刃の色とカタチの月は、彼の瞳の色を思わせて、だから翆は、寧ろその細さと鋭さに安堵するのだった。彼を喚起させる、ただそれだけの、単純なことで。
「夜中」
小さく呼べば、自分を抱き締める暖かな腕は、ほんの少し力を入れてくれる。
だから、怖くない。
刃の月も、夜も、怖くは無い。
刃月の日。
二人は、大きな街にたどり着いた。
街を治める領主が居て、城があり、交通の要所でもある位置の都合上、その街は賑やかな街だった。露店が並び、人々でごった返す通りを、呼び込みの声や香ばしい匂いなどが埋めている。
季節はまだ、晩春。だが、熱気だけで、咽るほどの蒸し暑さを感じるほどだ。
疲れた、と主張する夜中を無理に引っ張って、午後の熱気を孕んだ街へと、翆(カワセミ)は繰り出した。
「仕事なんだぞ。分かってるんだろ?」
夜中は人ごみを見てそう渋ったが、結局、翆の「お願い」を聞き入れてくれた。
はぐれないように手を繋ぎ、二人は、宿から通りへと降りていく。
通りは本当に賑やかだった。パンや焼き菓子のお店が香ばしい匂いを漂わせ、呼び込みの声が五月蝿いほどだ。増して、人混みでも一際目を引くこの二人組みは、歩くたびに声をかけられる。
「お嬢ちゃん!美味しいお菓子はどうだい、オマケしておくよ!」
「さぁ、稲穂名物の燻製肉だ、一個どうだい!」
「焼きたてのパンはいかが!焼きたてほっかほかだよ!」
「…ねぇ、夜中…」
怒涛の如く浴びせられる呼び込み文句に、翆は物欲しげに夜中を見上げたが、
「駄目。夕食前には間食しない」
昨日約束しただろう、と言われてはしゅん、としょげるしかない。
人混みにも目立つ二人組みは、夜中と翆、という。
翆はまだ幼い、10と少しくらいの少女の姿をしており、白磁の肌に翠の、飴細工のような柔らかな髪を持っている。澄んだ冬の真昼の空を思わせる瞳は、ぱっちりと丸く愛らしい。
背中には乳白色の翼があるけれど、これはまだ未発達なのか、空を飛べるとは思われないほどに小さなものである。
一方夜中は、20と少しくらいの青年だった。鋭すぎる瞳は怜悧な刃物を思わせる灰色で、髪は翆とは正反対に、光を吸い込むような深い、海を思わせる群青色。痩身だが決して華奢ではない、しっかりした長身の青年だ。
これといった装飾も無い旅装だが、精緻な細工の腕輪が目立った。
「…夜中、お仕事って、どんなお仕事なの?」
お菓子は買ってもらえなくても、翆は露店を覗くのが楽しかった。夜中の手を引っ張って、あちらこちらと気紛れに覗いて回りながら、ふと思いついて尋ねて見ると。
「さぁ」
夜中の返事は大変気の無いものだった。
「…知らないで来ちゃったの?」
ぱちくりと大きな目を瞬いて、自分よりずっと大きな青年の顔を見上げる。彼は表情をそれほど変化させないのだけども、どこか不機嫌なように思えた。
「あぁ、呼ばれたからな。後は知らん。」
「……ふぅん」
夜中は「呼ばれる」と言って、ふらりと旅の道程を決めてしまうことがあった。が、翆は何故かそれを疑問に思うことが無かった。
思えば不思議なことだ。塔の泉から、夜中が自分を引っ張り出してくれるまでのことを、翆は何一つ覚えていない。なのに、まるで夜中の隣にずっと昔から居たかのようだ。
いや、きっと、大昔から、私は彼と一緒に居たんだろう。
翆は幼い思考でふと、思う。
…それほどまでに、彼の隣は居心地が良く、懐かしい。
――俺が、全部、覚えてる。
目覚めた彼女に、彼がくれた言葉。
そうなのだろう。きっと、夜中は、自分が無くした記憶を全て、持っていてくれるに違いない。
つらつらと考える翆の手を引いて、一方の夜中は実際のところそれほど不機嫌ではなかった。不機嫌に見える、と翆が言っていれば、「元々こういう顔だ」と憮然として答えたに違いない。
仕事のことは少々引っかかりを覚えはしたものの、彼にとっては些細なことだ。そんなことより、翆のコトの方が気にかかっている。
彼に引かれる彼女の手は、ひやりと冷たい。晩春の空気に身体を冷やしたのだとしても、その冷たさは、普通のものではない。
それもそのはず。翆の身体には、血が通っていないのだ。
彼女の身体は、夜中が特別に、親しい人形屋に頼み込んで作らせた「人形」である。魂だけは間違いなく翆のものだが、その肉体は偽りだ。…こうして手を引けば、彼は否応無くそれを思い出す。
だがそれでも、決して不機嫌ではない。
「お仕事って、どれくらいかかるの?」
硝子細工の玩具に目を奪われながら、翆がそんなことを言った。鈴を転がすような澄んだ声は、人混みの中でもよく通る。
「さぁ。それも、分からない、が」
「が?」
「早いところ終わらせる。…人形屋のトコロへ寄る必要があるからな」
「…私のせい?」
細い銀色の硝子細工から視線を上げて、翆。ほんの少し不安げな瞳は、記憶が無いながら、人形屋の名を聞いたせいかもしれない。…確かに、翆は人形屋では大抵ろくな目にあっていない。
そんなことを思い出して、口の端に苦笑を浮かべながら、夜中は翆の頭を二、三度軽く叩いた。ふわふわの癖っ毛は、柔らかい手ごたえを返してくる。
「大丈夫。大したことじゃない」
「ん…」
頷いて、それでも不安そうな翆に、夜中はひとつ、静かに瞬きをして、それからゆっくりと立ち止まる。
「…どうかしたのか」
「わかんない…。人形屋さんにも、わたしは、逢った事があるの?」
「ああ」
彼女の意図を図り損ねて、夜中はじっと、翆の目を覗いた。露店に並んだ硝子細工と大差の無い、空色の、作り物の瞳。
そんなものから心が見えるなどと、大した思い込みだ。
埒も無いことを思いながら、付け加えておく。
「その身体を作ったのも人形屋だからな。何度か、逢っている」
「…うん。…夜中…」
呼ぶ声はいつにも増して細く。人混みの足音にさえ紛れてしまいそうだ。
「わたし、どうして、何も覚えてないのかな」
ぎゅ、と、握り締める指先が冷たい。
またひとつ、夜中は静かな瞬きをした。
「……俺が全部、覚えてるよ」
「でも。」
――忘れてはいけないことだった。
そんな気がしてならないのだ。
夜中の服の袖を引きながら俯いていると、さらりと前髪が顔にかかるのを、長い指がかきあげてくれた。暖かい指の温度が肌に染みる。
そうしながら、夜中はもう一方の手で翆を引いた。
「一個だけ何か好きなもの買ってやるから。戻るぞ。」
「え…あ…うん」
ぐ、と強く引かれて、転びそうになりながら翆は小走りに歩き出し、首を軽く傾げた。さっきまで、間食しちゃ駄目、無駄遣いも駄目、ってうるさかったのに。
もしかしてごまかされたんだろうか、という気もしたのだが、
「そこのお嬢ちゃん、氷飴はどうだい!涼しくて甘くて美味しいよ!!」
目に飛び込んできた涼やかな飴の色に気持ちを奪われた彼女はそれ以上は深く考えず、それよりも、夜中の気が変わらないうちに、と慌てて袖を引っ張った。歩くスピードの早い夜中を引き止めるのは、小さな翆にはそれだけで大変なことなのだ。
「夜中っ!夜中あれ!あれ欲しい!」
「…う、氷飴かよ…身体、冷やすぞ?」
「でもあれがいいのー!」
夜中はあまり気が進まないのか、少し眉間に皺を寄せた。足を止めた翆に視線を合わせるように膝を突いて、
「他のにしろ。身体が冷えたら困るだろう」
「好きなの買っていいって、夜中言ったじゃない」
「それはそうだけどな。他にもお菓子はあるんだし」
そうやって説得されると、さっき誤魔化されたことも含めて、翆は急にむらむらと怒りのようなものが湧き上がって来た。む、と負けずにこちらも睨み返す。
「夜中のうそつき!」
「あの、な。だから、少しは考えてから選べって俺は」
説教を始めようとした言葉は、だが不意に途切れた。夜中の鋭い瞳がぐっと眇められて、翆はびくりと身を竦ませる。綺麗で、触れたくなるほど綺麗な色の瞳だとは思うが、やはりこういう視線は強すぎて、本当に切れてしまいそうで。
しかし夜中が見ていたのは、彼女ではない。
視線を外した夜中は立ち上がると、人混みの中に視線を鋭く投げた。何かを見ているのだ、と察し、翆は、ただ無言で見上げるしかない。
「…翆」
呼ばれた声には、…まだ、正直かなり拗ねてはいたのだが、それでも…翆は素直に頷いた。
「ああ、そこの公園がいいな。…座って待ってろ」
「分かった」
「待ってる間に、氷飴以外に欲しいものも考えておくこと。」
「ヤだ。」
それだけは譲れないといわんばかりに即答した翆に、夜中は小さく舌打ちを打ってから、人混みの中へと駆け出していった。
…きっと「お仕事」の相手を見つけたんだろう。翆には、またしても無根拠な直感が生まれていた。
だから彼女はひとり、とぼとぼと、噴水の置かれた小さな広場へと向かっていった。
夜中は、走った。
人混みをかきわけて追うのは、見事な紅の梅の色の髪だ。艶やかな色彩が目を引いたが、それ以上に、夜中の目を惹きつけたのは――
(拙い、くそ、何で俺が呼ばれたのかと思ったが…)
『店主』は、必要とされている客が居れば、本能にも似た直感でその場所を目指す。
夜中がこの大きな街を訪れたのも、ひとえに、何かに呼ばれている――という誘引力を感じたからだ。もう少し上級の『店主』にもなれば、逆に、必要としている客を店に『呼び寄せる』ことが出来るのだが、残念ながら夜中は若輩で、相変わらず、自らの足で客を探して歩くという日々を過ごしている。
紅梅色の髪を追って走りながら夜中は歯噛みした。自分がもっと力を持っていればこんな目にも会わなかったのに。そう思えば歯痒くて仕方が無い。
「待てよ、ばーちゃん…」
思わず漏れた声は、我ながら情けないほどに掠れていた。
小柄な人影は彼の声など聞こえなかったかのように歩みを進めていく。よく見れば白いものも混じる紅梅色の髪、凛と伸ばした背筋で姿勢良く歩くのが彼女の特徴だった。小さな後姿は人混みに見え隠れしている。ようやく、数歩の距離まで近付いて夜中は手を伸ばした。
「ばーちゃん!…占術師!!」
低い声で委細構わず呼んで、その肩を掴む――
――硬い手応えを返すと思われた手は、呆気なく宙をかいた。
バランスを崩してたたらを踏み、夜中は慌てて、先程確かに老女が居た空間を睨んだ。そこには、誰も居ない。まるで最初からそうだったかのように、誰も居ない虚空が広がるだけ。
鼻に微かに、梅の香がするのは気のせいではないはずだ。先程すり抜けた手を、ぎり、と握りこんで、呻く言葉を胸の奥に押し殺す。
視線を上げれば、そこは、領主が居るという城の前であった。決して規模の大きなものではない。城というよりも、大きなお屋敷と言った体だ。が、小さいながら堀があり、城壁も高い。それなりに古い由緒ある建物なのだろう。
面白くも無さそうにその城を見上げる夜中の目が、眇められた。
「…ふ」
鼻を鳴らして、彼は拳を握る手を胸元まで持ち上げる。抱き締めるようにして、
「亜鉛」
呼べば、抱き締められた手首に熱が走る。
そこには精緻な細工のされた腕輪がある、はずだ。
「お前は…ばーちゃんの気配は分かるよな」
ぶつぶつと、独り言にしては妙にはっきりとした声で言う彼を、周囲を歩く人々がちらほらと奇異の目で見るが、そんなことに夜中は頓着しない。
「分かるんなら、探してくれ。多分、あの城の中。鏡だと思う。」
そう告げて、抱き締めていた左の手を放す。右の手首に、腕輪は消えていた。代わりにそこには、雀程の大きさの、小鳥が居る。…それも鉛色の。
金属で出来ているような小鳥はしかし思いの外に軽やかに、羽ばたいて、夜中の頭に止まった。嘴を開いて漏れる囀りは、けれど、小鳥の歌声等ではない――キキ、キ、という、幽かな金属音。それだけ。
精緻な腕輪だったハズの、鉛色の小鳥は、精緻な玩具の様に羽を動かして、城へと飛んでいく。
一方その頃の翠はといえば。
木のベンチに腰を下して両足をぶらぶらと揺り動かし、ぼんやりと、空を見ていた。雲が無い。太陽は高く、暖かく日差しを降らせている。体全部で日差しを受け止めるような気持ちで、手を伸ばしてみたり、引っ込めて見たり。
通り行く人々は、例えば飼い犬の散歩に来たらしい老婦人だとか、子供を連れた若い夫婦だとか、嬌声を上げて騒いでいる声は若い女の子達だろうか。小鳥が囀り、隣のベンチでは一人の青年が、その小鳥にパン屑を投げ遣っていた。端の方には屋台もあって、冷たく冷やした瓶や菓子が売られているようだった。
そういえば、と、ぼんやりとそれを眺めながら翠は思う。
新月の夜のその日。彼女は、塔の頂上にある部屋で目を覚ました。鏡ばりの壁、中央には花を敷き詰めた不思議な泉がある部屋。泉の中に沈んでいた彼女を、起こしてくれたのは夜中だった。
翠はその時自分の名前すら分からなくて、目の前の人の名前も分からなくて。それでも彼が酷く懐かしくて、会えたのが、声が聞けたのが嬉しくて、泣いてしまった。涙を拭いて、名前を教えてくれたのも、夜中。
――俺が全部覚えているから。
一体私は何で、彼の名前を忘れてしまったのだろう――ぼんやりと翠はそんなことを思う。自分の名前などより、彼のことを忘れていた事実が、翠の胸にぽつりと一点痛みを灯す。
そんなことを思いながら空を見ていた。
「…お嬢さん」
と。不意に、そんな声をかけられる。翠が顔を戻すと、ベンチの隣に、背の低い老女が立っていた。衣服はこの辺りでは珍しく、ブラウスの上にカーディガン、長いスカートだった。カーディガンとスカートは緑、ブラウスは白地の高級そうな布に、丁寧に華の柄が刺繍されている。結い上げられた髪は紅梅色で、白いものが混じってはいたし、顔にも長い時間を思わせるだけの皺があったが、背をぴんと伸ばしているせいだろう。それほど老いては見えない。
「そこ、良いかしら」
彼女は翠の隣を指差して、可愛らしく小首を傾げた。
「はい、良いですけど…」
こちらも小首を傾げて、翠。彼女はぐるりと周囲を見渡してしまった。公園というか、小さな噴水広場となっているその場所には他にも幾つかベンチが据え置かれている。…わざわざ彼女の隣に座らずとも、空いている場所は幾らだってあるのに。
すると、その視線に気付いた老女はくすくすと笑った。口元に手をあてて笑う姿はとっても上品だと翠は思う。きっと、良い家のご婦人なのだろう。
「お嬢さんは、お一人?」
「え、えっと…ええと、…はい。」
「そう。私も、一人なの。少しばかり寂しいものだから、お話をしてくださらないかと思って。」
「えっとー」
夜中にはいつも「知らない人には付いていかないこと」と強く言い含められている。翠は少しの間思案したが、
(お話だけならだいじょうぶ、だよね?)
と自分の中でこっそりと納得することにする。
「はい!」
「そう。良かった。」
ふわりと老女は微笑むと、丁寧にスカートの端を折ってベンチに腰を下した。
「…誰かを待っているの?」
「はい。あの、…お仕事に行ってるんです。わたし、邪魔しちゃうから、ここで待ってるんです」
要領を得ない言葉だが、老女はにこにこしながら頷いて、口を開く。
「私もね。待っているの。…孫なのだけど。」
「おまごさん?」
「ええ。もう良い年なのだけど。ふらふらとあちこち行ってしまう困った子でね…」
困った、と口では言いながら、彼女の口元には優しい微笑が浮かんでいる。それがとても暖かい感じがするので、翠も柔らかい気持ちになって、にこ、と笑った。
「わたしの待ってる人も、すぐにどこかへ行っちゃうんです」
柔らかな笑顔につられたのだろう。翠はぽつり、そんな言葉を漏らしてしまっていた。老女が「そうなの?」と興味を示してくれたのをこれ幸いに、精一杯しかめつらしい顔を作って彼女は続けることにする。
「何もいわないで、待ってなさい、ってそれだけ言って居なくなっちゃうの。それに、元々あんまりしゃべってくれないし。あとね、あとね。お腹が空いてても、おやつは少しだけしか買ってくれないし、疲れてもすぐには休ませてくれないし。それに、」
呟いて翠はしゅん、と俯いた。さっき露店に並んでいた、涼やかな青と緑。蝶々と花の綺麗なかたちの氷飴を思い出して、
「…ひどいよ。欲しいの、買っていいって言ったのに。」
「欲しいのってこれ?」
唐突に、鋭さすらある声がして、翆はびくりとその身を竦ませた。目を上げるとまず飛び込んだのは、先程から心に引っ掛かっていた、きらきら光る氷飴。緑と青の絡まる、花の形を象ったものだった。
それから緩々と、それを差し出す手の持ち主へと視線を動かす。
翆とそう変わらないだろう。まだ幼い少女が一人、そこに居た。片手をぶっきらぼうに此方に差し出して、もう一方の手は長い外套のポケットに突っ込んでいる。薄紅色の瞳とぶつかって、翆はまず口をもごもごとさせた。何から言えばいいのかが分からなかったのだ。
色白の少女はそこだけ異様に鋭い瞳を眇めて、此方を睨んでいる。
「…要らないの。欲しかったんでしょ」
やはり口調もぶっきらぼうで、翆はぎゅ、と拳を握った。
「あなた、だれ?」
少女はそれに答える必要を認めなかった様に、無言である。
「花圃」
答えぬ少女の代わりに、たしなめるような声がかかった。老女が困ったような顔をして、少女を見つめている。諌めるわけでも無いが、言外に何か注意されている気がして、花圃と呼ばれた少女は手を一度引っ込め、老女へ視線を移す。
「…水鏡、」
「お嬢さんが吃驚しているでしょう?…もっと優しく出来なければ。」
「必要ないでしょ?」
憮然として、それでも、老女に逆らうことを良しとは思わなかったのか。彼女は一度頭を掻くと、翆に向き直った。困ったような、苦いような。そんな顔をしている。
「……氷飴。欲しいんでしょ。さっき、屋台の前でずっと、何か言ってた。」
「あ」
ぱっと、翆の頬に朱が差す。――あれを見られているとは思わなかった。夜中に言い諭されている姿を見られたとは。急に恥ずかしくなって彼女は俯き、それでもどうにかもごもごと、
「…そ、そっか、あの、…ありがとう」
「うん」
やはり返答はどこか突き放した冷たいものだ。少しの間、沈黙が流れる。
氷飴に手を付ける様な気にもなれず、翆はどうにか場の空気を変えようと殊更に明るい声で、口を開いた。
「あの、ええと…あなたは?」
「花圃。」
やはりぶっきらぼうに言って、少女は小さな手をまた突き出した。今度はおずおずとだが、翆は、氷飴を受け取る。掌にじんわりと冷たい。
「ありがとう…」
手の中の飴細工はきらきらと細かく輝き、青い薔薇を模した形は大変よく出来ていたので、翆は思わず、ほぅ、と息を漏らしながら謝意を述べる。角度を変えてみれば、日の光できらきらと色を変えて輝く。
「早く食べちゃって。溶けるから。」
が、やはり花圃は素っ気無い。
「う、うん。そうだね。」
食べてしまうのは勿体無い気がするのだけど――という翆の気持ちはどうやら理解されなかったらしい。花圃はといえば、自分の分の氷飴――蝶々の形をしていた――を取り出し、口に含んでいた。
それにつられて、翆も、薔薇の葉をほんの少しだけ齧ってみた。
口に入った透明な欠片はふわりと甘さを広げながら口の中で溶けていく。冷たい感触、甘味の中に微かに酸味が混じって、
「美味しい」
一瞬で溶け消えた残滓を、口の中で舐めとりながら、翠はたまらずにもう一口を齧った。もう一口――
だが、突然彼女は凍りついたように、その動きをぴたりと止めた。その表情が驚愕に染められる。半分ほどになった青薔薇の飴を握る手がぶるりと一度震える。飴が地面に落ちたが、翠がそれを頓着することは無かった。
次の瞬間には、翠の身体もぐらりと傾いで、ベンチの上に倒れこんでいたからである。
どさりと重たい音をたてた身体を、花圃はきり、と唇を噛んで睨む。水鏡がにこりと、――そう、本当に無邪気なほどににこりと――微笑んだ。
「これでいい?水鏡」
「ええ。勿論。」
笑んだ顔のまま、老女は無邪気に、歌うような調子で告げる。
「これで貴女の願いを叶えられるわ」
対する少女はと言うと、にこりともせずに唇を噛んだだけだった。鋭い瞳が険を増して、腕の中、倒れた幼い姿の人形を睨む。
「――」
彼女は口の中で何かを呟いたようだったが、その声は唐突に沸いた子供の喚声に遮られ、誰の耳にも届くことは無かった。