏の持ち主だった女性の魂を『墓所』へ『送り届けた』からな。力を削がれただろう、『人喰い』?」
 撃鉄を起こしながら青年は何処までも冷徹だった。床を、陸揚げされたばかりの魚のように暴れまわる小柄な女の体を、乱暴に髪を掴んで引き寄せる。痛みにだろうか、それとも力を剥ぎ取られた苦しみにか、獣の様な悲鳴を上げながら「雲雀」は白目をむいた。しかし夜中は動じた素振りさえ見せず、女を引き寄せ、銃を突きつけた。
「…言え。髑髏はもう一つ――お前が『封じ』を破る力の源とした魂は、もう一つあったはずだ。言え。何処に居る?」
「ギ、ギギ、…言ウ物かヨ、『魔女殺し』!」
「……」
 その言葉に。
 夜中の顔色が始めて変わった。彼は。
 にこりと、笑った。
 恐らくは翆ですら見たことの無い、いっそ晴れやかな笑み。
 ――雲雀の身体を乗っ取っている「それ」は、その笑顔を見て、訳もわからずに後ずさった。「それ」は獣程度の知恵しか持って居なかったのだが、獣程度であるが故に、相手の危険性を本能的に察知したのだ。
 全身の毛穴が開くようだった。フゥゥゥ、と低く息を吐き出しながら、雲雀の身体がじりじりと下がる。だが、その動きが唐突に止まった。
 銃口が向けられている。眉間にぴたりと、付けられていた。
「ぐぁ…グ、…こノ女を殺ス気カ?」
「ああ、それでもいっそ構わないかもな。身体を利用しているお前も、一緒に死の苦痛を味わえるだろう?」
 笑顔は微塵も揺るがずに、優しげにすら聞こえる口調で夜中はそう告げた。
 「それ」は狂気という概念を知らなかったが、知っていれば「狂っている」とでも思っただろうに違いなかった。笑みを浮かべ、優しく吐き出す台詞は、銃口が内に押し隠す凶暴性すらも凌駕している。
「――それとも、お前がその身体から出られぬように閉じ込めて、爪を一枚一枚剥がしてやろうか?足の爪からがいいかな。一本一本骨を折っていくのも良さそうだ。お前は骨を折られる痛みを知らないだろう?」
 歌うような言葉が次第に熱を帯びていく。笑みを浮かべた青年の拳銃を握る手が強くなり、ごつ、と眉間に当てられた銃口の冷たさに「それ」は全身を総毛立たせた。
「い、言ウ…モウ一つ。ダカラ、助け…」
「もう言わなくていい。俺はお前を、潰すと決めた。」
 ごつり、と銃の感触が「それ」の眉間に強く押し当てられる。
「――貴様は死ねないからな。そのまま死の苦痛を味わえ。」
 引き金に掛けられた指に、力が入っていく―――
「うわあああああああ!!!」
 悲鳴は。
 「それ」のものではなかった。何かに耐え切れなくなったような、人の叫ぶ声。暗闇の廊下を誰かが灯火の光に向かって、まるで火に向かう蛾のように一直線に飛び込んで来る。夜中はぎょっとして目を上げたが、感情が先走りすぎて理性的な判断が、僅かに遅れた。
 その遅れが、致命的だった。振り返ろうとしたその脇腹に、まず冷たく軽い感触。その後を追うように熱い灼熱感。
 刺されたのだ、と。
 頭のどこか冷静な部分がそう告げている。
「…ッ、待て、何を…!」
「矢張り…矢張り『店主』など呼ぶべきでは無かったんだ…!」
 苦悩するような言葉は低い、男のもの。夜中は急激に意識が遠退くのを感じながら、灯火に照らされて奇妙な色に見える男の目を見た。荒い息をついて、男がナイフを捨てる。
 ――身体から力が抜ける。夜中は重たい拳銃を取り落とし、床の上に倒れこんだ。意識こそ失わないが、朦朧とし始めている。
 胸中だけで、毒づいた。
 今日に限って、俺はどうも、我慢が効かないらしいな。
 何だってあんなにも感情的になってしまったのだろう。