―――何だ、そりゃあ。
公園に戻った夜中は狭い公園を見渡して思わず呻いた。人混みに目立つ翠色の髪の毛が見えないのは一目瞭然で、隅で暇そうに露店を開いている親父が欠伸をしたのが少しむかついた。
(ここで待ってろって言ったろうが、あの馬鹿は)
苛々と頭を掻いてその露店に近付く。売られているのは薄くパイ生地を焼いて延ばして丸くしたもので、甘い香りがしていたからきっとお菓子なのだろう。更に屋台横には氷の入った木箱があって、そこに硝子の瓶が何本も入れられていた。
一先ず小さな瓶を一つ、それに菓子を買って夜中は屋台の親父に尋ねて見る。
「…この辺に、翠の髪の小娘が来なかったか?」
俺の連れなんだ。そう付け加えると、そろそろ生え際の後退し始めた中年の男は胡散臭そうに目を上げた。
「翠の髪?」
「ああ。腰くらいまでの長さ。年は10歳くらいで、背中に翼があって、空色の目の」
「ああ、もしかして」
小瓶の中身は良く冷えたレモネードだった。少し甘いそれをぐいと飲み干し、意外と自分は咽喉が渇いていたようだと妙なことに気が付きながら、彼は、ぐっと親父の方に耳を澄ませた。
「――真っ黒なワンピースの嬢ちゃんだろう?こんな陽気に黒服なんて妙だと思ったんでよく覚えてらぁ。眠ってたようだったから目の色までは分からないが……」
「な」
一度、小さく漏れた驚きを飲み込むのには少しだけ苦労した。く、と、飲み干してしまった小瓶を握る力を強くして、夜中は、身を乗り出すようにした。驚いた風の親父に構わずまくし立てるように問う。
「黒い、服だったのか。間違いなく?」
「あ、ああ…」
頷く男に思わず舌打ちをしたくなりながらも、夜中は続けた。
「――もしかして、紅梅色の髪の婆さんが居なかったか。」
問いかけの形を取りながらそれは確信に近い。朝に、夜中が彼女に着せた服は薄い桃色で、第一黒服なんて彼は死んだって翠に着せるつもりは無かった。彼女が嫌いな色で、自分も嫌いな色だからだ。だから、彼女が黒服を着ていたというのならば、それは。
厭な予感で背筋が冷えた。
訳も分からずといった風で頷く男に今度こそ隠さずに舌打ちをして、夜中は駆け出そうとした。心当たりならば、無いことも無い。
その背中に向けて、男のドラ声が届いた。
「花圃様がご一緒だったから、領主様のお屋敷かもしれねぇ、行ってみたらどうだい」
理由は知らないが、と、付け加える男に夜中は振り返って、「帰りにまた寄らせて貰うよ」と手を振った。
「礼はその時に」
それだけ告げて、また駆け出す。何だ、今日はやたらと走らされるな、等と思いながら。
石楠花の花壇のある中庭を出て、執務室に戻った稲穂は奇妙な訪問者に気が付いた。開け放した窓から入り込んだのかもしれない。一羽の小鳥のようなものが、パタパタと忙しなく飛びまわっている。
小鳥のような、と言ったのは、それが明らかに生きた小鳥には思われないものだった所為だ。鉛色の金属光沢を持った小鳥などそう居る訳が無い。最初は良く出来た玩具か何かか、と稲穂は首を傾げ、やがて、ぴたりと壁掛け鏡の前に止まった小鳥を見て息を呑む。鉛色の、小鳥の形をしたそれは、キキ、と、金属が擦れるような独特の音で「鳴いた」。
恐らくは間違いない。と、稲穂は珍しく目を瞬かせる。書物でしか読んだ事は無いが――
「金属生命種…か」
確か人の言葉を聞き分ける程度の知能はあると聞く。問いかけてみると、キ、とやはり金属を擦るような異音をたてて、小鳥は首を傾げた。頷いたようにも、思われる。
金属生命と呼ばれる彼らは、その姿を自在に変えることが出来、喋る代わりに自らのたてる小さなその音で会話をすると伝えられる。しかし一方、彼らは人と関わることを厭うとも伝えられていた。理由は解らない――或いはお伽噺に謳われるように、彼らが、死者の魂を宿した存在であるからか。そこまで考えてふ、と、稲穂は口元を緩めた。お伽噺に出てくるのは、あまりに強くこの世に執着した為に鉛の醜い姿で蘇り、その醜悪さと冷たさで人々に嫌われて絶望した、哀れな少女。目の前の小鳥は冷たいだろうけれども醜悪とは呼べない。寧ろ、美しくさえ在る。
所詮、お伽噺。
脳裏を走る姿を目を伏せてやり過ごし、稲穂は、鏡を見遣る。小鳥は何を思ってか、鏡の縁に器用に止まったまま身動ぎもしない。
「…こんな場所に、何用かな。硬く冷たき魂の友人。…その鏡に、何かあるのかな」
今度は小鳥は、こつり、と鏡を嘴で突くことで応じた。こつり、こつり、と二度も突かれ、さすがに稲穂も心配になる。大切な鏡なのだ、傷でも付けられては事である。
止めるべきかと手を伸ばしかけた所で、鏡に映りこんだ自らの手を見て、稲穂は一瞬、息を呑んだ。
…腕には白い、青白い手が、一つ。
静かに絡められている。
小鳥はキィ、と声を上げると、ぱたぱたと飛び立った。開いた窓から、姿を消してしまう。
はっとして見遣った自らの腕は、何の変化も無く、勿論青白い腕もその持ち主の姿も無い。だけれども、ただただ、深く稲穂は息を吐き出し、椅子に身体を沈めた。目元を手で覆い、虚空に呟く。
「……まだ、…ここに居るのか…?」
静かで陰鬱な声は決して、その呼びかける対象の名前を呼ばない。応えの無い名前を口にすることは、喪失を認めるようで苦しかったからだった。決して彼は、その名前を呼ばない。
――あの青白く透ける細い腕の持ち主の名前。
かつて愛した、優しく強い女性の名前。
秋桜。
鏡を再び覗きこむ。青白い腕はじっと、彼の肩に添えられていた。掴むでも縋るでも無くただ、静かに、添えているだけ。
鏡の中にしか居ない彼女に気が付いたのは、彼女が死んで随分経ってからだったろうと思う。この鏡自体、数ヶ月は倉庫で埃を被っていたはずだ。…仕舞ってしまったのは、それが彼女の大切にしていたものだからだった。見ているのが辛かったのだ。だが、結局、この鏡は稲穂の部屋にある。いっそ全て捨て去ろうかと思った時期もあったが、彼女の思い出を何一つ、彼は断ち切れずに居る。――情けない、と、彼女が生きていれば一喝するに違いなかった。稲穂自身、女々しい感傷だと思わざるを得ない。彼女の死は、覚悟の上のものだったはずなのに。
彼女が大事にしていたものの一つであるその鏡は、以来、彼が一人でぼうっと見つめていると、時折、青白い細い腕や、銀色の髪の毛を映し出すことがあった。彼女が直接映る訳では無かったけれど、稲穂には確信できた。――鏡の中には、未だに彼女が残っている。
それに気付いた時の感情は何とも表現し難い。
――まだ、ここに留まっていたのかという、喜びにも似た気持ち。
――まだ、ここに留まっているのかという、哀しみに似た気持ち。
死者の魂は必ず、漆黒墓所へ行かなければならない。誰が決めたのかは知らないがそう定められていることを、この世界の者は皆、生まれながらにして知っている。死した魂は墓所で眠り、まどろみ、新たな誕生へと向かう。死者を「送り出す」葬送の儀式は、魂が無事に漆黒墓所へたどり着けるようにする為の手順だ。勿論、彼女も、そうやって送り出されたはずだ。
彼女の死は、覚悟の上のもので。
漆黒墓所へ行けなかった等と言うことは、その覚悟を穢すようにも思えたのだ。
死んで欲しくなかった、という気持ちが、儀式の邪魔でもしてしまっただろうか。
稲穂が見遣る鏡の中で、青白い腕は身動ぎもせず、ただ静かに、彼の肩に手を添えている。
どれだけの間そうしていただろうか。彼がようやく動いたのは、執務室の硬い扉を叩く音が響いた時だった。
「――誰だ?」
ふぅ、と息を吐いて鏡から目を逸らし問いかけると、侍女の一人の耳慣れた声が応じる。
「失礼します、稲穂様。お客様です、あの…」
金冬瓜―侍女頭の声が珍しく迷っている風であったので、眉を顰めて稲穂は部屋へ入るよう促す。一礼して部屋に現れた金冬瓜の後ろには、怜悧な刃物と同じ色の瞳の青年が居た。
「……奥様に、呼ばれていらしたと…仰っておられるのですが」
「…何?」
「あと、ついでに俺の連れ。…人形の娘が居るだろう。返してくれ。」
鷹揚な態度でそう告げる青年の肩には、先程部屋から出て行ったはずの金属の小鳥が止まっている。同意するようにキ、と小さく声をあげたその姿を見て、理由も無く稲穂は直感した。同じ雰囲気を持った人間を、以前にも…随分以前にも、見たことがあった。
金冬瓜が退出するのを待って、自らも椅子から立ち上がりながら問いかける。
「君は『外法の使い手』か?」
彼は、面倒臭そうに目を細めて肩を竦めただけだった。
「…懐かしい呼称なんか使ってくれるな。今は、『店主』だ。」
あんたの奥さんに呼ばれて来たよ、と、あまりにもあっさりとそう言うので、稲穂は苦笑染みた顔をして、鏡をちらりと見遣った。
鏡の中で、薄紅の色の髪の毛がひらりと舞ったようだった。
診療を終えた花圃は部屋に戻り、人払いをしてから寝台のカーテンを押し開けた。当たり前と言えば当たり前なのだが、人形の娘は、彼女が部屋を出てから全く動いた気配も無くそこに、横たわっている。
ビロードのような黒衣のワンピース。白磁のように透明な白い肌は、花圃のそれとは違い健康な色をしている。血など通っていないのにと思えば、可笑しな気がしたが、それを可能とするのが魔法であり外法なのであろう。
触れれば氷のように冷たい人形を、ただ、花圃は見下ろしている。
視線は鋭い。睨むかのようだ。
「…本当にこんなもので、叶うというの?」
人払いを確かにしたはずの部屋で、その疑問に答えが返る。老女の声だった。
「そのお人形は特別製なの。」
いつやって来たというのだろう。人形の横たわる寝台に、水鏡が腰を下している。
「外法の使い手達の中でも、とびきり腕の良い人形師が居るの。…性格が偏屈で、少しばかり趣味が悪いから、あまり仲間内でも良い顔をされない子なのだけれどね。その人形師が、生涯で二つは造れないだろうと断言した、…これはそういう人形。死者の魂を宿すことが出来る、この世に無二の、外法の粋を集めた結晶。」
穏やかにそう言いながら水鏡は深く皺の刻まれた手を人形の頬に当てる。ひやりと冷たいどころか、氷のような痺れる冷気すら抱くその身体。
「…死んだ貴方のお母様の魂だって、宿す事が出来るわ。」
死んだ母親のコトは、花圃は絵姿と侍女達の話でしか知らない。父に頼めばもしかしたら、何か話してくれるのかもしれないが、花圃はそれをしたことは無かった。一度だけ、父の部屋を覗いて見てしまったことがあるからだ。
母の遺品だという、父の執務室に不似合いな姿見を見ていた父は、不意に、一筋だけ、涙を零したのだ。ほんの少しだけ開いた扉の隙間からその姿を見てしまった花圃は、強い衝撃に、逃げるようにしてその場を後にした。
思えばあの瞬間から、花圃は、素直に父に甘えることが出来なくなったのかもしれなかった。物静かで平穏な父が流した涙。その涙が、失われた母へのものだと察した瞬間。
―――私が母様を殺してしまったのだ。
不意に、花圃は理解したのだ。
母は私を産んだ為に無理が祟って死んだのだという。ならば。
―――父様を悲しませているのは、その原因は、私なのだ。
気が付くと、花圃は自分の部屋へと駆け戻っていた。心臓がばくばくと、音を立てている。自分が泣いていることに気付いて、訳もわからず、寝台に突っ伏していた。
わたしが母様を殺してしまった。
父様は今でも、母様を殺した私を恨んでいるのに違いない。
今の花圃を突き動かすのはその瞬間の衝動だった。それでなくとも花圃はまだ、幼い子供なのだ。父に恨まれているかもしれないというその想像は、彼女を途方に暮れさせるに十分なものだった。
そんな或る日、彼女は水鏡に出会ったのだ。
何処からともなく現れた不可思議な老女は、花圃をその手で撫でて言った。貴女の願いを叶えてあげましょう。
「…お父様に愛して欲しいのでしょう?」
――花圃にとっては致命的なほど、心を動かす言葉だったことは言うまでも無い。
水鏡が人形に手を触れる。右の指先がそっと、少女の人形の頬に触れた。左の手には小さな手鏡。そうして瞼を下ろすと、彼女の口元が笑みの形に歪んだ。見守る花圃には、そう、思われた。
「…漆黒墓所の力は満ちたわね。それでは、始めましょう。貴方達も取り返したい筈よ。」
呟く声は誰に向けたものだろうか。確かに誰かに向けられていることは分かるが、人形の少女は微動だにせず、応える声もまた無い。けれど水鏡は笑みを深くして、頷く。
「そう。此処に居るわよ。貴方達の大切な大切なお姫様は、此処に居るわ。取り戻しにいらっしゃい。」
水鏡の手の中の手鏡が、曇った――と、花圃は思った。曇ったどころか真っ黒く塗り潰されたようだった。黒く染まった鏡の黒さは、やがて鏡に収まり切らなくなったかのようにどろどろと零れ始める。その黒は水鏡の腕を伝い、人形の上へ落ち、そして人形の胸元へと集まる。蛇の集合体か、或いはどろりと重たい泥の動きにも似ていた。――どちらにしてもそのおぞましさは確かなものだ。
無意識に一歩を後ずさっていたことに気が付いて、花圃は小さな手を握り締めた。部屋の空気が重く澱み、寝台の上のあの黒が、部屋に注ぐ光すら奪っているようだ。一際暗く一際重たい部屋の一点で、やがて、何かに耐え切れなくなったように、人形の身体が動いた――びくり、と、大きく痙攣したのだ。そうして、見入っていた花圃は次の瞬間思わず、今度はあまりの眩しさに目を瞑った。
部屋の中央の黒い色の澱む一点。
そこにふわりと、小鳥が羽根を広げている。
宝石か、或いは南国の鮮やかな花か。そんなものを連想させる美しい小鳥は、しかし蛇に囚われた雀のように羽根をばたつかせ、人形の胸の上に落ちる。黒い塊が、小鳥を絡めとろうと動く。
ピュゥイー…
悲鳴のような鳴き声はしかし、酷く美しく、花圃はまた目を瞑った。きっと小鳥は闇に呑まれ食われてしまうのだと予感したのだ。だが。
「退け!!」
低く鋭い声が矢の様に飛び、そして呼吸が軽くなるのを感じ、花圃は慌てて部屋の入り口を振り返る。誰が入って良いと許可をしたのだろう。文句を言おうとした口はしかし、中途半端に開けられたまま硬直した。
「――退け、ここは生者の領域!」
そう叫び、銃を構える青年が迷う素振りすらなく引き金を引くのと。
花圃の後方で、寝台の上の水鏡が人形を横抱きにして飛びずさるのが同時。
しかし花圃はそのどれをも見ていない。
青い髪の青年の後ろに、じっと無表情に佇む人物を見てしまったからだ。
「…お、父様…」
声は咽喉が張り付いてしまったようで、ほとんど口の中に消える程度の音量でしかなく、それでも父はまるで聴こえたかのようだった。じ、っと花圃を睨む。咎める視線に居た堪れなくなって、花圃は俯いた。
―――その直後の、銃声。
ぎょっとして目を瞑った花圃の耳に、またあの鋭い声が飛び込んでくる。
「聞け、死者の領域のモリビト。ここは生者の領域だ。あるべき場へ戻れ!」
「…あらあら。」
困ったような老女の声に目を開けると、手鏡を武器のように構えた水鏡の姿があった。寝台の横、ぐったりと動かぬ人形と、小鳥を半ばまで呑んだ闇を従えるようにして立っている。このような状況下でも背筋を伸ばした綺麗な姿勢、困ったように微笑んだ表情、どれもが銃口を向けられている状況には不似合い過ぎて、見ている花圃は、ぞくりと背筋を震わせた。
―――あれは、何。
「でも夜中?そのお人形の中身がここに居る限り、ここは生者の領域ではなくてよ?」
「だからって死者の領域でも無いだろうが。…くそ。胸糞の悪い…いい加減その姿を止めたらどうなんだ」
「あらあら、ご挨拶ね。孫の様子を心配している祖母の心が分からないのかしら…」
また、銃声。
容赦の欠片も無い鉛の銃弾は、真っ直ぐに、闇の塊を撃ち抜いていた。穴の開いた闇から小鳥がもがいて飛び出す。追い縋るような闇から一直線に逃げて、小鳥は青年の伸ばした手に止まった。ぴぃ、と綺麗な声で小さく鳴いてその指に嘴を摺り寄せる。
「…翆、……ああ、説教は後だ。無事で良かった…」
何かを言い掛けてから飲み込むような間を挟んで彼はそう言い、銃を降ろす。もう片方の手には宝石のように薄く光る小鳥。
「――その魂は死んでも居ないけれど、生きても居ないわ。彼女が居る限り、ここは死者の領域でもある。死者と生者の交わる領域。」
手鏡を手にしたまま、水鏡が呟くように淡々とそう告げる。
その手鏡が、部屋の光景ではありえないものを写し出したのを見て、息を呑んだのはいつの間にか花圃のすぐ背後に立っていた稲穂だった。はっとして見遣った花圃の目に、口を小さく動かして誰かの名前を呟いたらしい父の姿が映る。決して彼が口にはしないその名前。侍女や医師である秋思からしか聞いたことの無い。
母の名前。
慌てて振り返った花圃の目に入った小さな手鏡には、まず、見慣れているのだけれどもここでは見るはずの無いものが映りこんでいた。小奇麗に片付けられたその様子は紛れも無く父の執務室。そして、母の形見だという姿見。まるで合わせ鏡をするように映りこんだ姿見に、
「…ここは生死の境界。」
水鏡が呟く。
合わせ鏡で幾つも幾つも幾つもに増えた鏡の中に。
銀髪が舞っている。水中にたゆたうかのように、ふわりと。
「墓所への道は開けたわ。遠慮すること無くいらっしゃい。貴女の娘が呼んでいるわよ。」
囁くような水鏡の声に、銃声が被る。夜中と呼ばれた青年がまた発砲したのだ。だが、手鏡を狙ったらしい鉛の弾は、手鏡の周囲に湧き出るように現れた黒い闇が飲み込んでしまう。ち、と小さく舌を打つ音。
「止めろモリビト!一度『道』を開けば、墓所と現世のバランスが崩れる!」
「崩れる?」
くすくす、手鏡を音も無く持ち上げて、老女は笑う。
「最初に理を崩した、悪い子は、誰?」
誰かが声を、呑む音がしたようだった。
手鏡の中から、青白い腕が、
音も立てずにぬぅ、と、伸びる。
口を押さえている自らの手に気付き、花圃は、息を呑んだのが自分だったとようやく気付いた。
青白い腕は肩まで露になり、小さな手鏡からずる、ずる、とありえない大きさの物体が出てくるのを花圃は、そうして口を覆い、身体を震わせて見入っていた。その腕――今や腕だけではなく、銀色の長く解れた髪さえも見え始めていた――は青白く、半ば透き通っている。
幽鬼。
本でしか読んだことの無いそんな名前が脳裏を過ぎるのを、無理やりに払って、花圃は呻く。
「…おかあさま…?」
だが。
解れた髪を振り乱し、上半身を手鏡から抜け出させたその存在は、花圃のその声に、ゆっくりと顔を上げる。
悲しそうに、歪む顔。透ける顔立ちはしかし間違いなく、花圃が幾度となく絵姿に見た母のそれだ。
「……して…」
その口から、衣擦れの音よりも密やかに、囁く様な声が漏れる。
初めて聞く母の声。しかしそれは、非難の色を帯びて花圃を責める。
「……どう、して、…こんなこと…」
「――戻るんだ!」
声を返すことも身動きすらままならず、状況に見入る花圃の後ろから、その低い声はまるで春の遠い雷鳴のように響いた。
父の、稲穂の声だった。ぎょっとして振り返る花圃の目の前、普段からどこか陰鬱そうな父は、喘ぐ様に口を開き、眉間に深い皺を寄せている。
苦しそうだ、と。場違いなほど冷静に思った。
「戻るんだ。……秋桜。」
数秒の逡巡を置いて父が口にした母の名に、ずる、ずる、と腕で床を這う女性は悲しそうに首を振った。
そして手鏡を持つ老女は、無邪気にくすくすと笑った。心底から、楽しそうな表情。その手鏡に、劈く様な銃声と共に銃弾が刺さる。砕けた鏡が床に落ちるのと同時に、老女の姿もまた、掻き消えていた。だがそれでも、半ば透ける女性の姿は変わらず、ゆっくりと床に横たわった人形に近づいている。
動けない花圃と稲穂を他所に動いたのは青年だった。銃を手にしたまま走り、そうしながら肩に止まった鉛色の小鳥に鋭く低く、
「亜鉛、お前はばーちゃんを追え!翆は俺がどうにかする!」
言いながら姿勢を低くした青年は、女性が手をかけようとしていた人形を横抱きにして飛び退く。先程の水鏡がしていたよりは丁重に、抱きかかえながら、未だ自分の周囲をぐるぐる回る小鳥を睨んだ。――いや、単に視線を遣っただけなのかもしれないのだが、目つきが必要以上に鋭い為にそう見えたのだ。
「どうにか、する、と言ってるだろう。…早く行け!!」
噛み付くような言葉の勢いに、押し出されるように鉛の小鳥が飛んだ。キィ、と鼓膜を引っ掻くような妙な鳴き声を残して一直線に廊下へと飛び出していく。
一方で人形と、こちらは鮮やかな色の小鳥を抱えた青年は、踵を返して花圃と稲穂に向かって走り寄って来る。思わず身を硬くした花圃の傍まで来ると、青年はまた、拳銃を構えた。銃口が向けられた先には――
「…!」
思わず飛び出しそうになった花圃の身体を押し留めたのは、父の大きな手だった。
「は、放して!お父様…!」
「花圃!」
聞いたことの無い鋭い声に、ぎょっとして花圃は動きを止める。稲穂は低く、冷たくさえ思われる声色で、抑揚無く青年に視線を向けた。
「…夜中、と言ったか。郵便屋」
「撃つな、なんて台詞は聞き入れられない。俺も大事な物がかかっている。」
ぐっと、青年が引き金に力を入れたと見えたのは気のせいだろうか。
息を呑む花圃を相変わらず抱えるように押し留めたまま、父は、それでも言い募った。
「……あれは、秋桜なのか」
「ある意味では。」
そう言い置いた青年の構える銃の先に、今度はひらりと花弁が舞った――と思えたのは一瞬で、よく見ればそれは綺麗に艶やかな小鳥である。それが銃にとまって、夜中を見据えている。空色の瞳がどんな感情を映しているのか等、遠目に見守る花圃には分かるはずも無い。
「……くそ、何だよ。お前の為だろうが!」
だがそこに在る感情を、青年は読み取ったものらしかった。目を眇めて、突然そんなことを言う。ピィ、と小鳥が鳴いた。硝子で出来た鈴を振るような、涼しい綺麗な音。
「聞き分けの無いこと言うんじゃない!撃たずにどうしろって…ああ、もう――」
「……花圃、…花圃…」
青年が何やら押し問答を始めた余所で、擦れた声が花圃を呼ぶ。自分を押し留める手が一瞬力を緩めた隙をついて、花圃は思わず駆け出していた。
「お母様!」
駆け寄り、短い腕を精一杯に伸ばす。銃から意識を逸らすことを迷った夜中の傍らを走り抜けて、息を弾ませながら寝台の向こう側へ。荒れた呼吸は咽喉を切るように痛めたが、花圃は躊躇もしなかった。母の、母の姿をした半透明のそれに触れようと手を、指を、伸ばす。
幽鬼のような姿の母は、それに応じるように手を伸ばし―――
「―――要請が遅いんだよ!阿呆!」
吐き捨てるような夜中の言葉は誰に向けたものだったのだろう。
あとほんの一呼吸。それだけ息を。呼吸を。身体を伸ばせば、母に触れられる。その場所で。
花圃は、身体が凍りつき、崩れるのを感じていた。
―――こんな、時に…!
視界が大きく揺らぎ、歪む。眼球を押すような嘔吐の予感はそのまま悪寒となって、けれど凍る身体は、その悪寒に震えることすらも出来ず、倒れていく――発作だ。時折やって来る、花圃の病がその瞬間に、よりにもよって発現したのだった。足首まで埋まる上等のカーペットに自分が埋もれるのを見ているような心持で、それでも花圃は手を伸ばそうとする。だが。
誰かがその手を取って、母の居る方向とは逆へと引っ張るような力を込めた。
力自体は酷く微弱で、花圃を苛立たせる程度のものでしかない。抵抗しようとする花圃の耳に、今度は、低い声音が届く。
「もう止めるんだ。花圃…。母さんは、そんなことを望んでは、居ない。」
嘘よ。
咄嗟にそう答えようとして、声帯すらもままならない状態であることに気付く。
呼吸さえもが狂いだしたようだった。吐く息と吸う息がぶつかりあい、せめぎ合い、花圃の気管を苛む。呼吸を無理にし過ぎた時のように、脳がぼう、と霞んでいく。
それでも瞼を下ろすものかと目を見開く花圃の前に、幽鬼の女性がぬぅ、と現れる。
それは確かに、絵姿で見た、母の姿だった。
ただし、絵姿と違う――絵姿において意思の強そうな笑みを浮かべていた顔には、今や悲嘆の表情が浮かんでいる。
どうして、かあさま、
今、とうさまに逢わせてあげようと、思ったのに、
それだけなのに、
喘ぎ、喘ぎ、花圃は途切れそうな思考の中でそんなことを思った。
かあさま、どうして、
どうして、そんな、目で、見るの。
どうしてかあさま、私を、
私の体を、
どうして、
「人形がなければ、あの不安定な状態の魂は他の器を探すしかない――ともなれば、恐らくは、一番近しい人間が選ばれるだろう。この場にそういう人間はあんたとあの娘だけ。娘は子供だ。子供は幽鬼の器になり易い。」
淡々と語る夜中は、銃に弾丸を詰め直している最中だった。その眼前、呼吸を荒げて倒れた花圃の身体には、今や、幽鬼の女性が半ばまで身体を埋めている。
だが、女性はそれ以上、少女の身体に入り込むことが出来ない様子だった。
凍りついたように倒れて動かない少女の身体は、今や、持ち主すらも意識を手放し、器として乗っ取るのならば絶好の好機のはずだ。それなのに、何かの力に邪魔されているかのように、動きを止めてしまっている。表情には微かに、苦痛とも、悲嘆とも付かぬ色が見て取れた。
「……何を、したんだ。外法使い…?」
吐息の混じる稲穂の言葉に、夜中は鼻を鳴らした。説明してやるほど親切ではないつもりだ。
―――夜中に『要請』がありました。だから、夜中は術を使うことが出来たんです。今、お嬢様の体の中には、お嬢様を守る別の力が入り込んでいます。幽鬼に乗っ取ることは、出来ません。
代わりに、稲穂の脳裏には鈴を振るような美しい、儚い声が直接響いてきた。驚いて振り仰ぎ、振り返るが、部屋には身動きしない幽鬼と倒れた花圃、それに外法使いと小鳥以外には何も居ない。
声はどうやら夜中にも聞こえたものらしい。余計なことを、と口だけ動かすのが視界に入ったが、銃弾を詰める手を止めることも無く、稲穂はこれを説明の容認と判断した。誰のものかも分からないその声に、問い返す。
「…外法使いは、依頼者の要請無くして術を使うことは出来ないと聞いたことがある。かつてある国の王族によって滅ぼされて後、力を恐れた諸国の王から、そのようにルールを決められたと」
―――はい、そうです。それに外法は世界の理…『律』からは離れた場所にある力です。だから、魔法の使い手達からも、彼らはそのように封印をされました。
「なるほど。だが、彼は一体、誰からの要請で――。正式な依頼ではなければ、力は使えないのであろう?」
鈴振る声はキラキラと音をたてた。どうやら微笑んだらしい。優しい、驚くほどに優しい笑い声であった。
―――それは貴方のすぐお傍に。今なら、私が傍に居ますから、見えるのでは無いかしら…
花圃は、夢を見ていた。
落ちた意識は真っ暗な場所に閉じ込められていて、叫ぼうにも、喘ごうにも、息すらもがままならない。辺りは本当に暗く、何も見えない。
自分の姿すら見ることが出来ない。
暗闇ではなく、濃密な霧のようでもあった。
一人、何も出来ず暗闇に居る――周囲は凍えるように冷たく、もしかしたら空気が無いのかもしれない。
恐ろしさと悪寒に、しかし体を震わせることも出来ない。
もしかして、体が無いのだろうか。
そう思っても、確認も出来ないのだ。身体は全く動くことが出来ず、そして皮膚にすら感覚が無い。
寒い、と思っていたのに、もうそれすらも分からなくなっている。
悲鳴を上げたい。
その花圃の耳に、不意に声が届く。
知らない声だ。
そして産まれる前からきっと知っていた声。
「…花圃」
かあさま。
お母様、助けてください――声が出ない、呼吸も出来ない、体も動かない、その状況でも心を振り絞るように、花圃は叫んだ。優しく名前を呼ぶ声は遠く、近く、それでも確かに聞こえている。
お母様が居る。独りではないのだ。
確信を覚えて、動かぬ体に、出てこない声に、それでもどうにか耐えられそうだ、と勇気を得たその瞬間―――
今度は耳元を囁き掠めるように、優しい声は、非難の色を、帯びる。はっきりと。
「花圃。」
「花圃。」
「どうして、私を呼んだの?」
「どうして起こしたりしたの?」
「私の身体はもうこの世には無いのに」
「私の身体は、貴女に奪われてしまったのに――」
「身体を返して頂戴。」
「私の身体――」
「貴方の、身体を、代わりに――」
遠くから。近くから。それでもはっきりと一言一言が明確に。耳に届く言葉が、花圃の心を突き刺す。耳を塞ごうにも身体は動かず、悲鳴をあげようにも声帯を震わせることさえ出来ない。涙すらも、流れない。
違う。違う。私はそんなつもりじゃなかった。
あの人形を使って、お母様を取り戻せると信じたのに。
どんなに心に叫んでもその言葉がどこかへと伝わる気配など無く、花圃をただひたすら責める言葉だけが、暗闇をあちらこちらで響く。
恐怖と、得体の知れぬ痛みとで、花圃は目を見開き、涙を流すようなつもりで、心の内に叫ぶ。
かあさま、かあさま。ごめんなさい。ごめんなさい。
それでも私は、とうさまを喜ばせてあげたかった。
それでも私は、かあさまに逢いたかった。
かあさまが、私の体を欲しいのなら、持って行けばいい―――だから。
「花圃!」
不意に。
最初に聞こえたのは、まず、鈴を振るような不思議な音だった。小鳥の鳴き声だと気付くには少し時間が必要だった。
母の非難の声の合間を縫うように何度も、鈴の音は響き渡り――そして。
そして、今度は叱責の…しかし、決して非難ではない、優しい声。
「花圃、しっかりなさい。私が命をかけて産んだ娘でしょう!その程度で屈してどうするのですか!」
言い分は無茶苦茶なもので、花圃は、呆気に取られて口を開けた――そうして、体の動きが少しだけ、自由になることに気付く。本当に少しだけの変化だったが、自分の体がまだそこにあることを確認して、花圃は息を大きく吐き出した。呼吸も、きちんと、自分の意識の制御下に収まっている。
「…か、あさま…?」
次に、視界が開けた。
言葉を発することが出来るようになったのと同時、霧が裂けるようにして、視界に美しい色の小鳥が飛び込んでくる。
そして、純白の、絵姿にいつも見ていたドレスの裾が。
「お母様なの…?」
「そうですよ。全く貴女と言う子は、なんて無茶をするのかしら!お陰で、あの外法使いの手を余計に煩わせる羽目になったではありませんか!」
私はそんなこと望んではいなかったのに、と言う叱責の声に、先程までの怨嗟と非難は全く欠片も無い。
腰に手を当ててこちらを覗き込んでいる母の姿は、思いのほかに小柄なもので、花圃は口をぽかんとあけたまま、ぼんやりとその姿に魅入った。
「何を間抜けな顔をしているのです。全く、貴女、今年で…ええと、10になるのですよね?いい加減に淑女としての振る舞いを覚えなさい!稲穂は何をしているのかしら、不甲斐ないですわね!」
そう言いながら差し伸べられた手は、冷たくても確かに体温を感じさせるもので、そして花圃よりは一回り大きい。
ようやく動くようになった手でしっかりと、花圃はその手を掴んだ。
そうして立ち上がり、
目を、開いた。
銃声が響く。
夜中が詰め直したのは鉛ではなく、月鉱片の銃弾。月の力を内に秘め、彼の力を銃弾に伝える。
郵便屋のあだ名を持つ夜中の力は――「送る」ことそのもの。
「あるべき場所へと送り返せ…!」
夜中の命令がはっきりと響く。
銃弾を受け、花圃に半身を埋めていた幽鬼は、光と共にその姿を、散らした。悲鳴すらも無く、どこか、安堵にも似た表情を浮かべて、空気の中へ掻き消える。
後に残るのは、力を失って砕けた銃弾と、花圃の身体。そして。
鈴振るような声にはっとして視線を上げ、稲穂は、娘の傍らに立つ半透明の小柄な人影を見とめて息を呑んだ。
透ける銀色の髪はきっちりと結い上げられ、純白のドレスの裾は風も無いのにゆらゆらと翻っている。意思の強そうなくっきりとした眉と、強い視線が特徴的な、小柄な女性だった。
「…秋桜?」
ようやくといった風で、かけた言葉に、その人影は腰に手をあて振り返る。
「何を間抜け面をしていらっしゃるんですか、稲穂!」
…開口一番、女性はそんな声を上げて稲穂を怒鳴りつけた。夜中は特に驚いた風も無く、「あんた遅いよ」と何の文句だかよく分からないことを呟く。聞きとがめたらしい女性は大仰な仕草で、夜中に食って掛かった。
「ふざけないでくださいな、外法使い!最初から貴方が、きちんと自分のお連れを守っていればこの様なことにはならなかったのですよ!」
「…うっるせぇなー。てめぇの娘の不始末だろうがよ。」
「いいえ、花圃はモリビトに利用されただけですわ」
きっぱりと言い切り、彼女はふん、と胸を張った。風も無く揺れる銀髪は、興奮を示すかのように大きく逆立っている。その姿を見れば確かに、間違いなく、この女性は死者だった――。
「ん、…ぅ…」
花圃が意識を取り戻した時、目の前には小さな、綺麗な小鳥が居た。小首を傾げて、大丈夫?と尋ねている風に見える。
「…助けてくれたのは、あなた?」
尋ねても答えは無く、代わりに、小鳥は視線を夜色の髪の青年へと遣った。それから、半透明に透ける、何やら叱責している風の母の姿。
くすり、と花圃は笑った。
随分と久しぶりに、自然に笑ったことに自分で気が付いて驚く。
「……お母様は、思ってたより、ずっと凄い人だったのね。」
その声に気付いたのかもしれない――稲穂と夜中に何やら言い募っていた秋桜が、はっとした様子で花圃を見つめる。そうして彼女は全く突然、花圃に飛びついた。
先程幽鬼に触れた瞬間の恐怖が脳裏を過ぎって、花圃は一瞬身を硬くしたが、すぐに、柔らかい冷たさにほっと、息を緩める。匂いは無い。感触も、触れているのかいないのか酷く曖昧だ。それでも、彼女にとって初めて知る、そして恐らくは最後になる、母の感触だった。
「…花圃。良かった―――」
母の声は耳元で、微かに震えているようだった。
頷いて、花圃は、呟く。
ずっとずっと、ここ数年ずっと、母の絵姿を見るたびに、母の墓へ参るたびに、心の中に繰り返してきた言葉。
「お母様…私、私…ごめんなさい…」
震える言葉で紡がれたその謝罪に、しかし、母は一度身体を離すと、花圃の額を小突いた。
「馬鹿ね。謝る必要なんて何処にありますの?貴女は、私の、誇りです。私が命を賭けた、確かな誇りであり、証です。」
凛とした声と言葉。
花圃ははっとして、母の顔を見上げる。
絵姿で見るよりも、その笑顔は堂々として、美しいと思った。
「…私が貴女に教えてあげられるのは、胸を張って生きること。それだけです。花圃。分かりましたね?」
涙がこみ上げてくる。
涙で視界がぼやけ、母の姿が見えなくなることを恐れて、花圃は何度も何度も、袖で目元を拭いながら、頷いて答えた。
一方で、父の声も聞こえてくる。父は震えているようだった。
「秋桜、済まない。花圃が――」
「全くですわね。男親一人というのはこんなにも頼り無いものでしたかしら」
取り付く島も無いというのはこのことだろう。秋桜はふん、と顎を逸らし、更に言い募る。
「稲穂。花圃のことは貴方に託したはずですのに。何故花圃がこのような無茶をしでかしているのかしら」
返す言葉も無い稲穂が、不意に微笑む。
父の笑顔を見るのも久方ぶりのことで、花圃は思わず、涙も止めてその表情を見つめた。
「…本当に、済まなかった。秋桜…。心配をかけてしまった。」
「全くです。貴方ときたら、本当に頼りにならないんですから。」
ふ、と母も微笑んだ様だった。今度は柔らかく、まるで少女の様に。
「本当は心配で仕方が無かったんですよ。貴方を残して逝く事が…」
済まない、ともう一度言い、稲穂はゆっくりと小柄な身体を抱き締めた。
ゆっくりとその背中へ腕を回し、秋桜は、彼の胸に顔を埋めて、泣きそうな顔になる。
「…でも、もう…行かなければ。外法の使い手に頼んだことも果たせそうですし…どうか、稲穂。花圃をお願いします。」
ぎゅ、と最後に一際強く、稲穂の背に回された腕に力が込められる。
それが最後だった。
窓の外から不意に強く差し込んだ一条の光に、溶けるように、光になって、半透明の小柄な身体は、消えていった。
小鳥が一度、長く、その美しい声で歌う。
暫くの間、部屋は沈黙が支配していた。最初に沈黙を破ったのは、ほとんど部外者に近い夜中である。無遠慮に動いた彼は、先ず拳銃を腰のホルスターに納め、左腕に抱えていた人形を横抱きに抱え直す。その肩に、ふわりと光の跡を描いて、小鳥が止まった。
「さて、亜鉛が心配だ。行くか。」
小鳥にそう呟いた夜中を、留めたのは稲穂だった。力無くその場に立ち尽くしていたのだが、泣きじゃくる花圃に歩み寄りながら、声をあげる。
「…君の、『依頼』は何だったんだ?」
矢張り夜中は面倒くさそうに眉根を寄せただけだ。本当に、説明する必要性を感じていないのだった。代わりに稲穂の脳裏にはまた、あの、鈴を振るような声が響く。
―――貴方の奥様の言葉を伝える為に、最初は呼ばれたんです…想定外で、花圃さんを助けることにもなりましたけれども。
「言葉…?」
「あんたも聞いただろ。『花圃をよろしくお願いします』、それから――花圃に、『胸張って生きろ』って。どうも、心配するあまりに残留思念がこちら側に留まって…、で、お前さんたちの様子を見ていて更に不安でたまらなくなったらしいな。」
普通、残留思念ってのは放って置けば消える程度のモンなんだけどな――そう付け加え、今度こそ部屋を出ようとした青年は、そこではたと気付いて振り返った。
「そうだ。さっきの『幽鬼』は…あの、水鏡の呼び出したほうのアレな。アレは、墓所で眠ってる方のあんたの奥さんの魂だ。無理やり呼び出されたから、あんな風に歪んじまったけどな。…で、後々迷惑かけられても面倒だからここで伝えておく。しっかり聞けよ。」
―――夜中、そういう言い方は、
口を挟んだ『声』も、夜中は不機嫌そうに突っぱねる。
「俺はちょっと今機嫌が悪いんだ。お前も原因なんだからな、翆。」
言いながら彼はじろりと小鳥を見遣り、それから、稲穂にやや険を帯びた視線を投げた。
「暫くこの場所は死者の領域と近しくなる。どうもその娘は病弱らしいな。一ヶ月くらいは、他の部屋に移しておいたほうがいい。」
「…そうか。」
「あんたの部屋が一番だと思うよ。…余計なコトだとは思うがね、その娘に、死者の方向ではなく、生者の方向をしっかり見せておいた方がいいから。」
それだけ言うと、今度こそ彼は踵を返して、部屋を後にした。悠々と歩き去る姿が廊下の曲がり角に消えるのを見送り、稲穂は、未だ涙の止まらない様子の花圃へと近づいた。
見れば見るほどに母に似たその娘の姿は、確かに、彼にとっては悲しみを呼び起こすものでしかなかったが。
だが、それでも。
(――稲穂。花圃を、お願いします…)
…花圃を避け、秋桜を悼み続けることを、何よりも当人が望んではいない。
稲穂は、ゆっくりと花圃を抱き上げた。思えば赤ん坊の頃に何度か抱き上げた程度で、以来、こうして抱き締めてやることをしてこなかった――赤ん坊の時に、壊れそうで恐ろしい想いをしたことも起因しているのだが。
驚いたように目を瞠る花圃に、稲穂は自然に、微笑みかけることが出来た。
「…花圃。お前の悩みに気付いてやれなくて、済まなかったな…」
「い、いえ…。…お父様…」
「時間はかかると思う。」
稲穂は、そうして、花圃の瞳をしっかりと見つめて、告げた。
今まで黙して語ることの無かった胸中を、娘に、初めて告げたのだ。
「私はお前の母さんを本当に愛していた…愛している。だから、きっと、お前を見れば彼女を思い出して哀しい。…だが、悼む事よりも、愛することこそ、今はきっと必要なのだろう。だから、きっと…」
花圃は、何も答えなかった。
ただ、稲穂の首に小さな腕を回し、そして、子供らしく甲高い声をあげて、泣いた。
泣き声が嗚咽に変わり、そうして眠りについてしまうまで、稲穂は何も言わずに、彼女を抱き締め続けた。