―――暗い石造りの廊下を歩く夜中は後ろを追いかけてきた一人の侍女に呼び止められ、面倒くさそうに鼻を鳴らした。それでも振り返ってやる辺りはいかにも彼らしいと、その肩にとまった小鳥など思うのだが、(さて、わたしはいつ彼の仕草を覚えたのだろう、つい数日前からの付き合いでしかないのに?)
「…何だよ」
「稲穂様が、お礼を、と。見送りはあのご様子では無理でしょうから、せめて私が。」
 声は凛として、この職業に就いて長いのだろう侍女が背筋を伸ばしている姿は、振り返った夜中に足を止めさせるに十分なものだった。元より職業意識の高い彼は、同様に職業にプライドを持った相手を無碍には出来ないのだ。
「…ここは良い侍従に恵まれているな。」
「稲穂様の人柄です」
 にこりと笑んだ女性は満足げに見えた。


 暗い廊下では光も届かず、故に彼の髪色も夜空よりも深く見える。
 その傍らにひそりと羽を休める小鳥の姿は際立って、鮮やか過ぎて、侍女――金冬瓜は目を細めた。
「…花圃様のことは、」
「気にしていない。よくあることだ。…ましてガキ相手に腹を立てたって仕方が無い」
 恐る恐る口にした言葉にはそんな答えがあって、彼女は密かに安堵していた。この年になって、「店主」と呼ばれる一族を目にするのは初めてのことだが、今までの様子を見ているに普通に街中で生活する若者と大差は無いようだ。抑揚の無い口調や鋭い瞳から近寄り難い空気はあるが、それだって恐ろしい、と呼ぶほどのものでもない。
 その彼は、肩に小鳥を、腕には花束でも抱えるように人形を抱えていた。翠の色の髪は運ばれている間にゆらゆらと揺れ、廊下を照らす微かな明りを弾いて光る。その様は、彼の肩の小鳥の羽の色を思わせた。着ているワンピースだけが闇でも吸い込んだように黒いが、それだって髪の鮮やかさ、肌の白さを際立たせる要因にしかならない。
 客人の私的な事柄にまで立ち入ることは、侍女の立場からすればあってはならぬことである。が、やはり興味は惹かれた。外法で造られた、「死者の魂すら宿す」人形。そして美しい声で鳴く、この世ならざる宝石の小鳥。名は――確か、翆、と言ったか。御伽噺に出てくる、夜の宝石を溶かした川の水から生まれる小鳥の名前だ。全くその名に相応しい、美しい小鳥である。
「……すまなかった。そう伝えてくれないか。」
 不意に、彼がそう呟いたのを、物思いに沈んでいた金冬瓜は危うく聞き逃すところだった。問い返すような愚は冒さなかったものの、思わず足を止めて彼をまじまじと見遣ってしまったのはどう考えても失敗だっただろう。
「それは、稲穂様に?」
 ようやくそんな言葉を搾り出した時もまだ尚彼女は混乱の只中にあった。――彼は何を言っている?元より、彼の所持品である人形を屋敷へ持ち込んだのは花圃であるし、彼は稲穂の妻・秋桜の魂を鎮めてくれたのだ。礼を述べねばならぬのはこちらだと言うのに。
 だが彼は、全く予想外の言葉を口にした。
「二人ともに。…今回の件は俺の祖母が原因だから。」
 俺はその後始末に来ただけ。低い声は抑揚が無い。感情も見えぬ声に、金冬瓜は更に困惑する。彼が勝手知ったる道であるかのように、廊下の角を曲がったからだ。
 その先は出入り口ではない。稲穂の執務室があるだけだ。
 そう告げようとして、先を制された。
「こう伝えてくれれば解る。―――占術師の孫だ、俺は。彼女の後始末に呼ばれたんだ。」
 占術師。
 その言葉に、ようやっと金冬瓜は声を零し掛けた口元を抑えた。
 もう二十年も昔になるだろうか。秋桜と稲穂が婚礼を決めて間もない頃に、確かにその名前を聞いた。誰から聞いたのだったか――
(占術師の方に頂いたのよ。)
 脳裏に過ぎったのは、既にこの世には亡い、人の声だった。病弱でよく臥せっていたが、気丈で酷く気の強い女性。婚約したその日に、柔らかく微笑んだ声を、当時まだ見習いでしかなかった金冬瓜は双子の妹と一緒に聞いたのだ。
(この、姿見をですか?)
(そう。彼女の力が籠めてあるのだそうよ。迷った時には覗きなさい、先を示してくれる、って仰っていたわね…)
(私達が覗いてもただの鏡ですが――)
(私が覗いても、今はただの鏡よ。)
 忍び笑った彼女の少女のような笑顔に、妹と顔を見合わせた。屋敷に運び込まれる彼女の家財道具の中にあった、大きな姿見がそれを映している。古びたその姿見を見ながら、彼女は話していたのだ。
(でも、迷った時には、その時には必ず…)
 死に際まで大切にしていたその姿見を、稲穂もまた彼女の形見として大切にしていた。或いは、「迷った時に先を示してくれる」と常に語っていた彼女の言葉を信じてのことだったのかもしれないが。だが、それにしても。
「では、秋桜様の仰っていた占術師、というのは…」
「俺の祖母。腕利きの占術師だった。」
「失礼ですが、既にお亡くなりに?」
「ああ。…もう、五年前か。」
 そうですか、と頷くしか金冬瓜には出来ない。相変わらず抑揚の無い声色から感情は窺えなかったが、まるで代わりのようにその肩に乗った小鳥がピィ、と鳴いた。思わず金冬瓜がはっと目を遣ってしまうほど、その声色は澄んで美しかった。――今までに聞いたどんな鳥の声とも、或いはどんな音とも比較にならないほどに。それはその声に、一種の哀切が響いたせいかもしれない。
「何でお前がそんな声、出すんだよ。」
 対して青年は、僅か、苦笑したように見えた。
「…後始末、ということは…秋桜様は何か、その占術師の方と契約など交わしていたのでしょうか?それとも、何か不手際でも?」
 極力淡々と、けれどこればかりは聞いておかねばなるまいと、金冬瓜は少しだけ声を強くした。彼は主不在の執務室をもう目の前にして、その扉に手をかけようとしている。
 この部屋の中には、秋桜の形見となったあの、姿見があるのだ。
 嫌な予感がしたのか、或いは、予想がついてしまっていたのかもしれない。不安に押されるように、彼女は言葉を続ける。彼が黙して答える気配が無かったのだ。
「不手際であれば何故、この二十年、一度も訪問されなかったのですか?何故こんなにも時が経って、今になって貴方が…?」
 青年に答える気配は無い。
 が、代わりに金冬瓜の頭蓋を震わせるように、奇怪な音が聞こえてくる。音、と表現して正しいかどうか解らないが、それは言葉の形をしていた。
――夜中、せめて説明くらい…
 ぎょっとして足を止めた金冬瓜の存在など端から無視したように、青年は執務室の内側に鋭い視線を遣って笑った。
 確かに、口の端を歪めて、笑ったのだ。
「…やっぱ此処だったか。」
 声は。皮肉とも自嘲とも付かない。だが確かに、室内に向けて放たれた言葉だった。誰か居るのだろうか?
 小鳥が震えて青年の肩にしがみ付くのは奇妙にはっきりと見えたのだが、室内に居る何者かの姿を見ることは出来なかった。室内が暗い。既に夕暮れが近いといえどもその暗さは異様であり、廊下の光すら届かない執務室の内部は黒い、とさえ思えた。背筋がぞくりと震えて、金冬瓜の足が竦む。――先程目撃してしまった、あの異様な光景、黒い影の塊を思い出したのだ。
「悪いな。あの鏡、壊すぞ。」
 ようやく振り返った青年は平板な声と表情でその感情を窺わせもせず、ただそう告げた。抗議の声をあげる暇もなく、彼は扉の中に入ってしまう。異様に暗い室内に入ることを瞬間、金冬瓜が躊躇っている間に扉は閉じてしまった。慌てて駆け寄っても、扉は硬く閉じられびくともしない。
 ―――ごめんなさい、説明は、後で必ず、しますから。
 だが扉に触れた指から、また、あの頭蓋を震わせる声が響き、金冬瓜は瞠目した。
 声色など分かるわけも無いその声は、何故か不思議と、あの小鳥の鳴き声に似ているように思われた。哀しげな雰囲気ゆえかもしれない。
 

 どろりと淀む黒に覆われた室内、姿見の前で老女は一人微笑んでいた。部屋に入ってきた夜中に視線を遣って、肩越しに振り返る。足元の凝る黒を、彼女は侍るように従えている。
「遅かったわね。…自分の親を待たせる物じゃないわよ。」
 夜中はうんざりと目を伏せただけだ。昼間だというのに差し込む光すら吸い取る黒い影を踏みつけるようにして、
「説教なら聞き飽きたよ。水鏡。」
 吐き捨てるなり銃を持ち上げる。水平に構えた銃口に捕らえられて尚、老女は薄らと笑んだままだ。緩やかな調子を聞いていれば、夜中は不本意ながら思い出さずにはいられない。――嘗ては育ての親と、師と慕った女性の。あの声。
 記憶を振り払うつもりでもなかったが、それでも首を振って何かを払わずには居られなかった。
「いや…いい加減に、水鏡を捨てろ。モリビト。」
 肩の上で小鳥が羽を声を、震わせる。低く鋭い夜中の視線に答えた老婦人の言葉は、確かに生前の彼女と同じ声色でありながら、調子はまるで違ってしまっていた。
「――嫌よ。彼女の力は喩え外法と言えど、有用な物。墓所に魂の在る以上、墓所の為に働いて貰う。…彼女の遺した力も何もかも、全て。」
 墓所。「漆黒墓所」は全ての死した魂の行き着く安息の場所。だが、その場所を護る機構――『モリビト』は、その死者の魂すらも利用して、墓所を護ろうとする。その矛盾。だが恐らく彼らがその矛盾に気付くことは無いのだろう。彼等は、水鏡の姿をとる「モリビト」は、機構そのものでしかない。墓所へ起こった異変に対する、防御機構。それ以上でも以下でもなく、人の姿をしながら人と呼べるだけの意思も持たない。
 水鏡の姿をしているそれは。
 ただの、漆黒墓所の、機構の一部でしかない。
 ――あれは、水鏡ではない。祖母ではないのだ。祖母と同じ力、同じ魂を持っていながら既に、異質な物になってしまっている。
 分かり切ったその事実を夜中が改めて認識したのは、その声の調子ががらりと変わってからのことだった。――他の全てが生前と同じだからこそ、その変化は、純白の上に落ちた一点の血のように、違和感を際立たせたのだ。
 水鏡がかつて力を与えたその姿見の前で、彼女と同じ姿形をしたモリビトは、ただ、微笑んでいる。―その姿は、鏡の中には映っては居ない。そこには人のような形をした黒い、霧のような塊が見えるばかりだ。
 水鏡の遺した力を寄り代にして、モリビトは生きる物の世界へと干渉する。
 恐らくはその鏡の為に、モリビトは現れ、秋桜の遺した残留思念は必要以上に生者の前に姿を現した。
 水鏡は生前、「いずれ自分の遺した力が災いを呼ぶかもしれない」と予言していたことがある。図らずしてそれは真実になった訳だ。
「貴方が、墓所に、魔女を返してくれるのならば話は別だけれども。」
 静かな声色は耳に慣れた祖母の物。口調は忌まわしい、墓所の意思の体言。夜中は口元を少しだけ緩めた。銃を構える腕は決して揺らぐことも無い。迷わずに彼は引き金を引いた。弾丸は先程入れ替えてある。
 乾いた破裂音。
 衝撃の反動が抜けて痛む肩を無視して、夜中はあくまでも静かな風を装った。抱えた人形の、ほとんど異様な冷たさと、肩に止まる―勿論、彼が銃を構えていたのとは逆の―小鳥が羽を震わせる感覚だけにしがみ付いて、荒れる感情を飲み込んでいく。
 墓所に魔女を返す。
 何度も同じ言葉を聴かされてうんざりしているつもりだったが、何度聞いても不吉な響きに対する恐怖心は慣れてくれないらしい。
「――魔女は、…翆は、絶対に返さない。」
 小鳥が、鳴く。
 優しい声だ。謳うような。遠く、遥かな昔に聞いたようで、一度も聞いたことが無いような。
 黒い影を踏む足元すら照らすような。
 銃を下ろす。風が唐突に吹き抜けた。窓を覆う黒い影が引き剥がされるようにして消えていく。斜めに傾いた、午後の日差しが真っ直ぐに射抜くように室内に飛び込んできた。
 強い陰影の中で、水鏡の姿をしたモリビトは、矢張り微笑んだまま。
「返せない。約束したんだ。」
 闇に慣れた目にはその光は強過ぎた。しかし目を瞑ることも出来ず、痛みにも似た眩しさを、唇を噛んで堪えながら、夜中は瞼を半分だけ下ろした。
 そして、

 鏡が砕けた。

 全く唐突なその亀裂の音に、モリビトはようやく驚いたように目を瞠った。その愕然とした表情を見て溜飲が下ったと言うわけでも無いが、胸がすくような気分になってしまうのは事実だ。睨んだ視線に笑みを含ませて、夜中は手を伸べる。銃を持ったまま。
「亜鉛!」
 呼んだ名前は、彼の唯一の相棒の名前だった。鉛の色をした、金属の。
 果たしてその腕に、小さな猛禽類のような姿をして、金属の鳥が止まる。鋭い爪は不思議と、その腕を傷つけることは無かった。
 嘴には、鏡の破片を咥えている。
「ご苦労さん、亜鉛。」
 ―夜中の銃が撃ち抜いたのは、窓だった。直接、モリビトの依り代になっている鏡を壊そうとすればモリビトの操る影に遮られただろう。本人を狙ったとしても同じだ。
 それを察して、窓を撃ち。外に居た亜鉛を飛び込ませたのだ。
 モリビトが自分を追って来た亜鉛に気付いていれば失敗するだろうと踏んでいたが、幸いにして、彼女は自分と翆にしか目が向いていなかった物らしい。
 金属生命種の一撃に罅の入った鏡は、振り返ったモリビトの見つめる先で、次第に罅を深く広げ、パラパラと砕けていく。砕けた破片は不思議なことに、毛足の長いカーペットに落ちる寸前で砂のように空気の中へと溶けて消えて行った。それを微かに目を眇めて見遣ったモリビトは、息を軽く吐いて夜中へと向き直る。紅梅色の髪、同じ色の瞳、自分を真っ直ぐ射抜く瞳。死んだその日に濁った色をしていたその色を思い出して、夜中は静かに息を吸った。先程より幾分か呼吸が楽になった気がするのは窓が開いたから、だけでもあるまい。
「形勢逆転だ、モリビト。此処は、退け。」
 低く告げると、水鏡とそっくり同じ形と力のその影は、薄らと微笑んだらしかった。
「―――流石ね、夜中。…それで、良いのよ。」
 それがモリビトの言葉なのか、それとも死んでしまった祖母の言葉なのか、夜中にとってみればそんなこと、些細でどうでもいいことでしかなかった。
 次の瞬間には、光に当てられて溶け崩れるように。ただの黒い影となり、人の形も保てなくなって、老女の姿は砂のように消えた。凝っていた黒い闇も陽光に貫かれて消えていく。
 夜中の肩に居た小鳥がようやく安堵したように、人形の上へと宿った。そうしてそのまま人形の胸へと潜り込む。間も無く、人形の瞳がぱちりと開いた。
 人形の黒かったワンピースは、また、薄桃色に戻っている。光に当てられて、影が消え去ってしまったかのように。
 背中の小さな翼を一度震わせて、小鳥の魂の魔女は淡く微笑んだ。口を開けば、玲瓏な声で、
「夜中、お腹空いた」
「…ああ、俺も疲れた。……あーあ、」
 亜鉛に手を伸ばし、手首にその金属の塊を乗せると、夜中はすぐに抱き締めていた翆を床に下ろした。少女は拗ねたような表情になる。が、夜中は気付かぬ振りをした。
「…あれ、そういえば夜中?」
「うん」
「何でわたし、こんなところに居るの?」
 毎度のコトながら、と、夜中が肩を落としたとき、不意に扉の向こうから声がした。幼く高い、硬質な声。
「――其処に居るの、外法使い?」
「…俺は郵便屋だっつってるだろうが、」
「知ったことではないわ」
 如何にも傲慢な口調で吐き捨てて、部屋に入ってきたのは侍女を従えた幼い屋敷の主の娘。頬には泣いた跡が顕著に残っていたし、目も赤いが、どうやら落ち着いたらしい。それでも堂々と姿勢正しく歩いてくる様子は、流石は領主の娘といったところか。
「…その…悪かったわ。貴方の所有物を勝手に持ち出したりして。」
 人形――中身は翆だ――にちら、と目をやりながらそんなことを言うので、夜中は適当に手を振って、
「それなら本人に言ってくれ。俺の知ったことじゃない。…知らない人から迂闊に物を貰うなと、俺に何度説教させれば気が済むのかね、この馬鹿は。」
「馬鹿、って言わないでよっ。」
 そのやり取りに、花圃は目をむいたようだった。
「貴方はまるで、その人形が人であるかのように言うのね。」
 不思議そうな言い草に、彼は苦く笑った。それきり何を答えるでもなく、
「――鏡、壊しちまった。悪いことしたな。窓も。」
 執務室の惨状に肩を竦める。鏡は枠組みを残して全て消え去ってしまっていたが、窓の方は砕けた硝子が散乱している有様だ。
「いいのよ。きっと。それで良かったんだと…思うわ。」
 逡巡はあったがそう呟くように言って、それから、花圃は静かに顔を上げた。相変わらず顔色は悪かったが、表情はどこかしら晴れやかで、瞳の鋭さも険を潜めた様だ。
「……お詫びと言っては何だけど、お父様が貴方達を夕食に招待すると仰ってるわ。それと、客室を開けるから自由に使って欲しい、と。」
「あー。いや。一応は、俺達の身内の騒ぎにそっちを巻き込んだ形だからな。気は遣わなくて良い」
 夕食、と少しばかり目を輝かせた翆を手で遮って、夜中が告げる。翆が彼の腕にじゃれ付きながら文句を言っていたが、青年が気にする様子は無い。
「お礼よ。黙って受け取って頂戴。」
 一方で花圃も引き下がる様子を見せず、夜中を苦笑させた。硬い表情は相変わらずで、この少女も前途多難だな、などとふと思ったりするが、彼らの「これから」なんて夜中には関係の無いことだ。
「…それじゃあ、お言葉に甘えて。悪いが俺の連れは、相当食べるぞ。」
「そう、厨房に伝えておくわ。他に必要な物があれば言って。多少のものなら揃えられると思うから。」
「ああ、助かるな。…じゃあ、お言葉に甘えて。」


 



 

 
 二人が領主の屋敷で世話になったその翌日、早朝。公園に早々と露店の準備を始めていたレモネード売りの男は、昨日見かけた青年と、翠色の髪に小さな翼の生えた少女と、それから領主様の娘という、何だか酷く変わった取り合わせの客を迎えることとなった。
「ああ、花圃様…に…おや、昨日の。」
「昨日は助かった。有難うな。」
 あまり愛想の良い方では無いのだろう。礼を言いながらもにこりともせずに青年が言う。その傍に少女がしっかりとくっ付いており、花圃は一歩下った場所で少々不機嫌そうにしている。元より、花圃もまた、愛想の良い方ではない――そのことは街の人間なら誰でも知っている。
「約束だからな。御礼させてくれ。」
 言ってから、彼は自分の後ろに隠れるようにしていた少女を前へ押し出した。翠色の長い髪、空色の綺麗な瞳、背中には小さな翼。昨日青年が探していた少女の様だ、と思いながら、男は少しだけ首を傾げた。――昨日は確か、十歳くらいの少女、と言っていたはずなのだが。
 誰がどう見ても、目の前に居る少女は十歳なんて幼さではない。確かに幼いが、せいぜい、十二、十三、くらいに見えたのだ。
 だが男が不思議に思うよりも先に、花圃の、子供にしては硬い声が飛んでくる。
「私達三人分のお菓子とレモネードを。それから、この二人に、お菓子を多めに持たせてやって頂戴?…お礼は十分にさせて貰うから。」
 



紙袋にお菓子を入れると、郵便屋の青年は微かに満足げな笑みを浮かべた。街の出入り口まで見送りに来た花圃は思わず眉を顰める。
「…貴方、本当にその人形に恋でもしているっていうの?」
 冗談にしても趣味が悪い、と思ったのだが、夜中は肩を竦めただけだ。一方で「人形」――翆は、何故か昨日見たときよりも、身体がぐん、と成長していた。昨日は花圃と変わらぬ年頃だったのに、今は随分と成長して、十二、三歳ほどになっている。人形だから、そういうものなのだろう、と花圃は納得するしかない。外法の人形は不思議の塊なのだから。
 果たして、答えは人形の少女から返って来た。昨日よりもほんの少し柔らかさを増した、玲瓏なその声。
「そうだったら、とても素敵。」
「…ああ、そう。」
 そうとしか言葉は返せない。花圃はそれから、ぐるりと夜中を見上げた。
「……本当にお礼はそれだけで良かったかしら?」
「ああ、十分だ。有難う。」
 そうして彼は手を振って、歩き出す。後ろをちょこちょこと小走りに翆が追って行き、途中で一度振り返って、満面の笑みで花圃に手を振った。

「お父さんを、大切にしてあげてね。」

 花圃は少し口の端を緩めて、「愚問だわ」と呟いた。
 その時にはもう、二人の姿は、唐突に掻き消えて見えなくなってしまっていた。――何かの、幻だったかのように。